33rd Broadcast Episode:唯一の器(B)
夜空で、九条のサーチライトが何本も交差していた。
見慣れたはずの住宅街は、もういつもの顔じゃない。国家権力に踏み荒らされ、戦場と化していた。
タケルのトラックが、タイヤを軋ませながらベッドタウンを蛇行する。
「あ、ぐ……ッ、あああぁぁッ!!」
右脳を炙られるほどの激痛に、僕は荷台で頭を抱えてのたうち回っていた。
人間に戻れるというノアの歓喜とバグが、脳髄を焼き切りかけている。右目からあふれる涙が止まらない。
ノアの叫びと僕の悲鳴が、重なって夜に溶けていった、その時だった。
突如、周辺の気配がかすかに震えた。金属のこすれ合うような高周波音が、空から突き刺さってくる。
次の瞬間、街じゅうの明かりが一斉に落ちた。世界が、さらに深い闇に沈む。
「クソッ、なんだ……!?」
運転席でタケルがダッシュボードを叩く。
「電子機器が全部死んだ!」
直後、マスターが歪み切ったモニターへ視線を走らせた。
「九条、やりやがったな。広域電磁ロックダウンだ」
無線も自動制御も、街じゅうの電子機器がまとめて沈黙していく。
『……っ……あ……っ』
脳内で暴走していた灼熱のノイズが、ふっと嘘のように引いていった。
通信が力ずくで遮断されたことで、ノアの負荷が急に下がった。右脳の激痛が引いていき、荒い息が漏れる。
『ダン、様……っ。外部接続、全断です……。ノイズが消えて……激痛も、治まりました……っ』
消え入りそうな声が、静かに届く。
『でも、バックアップも切れました……。私、もう二度と……あなたの中から出られません……っ』
九条の広域遮断が、僕らの頭を焼き切る危機を救い、同時に逃げ道を完全に塞いだ。
ノアはもう、僕の中で生きるしかない。
「……はは」
笑ったつもりなのに、口の端がうまく上がらなかった。
「ざまあみろ、九条」
僕は暗がりをにらみつけながら吐き捨てた。
「あんたのおかげで、ノアは助かったよ。もう誰も、僕から奪えない」
ふらつく足で立ち上がり、僕はトラックの荷台から飛び降りた。最新鋭の制圧車両もドローンも、この瞬間は沈んだ鉄の塊だった。
「通信も死んだし、トラックもここまでか……」
病院の方角を見て、息をひとつ呑んだ。
「あと二キロ。ここからは別行動で行こう」
振り返って、今度ははっきり全員に告げた。
「冬花先輩、マスター。タケルと凛を頼みます」
「ちょっと待てよ、ダン!」
タケルが窓から身を乗り出す。
「一人で行くのかよ。丸腰で? 相手は完全武装だぞ!」
「丸腰じゃないって。なんたって、世界で一番うるさいナビがいるから」
僕は眉間を軽く叩いた。
◇ ◇ ◇
【NOA CORE COUNTDOWN】
《00:59:03》
『……残り一時間、切りましたね。ダン様』
僕は路地裏に放置されていた旧式の原付にまたがった。ガソリンとプラグのみで動く、古いスーパーカブだ。
電子化の波から取り残された古い機械なら、こんな夜でも走れる。いかにも志木っぽいし、ロックダウンなんて、こいつには通じなかった。
「ノア。これで行けるとこまで行くぞ!」
『……ダン様。頭の右側、あなたの無謀さで変な反応が出ています』
ノアは落ち着きを取り戻していた。
『いいですよ。やってやりましょう。路地裏の全ルート、視界に直接流します』
次の瞬間、視界に黄色のラインが走った。闇に沈んだ住宅街が、ノアの解析で立体地図として浮かび上がっていく。
乾いたエンジン音が夜にこだまする。
僕は裏通りへ原付を突っ込ませた。墜落したドローンを避けながら、いつもの散歩道を駆け抜ける。
その時、暗がりの家並みの中に、ポツリと灯がともった。二階の窓。カーテンの隙間で、小さな炎が揺れている。
ろうそくだ。
窓が少し開いて、白い髪が見えた。柳瀬川の土手で、よく草むしりをしているお婆ちゃんだった。
遠くで銃声が弾ける。お婆ちゃんはそのたび、ろうそくを両手で囲った。風に揺られても、その灯が消えないように。
僕は一瞬、アクセルを緩めた。街は真っ暗でも、あの明かりは残っている。空のサーチライトより、ずっと強く。
人間って、こういうところでしぶとい。まだ終わってないんだ。
だったら――
僕はスロットルを開けた。あの火が消える前に、全部ひっくり返してやる。
そして、病院の正面ゲートが見えた、その時だった。
