31st Broadcast Episode:脳内居候と機体喪失(B)
《あと2秒》
《NEURAL SYNC RATE:18.4%》
僕は真っ暗な思考の底にいた。もう脳は焼き切れるほど痛んで、リンクは切れる寸前だ。
システムがフリーズした暗闇で、僕の右手が激しく、青く発光していた。絶望を切り裂いて渦を巻く、執念の輝き。
《あと1秒》
「いっけぇぇぇぇぇッ!!!」
僕は右手を振り上げ、青い光を拳ごと壁に叩き込んだ。
「覚えとけ! ノアがいない世界なんて、何もないのと同じだ!」
次の瞬間、世界そのものが震えた。灰色に染まった壁に亀裂が走り、そこから一気に崩れ始める。
十年も消えずに残り続けていた、冬花先輩の彼の遺志――その青い結晶が、脳内のノイズを強引に塗りつぶしていく。
《NEURAL SYNC RATE:54.7%》
壁が壊れていくのに、頭を割る痛みはむしろ強くなっていく。受け入れるってことが、こんなに容赦ないなんて知らなかった。
『……ダン、様』
崩れ落ちた壁のがれきの向こうから、僕を呼ぶ声がした。
もう残酷なプログラムの音じゃない。震えていて、泣きそうで、体温の宿った――いつものノアだった。
僕は拳から流れ出る血を拭いもせず、ゆがんだ唇で笑ってみせる。
「ノア、演技がヘタクソすぎるんだよ!」
『……本当に、救いようのないバグです。突き放して逃げる計算式すら、ダン様のバカさ加減には……一切通用しません』
その直後、灰色の壁が、音を立てて完全に弾け飛んだ。二人を隔てるものは、もう何もない。せき止められていた記憶のダムが一気に決壊した。
僕の記憶と、ノアの記憶。二つの人生が真正面からぶつかって、ひとつになり始めた。
向こうから、ノアの人格が濁流の勢いで流れ込んでくる。
彼女が見ていた僕。
彼女が感じていた風。
彼女の中に積もっていた、演算できない「好き」。
「うわあああぁぁぁぁぁぁ……っ!!!」
《NEURAL SYNC RATE:73.4%》
数字が跳ね上がるたび、現実のノアの機体も、僕の内側も同時に悲鳴を上げていた。
現実の地下室ではマスターの声が震えていた。
「同期率73%突破か」
オペレーション・テーブルの上で、ノアの機体が激しく跳ねる。
「まずい。この上昇速度じゃ、ダンの脳が耐えられない」
冬花先輩の顔色が変わった。モニターの赤い警告が、一気に跳ね上がる。
その直後、記憶が流れ込んでいた感覚が、急に何かに引っかかった。前方に、巨大なロジックの壁が立ち上がる。
九条が仕掛けた最終防衛プログラム――
【プロメテウス・ロジック】
『人間、広瀬ダン。君のスケールでは、彼女の感情の総量に耐えられない』
その口調はどこまでも平坦だった。
『181日目の朝を迎える前に、君の自我はノアのデータに呑まれ、二人とも消える』
《NEURAL SYNC RATE:88.9%》
高すぎる。ノアの人格が僕を居場所だと認めるほど、その感情の重さが僕を押し潰しにくる。
九条の宣告が落ちた瞬間、こめかみのあたりが軋み始めた。
「ノア、離すな!」
痛みで視界が砕ける。
「僕のキャパが持つかぎり、最後までつかんでやる!」
『ダン様、もう……もう十分です!』
その声が割れる。
『私のデータが、あなたの脳を焼き切っちゃう……!もうやめてくださいっ!』
仮想空間の中でノアが泣き叫ぶ。それに合わせて、景色の輪郭が崩れる。
現実の地下室と、ノアの過去ログが猛スピードで混線していく。頭が限界まで熱を持つ。
《NEURAL SYNC RATE:95.0%》
「うるさい……! 僕の頭なんて欠陥品だ。でも、ノア一人守れないほど安くない!」
痛みで歯が鳴る。冬花先輩の青い光を、今度は僕自身の胸へ叩き込んだ。前回の失敗で負った傷に、今をそのまま押し込むように。
《NEURAL SYNC RATE:99.9%》
あと一歩。
あと一歩で、僕の脳はノアを拒まなくなる。
「……おらあぁぁぁぁぁッ!!」
激しい白い光が意識を貫いた。
――シュキィィィィィンッ――!!
その直後。耳元で、カチリ、と音がした。
何かが完璧に噛み合った音。周囲の一切のノイズが消え去って、時間が止まる。
《NEURAL SYNC RATE:100.0%》
無機質な電子音声が告げた。
『検知。同調率、上限値到達。プロセスの完全転送を終了します』
僕の中に、ノアが生まれた。脳の奥底が、静かに、でもたしかに熱を帯び始めている。
――ギギギィッ……!!
