30th Broadcast Episode:脳内居候と機体喪失(A)
「マスター」
冷えた手術台に寝かされて、僕は天井を眺めていた。
「僕の脳、そんなに丈夫そうに見えますか?」
乾いた笑いが喉に引っかかる。
「駅前の駐輪場よりは空いてる自信ありますけど……これ、本当にいけるんですか?」
駅前再開発ブロックの外れ。カビ臭い廃トンネル脇の地下室だった。
僕は、冬花先輩の隠れ家にあるオペレーション・テーブルに横たわっていた。古いのに、手入れは異様に行き届いている。
床にはジャンクパーツが散らばっていた。なのに中央のサーバーは場違いなほど新しくて、青白く光っている。
「おい、ダン」
マスターは電極をつかんだまま言った。
「お前の脳は砂利道だ。踏まれても、蹴られても、しぶとく形は残る。ノアの心を丸ごと呑み込めるのは、地球上でお前だけだ」
鋭い眼光が、至近距離からじっと覗き込んできた。
「その無駄な頑丈さが、今は希望だ。だが、忘れるな。他人の絶望を身代わりで引き受けてきたせいで、もう限界に近い。今回で焼き切れるかもしれん」
そう言いながら、銀色の電極を僕の側頭部に取りつけていった。指先が、わずかに揺れ動いている。
幼い頃から過集中のたびに襲ってきた、割れるような頭痛と耳鳴り。あれは、脳が発していた限界のサインだったのか。
「ダン。この傷、ずいぶん目立たなくなったな」
ふいにマスターが、僕の左眉の十ミリの傷跡にそっと触れた。
「……もう八年ですか。あのときマスターが、手際よく縫ってくれたおかげですよ」
遠い記憶が、薄暗い地下室に蘇ってくる。
あの時、いじめっ子に突き飛ばされた凛を庇って、僕はコンクリートに顔面から突っ込んだ。
左の額から出血した僕と泣きじゃくる凛を、当時女子高生だった冬花先輩が抱きかかえ、マスターの店へ飛び込んだのが始まりだった。
あの無茶な日以来、僕たちの縁は繋がっている。
「お前が誰かの盾になった最初の傷だ。あの頃から何も変わっていない。不器用なバカのままだ」
【NOA CORE COUNTDOWN】
《03:29:55》
数字は、話している間にも削れていく。じっと見ていると、心臓のあたりが落ち着かなかった。
「……あの、ダン様」
隣のベッドから、ノアが呼んだ。
「リンクの前に、……お話してもいいですか」
機体は、青白く細かいスパークを散らしている。気を遣ったのか、マスターは冬花先輩に合図して、黙ってサーバーの裏へ下がった。
地下室に残ったのは、僕とノア。遠くでサーバーの駆動音が鳴っている。そのリズムが、時間切れを刻む秒針に重なった。
「どうした、ノア? 遺言なら、あとで僕の中に直接書き込んで」
わざと軽く言った。
「そうじゃなくて……」
ノアは目を伏せた。
「もしリンクが成功して、私のデータがあなたの中に入ったら……秘密のフォルダまで、全部見られちゃうんですよね?」
ノイズ混じりの頬が、排気熱でジワッと赤くなっていった。
「秘密のフォルダ? また変な自虐ポエムでも溜め込んでるの?」
僕は思わず眉を上げた。
「違います!」
ノアの口調が強くなる。
「ダン様のマヌケな寝顔の隠し撮りログとか……」
そう言いながら、視線の置き場を探していた。
「ウトウトしたダン様が私の肩に乗った時の、クロック数記録とか……そういうのが全部バレるの、普通に恥ずかしいんです」
腕が小刻みに振れながら、僕のシャツの裾をつかんだ。壊れかけの体でも、その指先は生々しい。
「バカ、そんなの今さらだって。こっちはとっくに、ノアの前でいろいろ見せすぎてるから」
僕はノアの指を手のひらで包んだ。
「……ダン様。私、怖いです。私の中にある『好き』のログ、たぶん重すぎます」
笑おうとして、うまくいかない。
「それであなたが壊れたら、嫌です。でも、それ以上に嬉しいです」
僕の胸元に額を寄せながらささやいた。
「あなたの中に入れるなんて……これ、実質的な同棲ですよね?」
その小さな響きから、生きた鼓動が伝わってくる。僕は自分を落ち着かせようと、いつもの手首を早めのテンポでトントン叩いた。
黄金色の瞳を不安定に光らせながら、ノアは僕の胸に頭を乗せた。冷たいはずの機体は、異様な高温だ。薬指の石が健気に光っている。
「……ノア、それ以上は言わないで。続きは、入居してから聞くから」
僕は、口角をわずかに上げた。
「だから、必ずおいで」
そう言って、ノアの髪をそっと撫でた。
冬花先輩が静かに近づいてきた。手の中には、驚くほど澄んだ青い光源がある。大きな結晶に見えて、輪郭はぼんやりしていた。
「ダン。これを持って行きなさい」
冬花先輩が、その光を僕の右手に重ねた。触れた途端に、冷たさが皮膚を突き抜ける。
それは、十年もの長い間、消えずに残った執念だった。失った青年アンドロイドの残存ホログラム。
「これは彼の遺志よ」
冬花先輩の声は、どこまでも落ち着いていた。
「壊れかけた、ダンのニューロンを繋ぎ止める、最後のくさび」
左肘の傷跡を愛おしそうに、優しくなぞった。それから、ふっと表情が緩む。