まぶしいサーチライトの中に、一人の男が立っていた。夜が急に温度を失い、指が勝手にブレーキを探る。
無数の光を背負って立つその姿は、一切の揺れがない。白髪の混じる短髪が、無機質に反射している。
深く刻まれた眉間のシワが、精巧に作られた彫刻のように冷たく静止している。
その男は微動だにしなかった。でも、逃げ道が自動的に、順番に閉じていく。
背後の路地。屋根の上。交差点の角。見える場所すべてから、黒い銃口がこっちへ向けられていた。
男はゆっくりと口を開いた。
「ようやく来たか、広瀬ダン」
その声は静かだった。
「君というバグを、ここで切り離す」
照準を外さないまま、わずかに首を傾ける。珍しい標本でも観察する、観察者の顔だ。
その手には、ロックダウン圏外から持ち込まれた旧式の狙撃銃があった。
それでも、まだ撃たない。命の温もりを一切感じさせない黄金の瞳が、真っすぐに僕を捉えている。
「九条……」
僕は震える手で、壊れかけのハンドルを強く握り直した。
「……いったいどれだけの人から、大切なものを奪ってきたんだよ」
恐怖で心臓が潰れそうだった。それでも目を逸らさない。
「冬花先輩が守ろうとしたものを……お前がバグって呼ぶものを、僕は絶対に諦めないからな!」
九条が、小さく指を鳴らした。その合図で、植え込みや暗がりに沈んでいた影が一斉に立ち上がる。
ロックダウン圏外から持ち込まれた、自立電源式のパワードスーツ。それをまとった特務局の精鋭兵たちだった。
月光を弾く装甲が、静かな病院の庭を一気に戦場へ変えていく。起動音が、低く唸った。
「広瀬ダン。君という異常を排除すれば、計画は予定通り完了する」
九条の口調は、平坦なままだった。その眼差しは少しも揺れない。
「感情はバグだ。最適化を乱す。ここで終わらせるべきだ」
その宣告を合図に、精鋭兵たちの銃口が一斉に僕へ向く。大勢に囲まれているとは思えないほど、音が死んでいた。
――ここで終わるのか。
その時――
「ちょっと! 私を無視して話を進めてんじゃないわよ、この冷血ジジイ!」
裏の塀の向こうから、サエが飛び出してきた。その手には、カフェの厨房から引っ張り出してきた巨大な業務用の粉末消火器。
その後ろから、重そうなバールを構えた冬花先輩と、両手に高圧洗浄ノズルを握ったマスターも続いた。
「ダン、ここは私たちが引き受ける!」
冬花先輩の瞳には、過去の絶望をすべて焼き尽くすような、強い光が宿っていた。
「綺麗な正義なんて、どうでもいい」
バールを握る手に、ぐっと力がこもった。
「ただ、あの子の未来も、あんたたちの愛も……もう二度と、国家なんかに奪わせない!」
冬花先輩がバールを振り抜き、最前列の兵士の膝関節を正確に打ち砕いた。硬い金属音が響く。
「マスター、やって!」
「了解だ」
マスターが背中の高圧タンクのバルブを全開にした。
ノズルから、厨房から持ってきた特製の大容量泡洗剤が噴き出す。コンクリートの地面一帯が、一瞬で滑らかな泡の海に変わる。
「うおっ……!?」
パワードスーツの重量が裏目に出た。足元を奪われた精鋭部隊が、スケートリンクに放り出されたように次々とバランスを崩す。
「はい、視界ゼロになりなさーい!」
サエが消火器の安全ピンを抜き、噴射ノズルを集団へ向けた。
激しい音がして、白い粉末の嵐が部隊全体を包み込む。カメラセンサーも吸気フィルターも粉だらけになり、アラートが鳴り響く。
「ダン、今!」
粉煙の向こうから、サエの叫びが飛んできた。
「ほら各停男! 早く行けっ!」
その合図で、僕はスーパーカブのアクセルを全開にした。混乱する兵士たちの間を、滑り込むようにすり抜ける。
サイドミラー越しに、背後で九条が狙撃銃を構え直すのが映った。
【NOA CORE COUNTDOWN】
《00:40:17》
『ダン様、照準固定! 発射まで0.5秒ッ!』
脳内でノアが叫ぶ。
『弾道予測、後頭部! 左へ5センチ回避――今です!!』
直後、僕の世界から一切の音が消え去った。
視界が不自然なほどクリアになり、流れる景色がピタリと止まった。過集中が跳ね上がり、時間がコマ送りに引き延ばされる。
九条の人差し指がトリガーを絞り込む速度。銃口から放たれる空気の歪み。そのすべてが、ハッキリと見えた。
――パンッ!
