34th Broadcast Episode:36℃(A)
「おやすみ。すぐに行くから……待っててくれ、人間のノア」
その言葉の余韻が、まだ脳裏に残っていた。
僕の手は、開きかけたドアに触れていた。ノブは凍えそうなほど冷たくて、熱をじわじわと奪っていく。
激しい鼓動が耳のすぐ横で暴れていた。
頼むから落ち着けって。
これは、ただの引っ越しなんだ。
何度そう言い聞かせても無駄だった。
僕は息を殺して、扉をさらに押し広げた。わずかに開いた先から、消毒液の匂いと、電子機器の熱っぽい気配が流れ込んでくる。
奥には、音が死んだと思うほどの静けさがある。足音を呑み込みながら、部屋へ足を入れた。
月明かりがカーテンの隙間から差し、ベッドの上の少女を不自然なくらい青白く照らしている。胸が、かすかに上下していた。
ためらいながら一歩近づく。足元の床が、キュッと鳴った。その小さな軋みさえ、病室の中ではひどく大きく響く。
ベッドの真横に立ち、僕はゆっくりと顔をのぞき込んだ。
その瞬間――
思考が止まり、意識の底で何かが裏返った。
「……っ」
喉から、声にならない息が漏れた。
シーツの中で、少女が眠っている。閉じたまぶたと頬の線が、くっきりと光に浮かんだ。
僕は、それを現実として飲み込めなかった。
地下室で焼け落ちて、もう記憶の中にしかいないはずの面影。左端のまつ毛の白銀、生意気そうで真っすぐな唇、見慣れた輪郭。
180日、何度も眺めてきた顔と、ぴたりと重なった。
「……ノア」
膝の力が、一気に抜けていった。アンドロイドのノアと、寸分違わない少女が、そこにいる。
でも、この子は機械じゃない。淡い光の下で、そこにはたしかに生きている温度があった。
衝撃が強すぎて、声も涙も出ない。全身が、からっぽ。ただ、自分を支えていたものが、下から順に消えていった。
「なんなんだよ、これ……」
口がうまく開かない。
「僕は……ずっと、何を見てきたんだ……?」
そのまま意識は、底のない暗がりへと引きずり込まれていった。
◇ ◇ ◇
どれだけ沈んでいたのか。
一秒か、一世紀か。
頭が真っ白なところを、背後から追いついてきたマスターの声が割った。
「ダン。彼女こそが、ノアの原型……オリジナルの少女だ」
その一言で、止まりかけていた思考が無理やり現実へ引き戻される。
「五年前、柳瀬川の近くで起きた凄惨な事故で、彼女は身体を残して……心は、遠い場所へ置き忘れてしまった」
マスターは、ベッドに眠る少女を見つめた。横顔には、祈りと懺悔が同時ににじんでいた。
「九条はな……プロジェクト・プロメテウスという狂った進化の裏で、ずっと彼女を生かしたまま隠してきたんだ」
口調は静かなのに、胸の一番深いところへ鈍く沈んでいく。九条が守っていたものの輪郭が、そこで初めて形になった。
「国家という濁流に飲み込まれぬよう、川底で息を潜め、たった一人で逆らい続けてな」
冬花先輩は、病室の入り口で、崩れ落ちるように立ち尽くしていた。
十年間、追い続けてきた九条という男の影。その裏に、自分の知らない真実があったのだと、ようやく気づいたのだ。
冬花先輩の肩が、沈黙したまま震えている。
「なぜノアのコアが、この子の脳波と一致したのか。……それは、偶然でも奇跡でもない」
マスターは少女から目を離さずに、続きを絞り出した。
「ノアの心は最初から、この子の器に還るために、九条によって大切に育てられてきたんだ。……人間を愛するバグとしてな、ダン」
言われたことの重さが、すぐには飲み込めなかった。
あの男は、ノアを人間として生かすつもりだった。そんな発想、僕は一度だってしたことがなかった。
「もしこの子が目覚めれば、世界はもう二度と、AIを道具とは呼べなくなる。こんなものが表に出れば、国家が黙っているはずがない」
その告白を聞いて、頭の中でひとつの線が繋がった。
九条が背負っていたものの重さを、ようやく理解した。人間味ゼロの男が、この街の片隅で、こんな途方もない償いを続けていたなんて。
僕はそっと手を伸ばし、少女の温かく柔らかい指先に触れた。そして、窓の外の赤い夜空を見上げる。
「……九条、不器用すぎだって……」
その直後、意識の奥で、眠ったはずのノアが強く揺れた。
『……あ……。ダ、ン……様……?』
ノアの呼びかけが、途切れ途切れに聞こえてきた。少女の体温に触れたことで、境界線が溶けたのか。
「ノア……。わかるか、ノアッ!」
『……はい……。わかります。ダン様が……すぐ近くにいます……』
しばらく間があった。
『私……ほんとに、ここまで来たんですね……』
少女の身体を前にして、ノアは言葉を探していた。僕とノアの境目が、少しずつ薄くなっていく。
次の瞬間、残酷な現実が割り込んだ。
【NOA CORE COUNTDOWN】