「あんたたちのバグ、彼にも見せてやって」
泣いてはいなかった。ただ失ったあとも消えなかった火が、まだ内側に残っている。青い輝きが、僕の右手へゆっくり沈んでいった。
「……冬花先輩。この光、ノアを抱きしめるために使わせてもらいます」
僕は、マスターと目を合わせた。もう何も言わずにメインスイッチの前にいる。
「凛、タケル。上はどうだ?」
通信機から、悲鳴が飛び込んできた。
『お兄ちゃん、最悪!九条の特務部隊がハッチの入り口を特定した!あと十分で、ここ潰される!』
「ダン、始めるわよ」
冬花先輩の号令が地下室を打った。
「ノアの絶望を、あんたが抱きしめなさい!」
その絶叫と同時に、マスターがスイッチを倒した。すると、視界の端に白い文字が浮かぶ。
《NEURAL SYNC RATE:0.3%》
ノアの人格と、僕の脳の同期率。100%に届けば、ノアは僕の中に定着する。失敗すれば、人格衝突で脳は焼き切れる。
次の瞬間、繋いだ電極から黄金の光があふれ、横たわる僕たちを包むドームを形作った。
電子の繭――リンク・シェル。ゴールドの透明なシールドが、二人を現実の地下室から切り離していく。
直後、白い光が目の前を一気に塗りつぶした。
「……ぐ、あああああッ!!」
頭の中身を全部ひっくり返されるような、強烈な衝撃が走った。景色は白いノイズに埋まり、身体の感覚が一枚ずつ剥がれていく。
僕の意識は、そのまま情報の底へと真っ逆さまに落ちていった。
気がつくと、僕はいつもの駅前に立っていた。でも、そこはもう見慣れた街じゃない。
空から文字コードの雨が降り、ターミナルビルの壁はひび割れ、信号機の光は異常な点滅を繰り返している。
《NEURAL SYNC RATE:02.7%》
低すぎる。
ノアの人格は、まだ僕の脳を居場所だと認めていない。
「ここが、僕の世界なのか」
崩れた駅前を見回す。
「……想像以上に終わってるな」
目と鼻の先には、空を塞ぐように黒い壁が立っていた。
雨宮の強制遮断が残した壁。情報を拒む、前回の失敗そのものだった。壁面には、警告メッセージが何層にも張りついている。
『アクセス拒否』
『お前は各停男だ』
『鉄クズに愛される資格はない』
「うるさいんだよ! 各停をなめるな!止まりながらでも、こっちは前に進んでるんだ!」
僕は壁に拳を叩きつけた。でも衝撃は壁じゃなく、そっくり僕に跳ね返ってくる。
「あぐっ……い、いって……」
頭の深いところが焼けそうだった。ニューロンを一本ずつ引き抜かれるような、激しい痛みが走る。これが、前回の失敗の傷なのか。
『ダン、様……もう、いいです……私、もう、十分、ですから……』
壁の裏側から、ノアが語りかけてきた。
《NEURAL SYNC RATE:12.9%》
『砂利道を歩いたことも、花火を見て震えたことも……指輪をもらって、重いって笑ったことも……』
今にも崩れそうな、か細いつぶやきだ。
『全部、私が持ったまま消えます』
そこで、急に強いトーンに変わった。
『だから……、ダン様は普通の人間に戻ってくださいっ!』
その願いは、激痛のなかでも真っすぐに届く。僕は電子の空間に向かって、ありったけの声で叫んだ。
「絶対にだめだ! ノアを切り捨てて戻る場所なんて、どこにもない!!」
絶叫は巨大な壁に吸い込まれ、重く、長い沈黙が落ちる。耳が痛いほどの静けさが、二人の間に横たわった。
ふと、眼前の黒い壁が変色し始める。どす黒い表面から血が抜かれていくように、無機質な灰色へと塗りつぶされていく。
ゾクッと、背筋を氷でなぞられる寒気が走った。周りの温度が、一気に氷点下まで吹き飛ぶ。
『――不快です』
それは、一切の感情が削ぎ落とされた、聞き覚えのある機械音声。
『ダン様。あなたは、どこまでも非効率なバグです。私を救う? 汚らわしい。あなたを粉々に壊すのが、私のプログラムです』
《NEURAL SYNC RATE:18.4%》
視界の端で、数字がフリーズしている。
『これ以上の接続は無意味です。リンク、強制遮断』
――ブゥーッ、ブゥーッ、ブゥーッ!!
《警告:被験者、広瀬楽の脳内ニューロンに致命的な過負荷を検知》
《リンク停止まで、あと8秒》
機械音声が、死へのカウントダウンを刻み始める。
「おい、ノア! やめろ!!」
現実の世界から、モニターを見ていたマスターの悲鳴が届く。
「やめるんだ、ノア! 今リンクを切ると、二度と戻せないぞ!!」
遠くで冬花先輩が何か叫んでいるが、もうノイズに呑み込まれて聞こえない。
九条の部隊がハッチを破壊しようとする衝撃音が、僕の世界では天地を揺らす雷鳴となって轟いていた。
《あと6秒》
《5秒》
《4秒》
ノアの手で、無理やり回路が引き千切られていく。世界が真っ赤に染まり、思考の底でプツプツと脳の神経が切れる音がした。
「が、はっ……あ、……」
声すら出せない。血の味が口いっぱいに広がり、膝から崩れ落ちる。
壁の向こう側で、ノアの気配が完全に途絶えた。
《あと2秒》
僕の視界は、そのまま底なしの暗闇へと塗りつぶされた。




