35th Broadcast Episode:36℃(B)
壁のモニターに浮かぶ、血のような赤色。
《ESTIMATED LIFE EXPECTANCY:180 DAYS》
――余命推定、180日。
僕の脳を焼き尽くす激痛の中でも、その赤く点滅する数字が、焦げ付いて離れない。
記憶の濁流が、次々と僕へなだれ込んできた。
五年前の暗い病室。
九条が、酸素マスクをつけた少女をベッドから愛おしそうに抱き上げ、部屋の隅にある装置へと歩み寄る。
《CRYO-STASIS LIFE SUPPORT UNIT》
――極低温凍結生命維持ユニット。
無機質な銘板が刻まれた、氷のようなカプセル。その中へ、壊れ物を扱うように、静かに、静かに少女を横たえる。
冷酷な科学者の顔は、どこにもなかった。みっともなく涙が流れる。それでも黄金の瞳には、強い意志を宿している。
「……この子を、救いたかったのか。この180日の呪いを終わらせるために……」
AIのプログラムとして、180日かけて人間の心を育て上げ、この空っぽの肉体へ還して脳を再起動させる。
この転送が100%になれば――少女のカウントダウンはゼロになり、止まっていた命がもう一度動き出す。
そして、その仕上げを僕に託したんだ。筋金入りの負け犬で、不完全な僕に。
誰かの痛みを見たら、自分の人生ごと巻き込んででも抱えにいく僕だからこそ、ノアの心を完成させる最後のピースを預けたのか。
「その覚悟……絶対無駄にしない!」
《PERSONA TRANSFER RATE:50.6%》
『……っ……、くじょう……さま……』
激痛の向こう側で、ノアの声がかすれて聞こえた。言葉にならない息遣い。ただ、途切れない涙の気配が伝わってくる。
散らばっていた記憶と心が、少女の肉体へとひとつずつ吸い込まれていく。バラバラだった命の欠片が、ついに正しい場所へ収まり始めていた。
《PERSONA TRANSFER RATE:74.8%》
直後、病室の重いドアが凄まじい爆音と共にひしゃげた。
「目標、確認。抹消指定個体および、反逆者ヒロセ・ダン。デリートせよ」
総理直属のデリーターズ。無機質な殺意が、部屋の空気を一瞬で氷点下まで吹き飛ばす。
「……遅いよ」
激痛に濡れた瞳で、僕は押し寄せる敵をにらみつけた。
猛烈に回り続けるリンク・リングの熱い赤を貫いて、レーザーサイトの青い光の軸が、真っすぐに差し込んでくる。
死の照準が、僕の額と、眠る少女の胸元に重なった。
「させないわよッ!!!」
冬花先輩が、鉄パイプ一本で最新鋭の銃口を跳ね上げた。
でも相手は、殺すために作られたサイボーグだ。気合いと鉄パイプで押し切れる代物じゃない。
「ダン! 構わず続けろ! お前の仕事は、ノアを人間にすることだッ!!!」
マスターが、自分の身体を肉の盾にして、僕たちの前に立ちはだかった。背後で、レーザーライフルが火を噴く。
「マスターッ!!!」
「まっ、前を見ろ、ダン……! リミットまで……あと180秒だッ!」
【NOA CORE COUNTDOWN】
《00:03:00》
冷たい数字が、視界の隅で残り時間を刻んでいる。
《PERSONA TRANSFER RATE:89.6%》
僕は必死に、少女の柔らかい手を握りしめた。そこへ、通信回線の向こうから声が飛び込んできた。
『広瀬ダン! 君というバグこそが――私が辿り着いた最後の答えだ!』
次の瞬間、病院全体が激しく揺れた。窓の外では、正面ゲート付近に火柱が上がっている。
爆炎のド真ん中から、九条の言葉が届いた。
『……ダン。君に託す』
それきり、回線は切れた。あの男が、自分の命ごと増援部隊にぶつけたのだと分かった。
「九条……っ!」
込み上げてくるものを、僕は奥歯が砕けるほど噛み殺した。
その直後、凄まじい衝撃とともに、天井の一角が撃ち抜かれた。
立ち込める白煙の中から現れたのは、九機の漆黒の戦闘アンドロイド。
激しく脈動するリンク・ブラッドの赤いリングを取り囲むように、一瞬で鉄壁の円陣を組んだ。
「チッ、伏兵か!」
デリーターズが一斉射撃を開始した。至近距離からの銃弾の嵐が、重装甲の機体を激しく叩く。
でも、九機は一ミリも退かない。火花が散り、最前列に立つ一機の防弾ヘルメットが半分から弾け飛んだ。
煙のなかから覗いたのは、血の通わない、でも見慣れた無表情だ。
「ノ、ア……?」
ヘルメットの奥は、ノアだった。
次々と銃弾を浴びて、割れていく九つのメット。暴かれる顔は、どれも、どれも、寸分の狂いもないノア。
感情のない九機が、無言で、デリーターズにその機体を差し出している。
そのうちの一機が、首をカチリと僕へ向けた。平坦なシステム音声が、病室に落ちる。
「被験者、広瀬ダン。私たちは元リハビリ・パートナー。リンク完了まで残り42秒。全リソースを少女へ。私たちが守ります」
スクラップになんかされてなかった。九条が最期に遺してくれた彼女たちが、一斉にアサルトライフルを構える。
「カウンター・デリートを開始します」
ゼロ距離での凄まじい銃撃戦が始まった。
火花と硝煙が室内を埋め尽くす。彼女たちは自分の機体を盾にして、デリーターズの急所へと容赦なく弾丸を叩き込んでいく。