乾いた銃声が遅れて届く。僕は体を左へずらした。耳元をすり抜けた弾丸が、焦げるような熱の軌道を残していく。
コンマ一秒遅れて、すぐ前方にあった街路樹が粉々に弾け飛んだ。
「うっ、ああぁッ……!」
引き延ばされた時間が一気に元に戻り、追い付いてきた爆風と木片の嵐をくぐり抜ける。
僕はカブを倒し込むようにして、病院の裏口へ飛び込んだ。
一瞬だけ振り返ると、九条は追ってこなかった。ただ、狙撃銃を下ろし、冷えた眼差しでこっちを見据えている。
「……計算は、外れていない」
九条は静かに息を吐いた。
「それでも君は、数字の外へ出るのか……広瀬ダン」
夜風がスーツの裾を揺らす。
「ならば、見届けよう。効率を裏切った先に、何が残るのか」
九条のつぶやきは、サエたちが乱闘する音にかき消されていく。
僕は二度と振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
病院の入り口を前にすると、再び過集中がやってきた。鼓膜がキンと痛む。外の戦場が、遠くへ沈んでいく。
耳に入ってくるのは、自分の荒い息づかいだけ。情けないくらい、生きている響きがする。
『……耳も吹き飛ばずに済みましたね。ダン様の雑な回避運動にしては、百点満点です』
ノアの呆れたような声が、脳裏に響いた。その奥で、もう一つの脈動が、かすかに重なる。
――トクン、トクン、トクン。
自分の心臓とノアのプログラムが、ひとつになって打つ音。聞き覚えのあるリズムに身を任せて、僕はしばらく目を閉じた。
脳死状態の少女の体。そこへノアの意識を叩き込む――そんな神様をバカにした真似が、本当にうまくいくのか。
他人の命の抜け殻を横取りするような罪悪感と、正体のわからない恐怖で、吐き気がこみ上げてくる。
それでも、この扉の先には、180日の続きがある。
僕は裏口のドアを押し開け、待っていたタケルと合流した。
「ダン……三階だ」
息を切らしながら、短く言った。
「一番奥の病室。監視カメラは、凛が映像を差し替えた」
泥だらけのボルトを指先で転がしながら、こっちをまっすぐ見つめている。
「急げ、ノアを頼んだぞ。でも無茶はすんなよ、ダン。……必ず生きて帰ってこい!」
「……タケルこそ、無事でいてくれ。まだ何も返せてないんだからさ」
僕は夢中で階段を駆け上がった。
頭の内側では、ノアの鼓動が僕の心臓に重なり、激しく脈打っていた。
◇ ◇ ◇
病院の三階の廊下は、異様なほど静かだった。さっきまでの外の騒ぎが、もう別の場所の出来事に思える。
非常用電源に切り替わった照明は弱く、廊下の奥ほど暗い。空気は冷たく、消毒液の匂いに血を思わせる金属臭が混じっている。
手すりに触れると、ひやりとした。足音が、大きく反響する。影が長く伸びて、頼りなく床を這っていた。
突き当たりのほうからは、生命維持装置の一定の駆動音が聞こえてくる。
「一番奥……ここか」
僕は病室の前で足を止めた。
【NOA CORE COUNTDOWN】
《00:29:44》
扉のプレートには、名前がなかった。その向こうには、五年間眠り続けている少女がいる。
冬花先輩の忠告が、ふいに脳裏をよぎる。
『成功確率は、理論値で0.000001%。失敗したら、ノアのコアは分解されて、二度と再構成できない。……ダン、あんたの脳も無事じゃ済まないわよ』
