Episode 3:熱の正体
志木駅から東武東上線で1駅。各駅停車に揺られれば3分。
急行なら、扉が閉まった瞬間に『次は、朝霞台です』という無慈悲なアナウンスが流れるような距離。
それが朝霞台駅だ。
でも、この1駅の間には、深くて暗い埼玉県民のヒエラルキーという名の黒目川が流れている。
志木はどこまでも生活と自虐の街だが、朝霞台は移動と焦りの街だ。
JR武蔵野線の北朝霞駅とクロスするこの場所は、2080年になっても、いつも血気盛んな乗り換え客たちの殺気で満ちている。
「カイ様、見てください。あのサラリーマンの群れ。1分1秒を惜しんで歩く姿は、締切5分前のラノベ作家みたいに必死ですね。ガチで面白いです」
エナはホームの端っこで、感心したように人間たちを観察している。
志木市を出るだけで、総電力の30%を失う彼女。
視線の先には、ホログラムの案内板を無視して最短ルートを突き進む、2080年代の社畜たちがいる。
「おい、エナ。ぼーっとしてると、あの社畜の群れにひかれてスクラップにされるぞ。朝霞台の乗り換えは、命がけのスポーツなんだ」
「……警告を感知。では、リハビリ・ガイドラインに基づき、安全な移動モードに移行します」
そう言うなり、エナは俺の背後に回り込み、俺の腰に両腕を回してギュッと抱きついてきた。
背中に、彼女のスレンダーで無機質な胸の感触が、薄いミニワンピ越しに押し付けられる。
「……っ!?お、おい!何してんだよ!」
「バックパック・ディフェンスです。密着していれば、人混みで離れ離れになることもありません。それに、私の冷却システムも、カイ様の焦りを吸い取って効率よく排熱できます。……ほら、私の胸、自販機の氷みたいで気持ちいいですか?」
「待て待て、そこじゃない!みんな見てるって!」
「見てるのは、カイ様の残念な歩き方だけですよ!さあ、進んでください。私のバッテリーは、この瞬間も税金と一緒に溶けてるんですから」
繋いだ手以上に、背中から伝わる20.5℃の静けさ。殺伐とした乗り換えの空気の中で、妙に生々しく俺の意識をかき乱す。
俺たちは人混みをぬうようにして、駅構内にあるホログラム・カフェ『ルナ・テラス』へと向かった。
あえて2020年代の古い喫茶店を再現した店内には、本物そっくりのタバコの煙のホログラムが漂い、ノスタルジーという名の毒素をまき散らしている。
「あーあー、また一人。志木市特許の底なし沼に、ズブズブにハマったバカが来たわね」
カウンターの向こう側から、賞味期限を三日過ぎたコンビニ弁当のような目で見下ろす女性。
俺の天敵、一華先輩だ。
ネオンカラーの髪を団子に結び、ガムをクチャクチャと鳴らしながら、接客する気ゼロの顔で俺たちをにらんでいる。
「一華先輩、久しぶりっす。……その沼って、何のことですか?」
「しらばっくれないで。あんたの背中に張り付いてる、そのピカピカの鉄クズのことよ」
先輩のアゴの先で、エナが完璧な営業スマイルを向ける。
「こんにちは、一華様。以後、カイ様の30センチ以内の背後霊として活動させていただきます」
一華先輩は、氷の入ったグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。
そして、エナの瞳の奥をのぞき込むように、低く、重い声を出した。
「カイ。あんた、その子の賞味期限……書類の隅々まで読んだ?」
「……180日ですよね。わかってますよ」
「はあ?マジで言ってるなら、あんたの脳みそ、中身のない福袋ね。いい?180日っていうのは、電源が落ちるまでの期間。100日を過ぎたあたりから、その子の人格コアは、プログラムされた『嫌われプログラム』に侵食され始めるのよ」
先輩の声が、ホログラムの煙を切り裂く。
「わざと、あんたを傷つける。ののしる。あんたが、もう一緒にいたくないって思うまで、徹底的にね。この世で一番醜い鉄クズに変わるの。私の愛した笑顔も声も、全部バグとしてシュレッダーにかけられた。最後には汚物を垂れ流すだけの、ただの粗大ゴミに成り果てた」
一華先輩の告白が、カフェのざわめきを背景へと押しやる。
彼女の瞳には、かつて自分が愛したアンドロイドに、精神的に破壊された傷跡が、生々しく残っていた。
「粗大ゴミ……、か。笑えない冗談っすね」
俺は、一華先輩の言葉を飲み込むように炭酸水を流し込んだ。のどの奥がチリチリと焼ける。