《00:09:48》
視界の端に、無機質な数字が冷たく点灯した。
あり得ない再会の中でも、現実は容赦なく秒を削っていく。感傷に浸る暇は、もうなかった。
廊下の向こうから、軍用靴が床を削る、機械的で冷酷な足音が響く。それは、今まで追ってきた特務局の部隊とは違った。
もっと重い、もっと死の匂いがする、絶対的な暴力だ。
「……九条の部隊じゃない、ってことは」
「デリーターズ……内閣総理大臣直属の、抹殺部隊だ」
マスターが表情を歪めて告げた。
広域電磁ロックダウンは、彼らによって強制解除されていた。九条の裏切りは、すでに国家の頂点にバレている。
『お兄ちゃん、急いでってば!九条がひとりで食い止めてるけど……限界だよ!もう、ヤバいのがそっち行ってる!』
凛の通信が聞こえた、その直後。廊下の角で銃を構えた冬花先輩が、喉が張り裂けそうな勢いで名前を呼んだ。
「ダンッ!!」
真っすぐ飛んできた叫びが、終わり際で裏返った。
「九条は今、自分の命で時間を買ってるのよ!」
その目は、銃口の先をにらんだまま動かない。
「あいつは最後まで何も言わなかった。でも、もう分かったでしょ? ノアを完成させろ、先へ行けって……そう言ってるの!」
そして、今にも泣き出しそうな声で吐き出した。
「早くしなさい、ダン!! あの不器用な男の最後を、無駄にするんじゃないわよッ!!」
その絶叫で、止まりかけていた僕の身体が無理やり前へ戻った。あの九条が、今も命を張って、僕を先へ押し出してるんだ。
思考の端では、残り時間の数字が、灼けた鉄のような赤で点滅している。
僕は、自分と同じ顔をした少女を見て戸惑うノアをなだめるように、こめかみを強く叩いた。
「ノア! 行くぞ! 本当の家に、僕が案内してやる!」
『……はい、ダン様。……あなたの各停列車に、終点まで乗せてください!』
「ダン、時間がない! お前のニューロンを橋にして、ノアをこの子の脳へ流し込むぞッ!」
マスターが、少女の側頭部と僕の頭を銀色のケーブルで繋いだ。
その瞬間、ケーブルから目を刺す閃光が噴き出してきた。レーザー状の鮮烈な赤が、二人の周りを囲む光の輪になって、高速で回転し始める。
まるで命の脈動――リンク・ブラッド。
燃え盛るそのリングは、僕のドクドクという鼓動に合わせて、激しく収縮を繰り返していた。
淡いホログラムが、遅れて目の前に立ち上がる。
《PERSONA TRANSFER RATE:0.3%》
同時に、世界は真っ白な雷撃に貫かれた。
「ダウンロード、開始ィィィッ!!!」
マスターの号令で、ノアの膨大な記憶が少女の脳へ流れ出した。
数値が跳ね上がる。
《PERSONA TRANSFER RATE:12.7%》
「……ぐ、あああああああッ!!!」
頭の中が、本気で焼き切れそうだ。前回の傷口を、もう一度無理やり裂かれる激痛。
表示は、容赦なくどんどん上がり続ける。
《PERSONA TRANSFER RATE:33.9%》
でも、その苦痛の先に、九条が隠していた決定的なピースが見えた。
僕を通して、少女の内面に眠るオリジナルの記憶が逆流してくる。
それは、五年前の志木――柳瀬川の風景だった。
◇ ◇ ◇
ヒマワリが、夏を追いかける勢いで咲き乱れている土手。入道雲がゆっくりと空に積み上がり、その下で、幼い少女が笑っている。
その隣で、今よりわずかに若い九条が、不器用な手つきでアイスの棒を差し出していた。
少女が受け取った木棒の端には、下手くそなマジックの文字。
『ノア、お誕生日おめでとう』
九条は顔をくしゃくしゃにして、黄金に輝く瞳からボロボロと涙をこぼしながら、少女の頭を優しく撫でていた。
その手には、痛いほどの温もりが宿っている。胸が締め付けられるほどの、底なしの愛情。
「九条……。 この子は……」
理解が追いつく前に、視界が激しい閃光と雷鳴のようなエラーノイズで引き裂かれた。
《WARNING:DATA OVERFLOW》
《PERSONA TRANSFER RATE:48.2%》
弾け飛ぶ光の渦。記憶の断片が、狂ったように高速で切り替わる。次に僕の脳内へ叩きつけられたのは、柳瀬川の光景ではなかった。
薄暗い病院の集中治療室。
酸素マスクをつけ、微動だにしない少女のベッド脇で、頭を抱えて膝をつく九条の姿だった。
壁の心拍モニター。その傍らで、鮮血のような赤色で点滅する、残酷な数値。
《ESTIMATED LIFE EXPECTANCY:180 DAYS》
――余命推定、180日。
「……180……日……」
思わず、かすれた声が漏れた。
ノアに組み込まれた、あの不条理なプログラムの期間。
僕たちの運命を狂わせた、180日という数字。
脳を焼き尽くす激痛の向こう側で、世界の前提が、音を立てて崩壊を始めていた。