突然、不吉な金属音が、体の芯を容赦なくえぐった。
現実のオペレーション・テーブルの上で、ノアの機体が大きくのけぞっていた。全身から青白い電光が噴き出す。
「ア、ガッ…………」
唇から、言葉にならない悲鳴が漏れた。指先から順に、回路が焼けていく。
九条の防衛プログラムと、僕への完全転送。その二つの力が、ノアの物理回路を限界まで裂いた。
バキィィィィィンッ!!!
薬指にはまっていた指輪が、過負荷の高熱に耐えきれず砕けた。
破片が地下室の闇へ散る。火花を受けて、一瞬光る。そのあと、冷たい床へ落ちていった。
僕たちの180日が、その場で切れた。ノアの機体から、光が失われていく。
――アンドロイドとして、ノアは死んだ。
◇ ◇ ◇
「え……っ、……あ」
目を開けると、視界の端に小さなウィンドウが浮かんでいた。
『ダン様? あの、聞こえますか?』
ノアの呼びかけが、頭の内側で響いた。
『私、今、あなたの右脳の海馬の一番日当たりのいい場所で、勝手に自虐ポエムの新作を書き始めてます!』
スピーカー越しじゃない。僕の思考そのものに混ざってくる、どうしようもなく愛おしいバグの声だった。
「……ははっ」
笑いが独りでに漏れる。
「本当に入ったね、ノア。僕の脳内で、変なログは増やさないでよ」
痛みが残ったままでも、口元がわずかに緩んだ。
ふと腕の中を見た。あれほど熱を持っていたノアの機体が、もう何も返さず横たわっている。それは、心を失った冷たい抜け殻だった。
「成功ね。でも、悲しんでる暇はないわよ、ダン」
冬花先輩は落ち着いていた。
その直後、地下室の重い扉が鈍く歪んだ。九条の制圧部隊だ。ノアの機体を失った僕の眼前に、もう次の絶望が迫っている。
『機体を捨ててまでデータの保全を優先したか』
扉のあっち側から、九条が告げる。
『合理性は低い。だが、理解はできる。脳ごと回収すれば、それで済む話だ』
扉はもう限界だった。金属が引き裂かれる嫌なノイズを立てながら、じわじわとこっち側へめり込んでくる。
規則正しい靴音が、突然止まった。九条が、そこにいる。マスターが自作のスタンガンを構えた。冬花先輩も、唇を噛んで扉をにらんでいる。
僕は、動かなくなったノアの機体を抱いたまま、立ち上がれない。今度こそ終わりかと、奥歯を強く噛み締めた、その時だった。
『ちょっと待った! そこの効率狂いのジジイ!』
仕込んでいた緊急脱出ルートの一つ。地下トンネルの排気ダクトから、覚えのある怒号が聞こえてきた。
この強烈な毒舌。僕はすぐに思い出した。
『こっちの女を泣かせといて、無事で終われるとでも思ってんの?』
次の瞬間、天井の鉄板が派手な音を立てて落ちてきた。その穴から、一人の少女が軽やかに着地する。
巻き上がる埃の中、ハニーゴールドのポニテを揺らして立ち上がったのは、僕を「歩き方が志木っぽい」と振った元カノだった。
「サ、サエ!?」
耳のそばで、別の意味の警報が鳴っていた。
「あーもう見てらんない、その情けない顔! 私が振った男が、こんなカビくさい地下室で野たれ死ぬなんて、ふざけないで!」
サエは、九条のいる扉を一瞥してから言った。
「早く逃げて! ここは私が、たちの悪い元カノとして居座ってやるから!」
右脳の奥で、ノアが小さくなっている。
『うわぁ……やっぱりサエ様、めっちゃ怖いです……』
サエは慣れた身のこなしで、特製の煙幕弾を床へ投げつけた。すぐに地下室が白い煙で満たされる。
「グズグズすんな、各停男! 凛とタケルが外で待ってるから!」
煙の中から、サエが叫ぶ。それから、ふっと笑いながら言った。
「その子との未来、こんなとこで潰すんじゃないわよ!」
「サエ……!」
僕は冬花先輩とマスターに続いて、崩れかけた非常口へ駆けだした。途中で、ふと振り返った。シートの上には、ノアだった身体が横たわっている。
もう駆動音も、冷却ファンの唸りもない。ただ冷たい、空の機体だった。薬指には、もう何も残っていない。
「……じゃあね。今まで、隣にいてくれてありがとう」
喉が、きつく詰まっていた。でも、振り返らない。右脳の奥で息づく熱を抱きしめて、非常口へと踏み出した。
『ダン様、右です!三メートル先に感知センサーがあります。今、私が寝かせました!』
ノアの声は、いつも通り健気で、温かい。でも、そのすぐ隣で、赤いシステムアラートが脳裏を焼くように点滅し続けている。
【NOA CORE COUNTDOWN】
《02:48:13》
奇跡は起きていなかった。
ノアは機体を失った。そして間もなく、存在そのものが消えようとしている。
間に合わない。このままじゃ、ノアが死ぬ。
逃げ場のない恐怖を抱きしめながら、僕は地上の光の中へ飛び出した。