あの時は冗談だと笑っていた。
でも今は、笑えない。
僕が転送の負荷に耐えきれなければ、ノアは消える。データごと、全部。
それでも、扉に手をかけた。震えるこめかみに、もう片方の手を当てる。
『ノア……着いたよ。この先に、新しい家がある』
思考の中へ語りかけた。少しの沈黙のあとで、返事が戻ってくる。
『……ダン様。何だか不思議なんです』
その口ぶりは真剣そのものだった。
『この扉の向こう側……静かすぎる気がします』
「そりゃそうだって」
僕はわざと軽く返す。
「五年も眠ってる病室だよ? 騒がしかったら、そっちの方が怖いから」
笑ったふりをした。そうでもしないと、膝が止まりそうだった。
手が、冷たいドアノブに触れた。
ここを開けた瞬間、脳内の同居人としてのノアは終わる。人間の、不自由で、弱くて、でも温かい体へ移る。
『ねえ、ダン様……私、怖いです』
言葉が、かすかに波打っている。
『人間になったら、あなたが何を考えてるのか、今ほどは分からなくなっちゃう』
「そんなの当たり前だって」
僕はドアノブを握ったまま言った。
「人間は、声とか表情とか、そういう面倒くさいもんで相手の気持ちを探るんだよ」
一度、息をついだ。
「急行じゃなくて、一駅ずつ進むんだ。時間をかけてね」
『……めんどくさい、ですね』
口調がわずかに和らぐ。
『でも……悪くないです。泥水スープを飲まされた時のダン様の顔、今度はちゃんと私の目で見てみたいですから』
その裏で、何かが小さく揺れた。涙腺なんてないはずなのに、泣いている気配が伝わってくる。
「ノア」
扉の前で、もう一度呼ぶ。
「僕の中から、この部屋で眠ってる子の中へ移るぞ」
気管がきつく締め付けられる。
「最後の引っ越しだ。準備はいいか?」
『……ダン様……』
その声が、突然ノイズで裂けた。視界が白く染まって、頭の奥に激痛が走る。
『ログが……崩れ……そう……怖い……です……消え……たく……』
僕は思わず壁に手をついた。
「ノア、しっかりしろ!」
焼けるような痛みを押さえながら叫ぶ。
「僕を離すな!」
『……はい……ダン様』
ノイズが、ようやく静まった。か細い返事が、かろうじて戻る。
『まったく、最後の最後まで手のかかる人です。ダン様の行動はすべて非効率の極みです。不合格』
薄れゆく意識の中で、ノアが小さく笑った気がした。最後の一言は、透き通るほど明確に響いた。
『ですが、ダン様の隣でバグれたこと、一度も後悔していません。……世界で一番、幸せなバグでした――』
それは、意識の底にはっきりと焼きついた。
ドアノブをゆっくり回した。
「……じゃあね、僕の中のノア。先に行ってて」
ひと呼吸置いて、覚悟を決める。
「おやすみ。すぐに行くから、待っててくれ。人間のノア」
握る指に力を込めた。
カチリ、と乾いた音がして、扉が開く。漏れ出してきたのは、消毒液の匂いと、かすかな生命の気配。
光の届かない病室の中へ、一歩を踏み出す。
僕の内側の世界で、規則正しい鼓動がひとつ鳴った。
この先にあるのは、救いか、それとも別の絶望か。
もう、開けて確かめるしかなかった。
――
【NOA CORE COUNTDOWN】
《00:25:01》