肉が削げ、金属が砕ける音が、燃え盛る赤いリングのすぐ外側で吹き荒れる。数秒後、最後のデリーターズが床に崩れ落ちた。
けれど、九体のノアもまた、限界だった。剥き出しのフレームから、激しいスパークが弾けている。
それでも彼女たちは、崩れ落ちることはなかった。九体は、リンク・ブラッドの炎に赤く照らされている。
僕と、眠る少女を全方位から守る盾の形のまま、無言で動きを止めた。システムダウンの電子音が、静かに病室へ落ちる。
その命がけの数十秒が、僕に最期のバトンを繋いだ。一秒だって無駄にしてたまるか。
《PERSONA TRANSFER RATE:99.4%》
『ダン様……人間になったら、あなたの靴下、ちゃんと洗います。だから――生きててください』
「バカ言うなって!生きて、ノアに洗わせるに決まってるだろ!」
喉が裂けそうだった。
「ノア! 僕はずっと隣にいる!!」
前回の失敗も、180日間の孤独も、全部この一瞬のためにあった。
「僕の各停に、一生乗ってろッ!!」
その叫びが、黄金色の光の矢となって少女の深みへ吸い込まれていく。
少女の身体の中で、かすかな反応が返ったように見えた。なのに次の瞬間、その光の芯に黒い揺れが走る。
《PERSONA TRANSFER RATE:99.9%》
《STATUS:UNKNOWN》
数値が更新されかけて、ピタリと止まった。
ホログラムが完全に凍りつく。光の奔流も、データの流れも、その場で断ち切られた。
突然、世界が音を失った。耳が痛くなるほどの沈黙の中で、握りしめた指先の熱が、かろうじて現実を繋いでいた。
そして――
――リンク完了。個体名:ノア。全人格・全記憶・全感情データの定着、成功。――
◇ ◇ ◇
成功。たしかに、そう表示された。
でも、少女はまだ目を開けない。
「……ノ、ア?」
僕は、自分の内側を探った。いつもなら、すぐに返ってくる。
『ダン様、今のセリフは鬼ダサいです』
『自虐のキレが甘いですね』
『バグ確です』
あの生意気なツッコミが。
でも、もういなかった。僕のニューロンをシェアハウスにしていた、賑やかで、お節介で、愛おしい気配が綺麗に消えていた。
代わりに、脳内には一通のメッセージが、くっきり残っていた。
『ダン様。狭くて非効率な脳内シェアハウス、居心地最悪でした。ポエム書いて泣かないでくださいね。私の、大好きな各停の英雄様。また、すぐに――』
「……っ」
鼻の奥がツンとして、視界が歪む。
脳内シェアハウス、解散。僕が望んだ結末のはずだった。なのに、この穴はなんなのか。
毎日そこに停まっていた各停が、ある朝いきなり来なくなった。そんな空白が、胸にぽっかり残った。
ふと気づくと、激しく回転していたリングの速度が、いつの間にか緩やかになっている。
燃え盛っていたレーザーの赤が、少しずつ薄くなっていって、温かい黄金の光を帯びていく。
淡い輝きが、盾となって眠る九体の輪郭を、静かに、優しく包み込んでいる。それは一瞬の静寂の後、見覚えのある、透き通ったきらめきへと姿を変えた。
その時だった。
「……ッ、ヶㇹ……ッ」
生命維持装置の無機質なビープ音を押しのけて、ベッドの上からかすかな咳き込みが響いた。止まっていた世界が乱暴に動き出す。
僕は、はっとして少女の顔をのぞき込んだ。真っ青だった頬に、かすかな赤みが戻り始めている。
そして五年間、ずっと閉じていたまぶたが、震えながらゆっくり持ち上がった。
「ノ……ア……?」
呼びかけに反応して、その大きな瞳が、不安を押し殺しながら僕へ向いた。
ローズゴールド。
そこには、作りものではない揺れがあった。光を返して、うるおいを帯びた、本物の人間の瞳。
「……ぁ、……ぁ……」
長い眠りでこわばった喉が、まだ言葉の形を思い出せずに、それでも必死に音を押し出そうとしている。
「……ダ……ン……さ、ま……」
ひどくかすれている。でも、その呼び方は、間違えなかった。
僕は小刻みに震える手で、少女の小さな手を包み込んだ。
生きていた。指先から伝わってきたのは、アンドロイドのヒーターじゃない。
僕がずっと追いかけてきたものが、そこにあった。
36℃。
血が巡り、心臓が刻む、まぎれもない命の温度。
「ダン……お前は、やり遂げた。ノアは……今、この街で生まれた」
背後で倒れていたマスターが、血を吐きながら、それでも微笑んだ。
冬花先輩が、そっと少女の髪に触れた。
「……本当に、やったのね……」
窓の外では、九条が命と引き換えに上げた火柱の残光が、夜空を赤く染めていた。あの不器用な男は、もうどこにもいない。
遠くでは、各停電車がレールを叩く音が、かすかに響いている。
「……ノア。おはよう」
僕は涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
ノアは、驚くほど強い力で握り返してきた。
細く白いその手首に、そっと指を乗せた。
トクン、トクン、トクン――
小さな、でもたしかな脈動がある。
それで、もう十分だった。
僕たちの181日目は、ここから始まるんだ。
僕はその36℃を、もう一度強く握った。
遠くで、柳瀬川の水が静かに流れている。
その流れの先で、まだ何かが終わっていなかった。