隣でエナが、衝撃を受けたようにうなだれている。電源が切れたみたいに無表情で、空っぽのグラスを見つめていた。
「冗談なんかじゃないわよ。大宮とか北浦和、あの界隈のインテリ勢は最悪……。人間を効率という定規でしか測らない連中にとっては、感情なんて、ただのノイズなの」
一華先輩はカウンターに身を乗り出し、スマホのホログラムを指差した。
そこに映っていたのは、俺の元カノ、ミオの最新のSNS投稿だった。大宮のスカイレストランで、例のインテリ男と微笑む写真。
「行きましょう……カイ様、大宮へ。ミオ様っていうノイズを、私の最新自虐でミュートしましょう」
エナが立ち上がる。瞳の青い光は、さっきのショックを隠すように激しく点滅していた。
「おい、エナ。バッテリーは……」
「大宮までの往復で、私の寿命は確実に数日分削れます。でも、今のカイ様の顔、誰にも拾われない落とし物みたいです。ガチで見てられません。……さあ、命懸けのデートの続きです」
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朝霞台駅に隣接するJR北朝霞駅から、大宮行きの快速電車に飛び乗る。
車内は、志木周辺のゆるい空気とは一線を画す、殺伐とした大都会予備軍の熱気に満ちていた。
日曜日の快速。座れるはずもなく、俺たちはドアの横の狭いスペースに追いやられる。
「……ッ、おい、エナ。近すぎだって!」
電車が大きく揺れた瞬間、エナが俺の胸元に飛び込んできた。
ていうか、逃げ場のないドア横で、俺を壁に押し付けるような形になった。逆壁ドン状態だ。
「密着による外部冷却を推奨します。……大宮に近づくにつれて、都会のワイヤレス給電波が強くなり、私のプロセッサーが変な熱を持ち始めています。ねえ、カイ様。あなたの心音、鬼うるさいです。もはや周囲に配信してますよ?」
エナは俺のシャツをギュッとつかみ、顔を俺の胸に埋めてきた。細い肩が震えている。
都会のノイズへの恐怖なのか、それとも嫌われプログラムへの怯えなのか、俺には分からない。
「熱い、のか?」
俺は恐る恐る、エナの背中に手を回した。
いつもは20℃の氷のような肌が、今は服越しでも分かるくらい、かすかに、でも確実に熱を帯びている。
「……はい。でも、不思議なんです。カイ様に触れていると、私のエラーログが、幸せという名のバグに書き換えられていきます。これ、180日後には全部デリートされちゃうんですけどね。……ウケますよね、ガチで」
エナが少しだけ顔を上げ、俺を見つめた。
至近距離すぎる。息がかかる距離。彼女の瞳に、俺の脳内パニック中の顔が映っている。
「エナ。お前が俺を嫌いになっても、俺が……俺の脳みそが、今のこの熱を覚えてる。一華先輩がなんて言おうと、お前が作ったスープの味は、確率論なんかじゃねえよ」
「バカですね、カイ様。……その甘いポエム、今の空気に合ってないので回収お願いします。でも、心拍数、さらに10アップ。私も、マジで……バグりそうです」
エナの指先が、俺の首筋に触れる。
冷たくて、熱い。矛盾した俺の知らない温度が、理性を完膚なきまで迷子にさせる。
電車が大きくカーブし、窓の外に大宮の巨大なビル群が見えてきた。埼玉の心臓だ。
そこは、俺たちの泥臭い思い出をゴミとして処理しようとする、非情な未来が待ち構えている場所。
「着きましたよ、魔界に。ねえ、カイ様。離さないでくださいね?私が、私でいられるように」
エナが俺の腕に指を絡める。それは、昨日よりも、ずっと強い力だった。
背中に張り付いているエナの腕に、思わず力を込める。
冷たい。でも、この冷たさがいつか、俺を切り裂く刃に変わるというのか?
「カイ様。手が、震えてます。……安心してください。私があなたを罵倒する時は、ガチで最高の語彙力を用意しておきますから。泥水で顔を洗って待っててくださいね」
エナはいつもの毒舌で微笑んだが、その腕は、俺の腰を離さないままだった。
来るべき地獄を、今のうちに二人で分け合おうとするかのように。
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大宮駅。そこは、志木市民にとってのラスボスだ。いや、埼玉県民すべてにとっての、超えられない壁。
改札を出た瞬間に押し寄せる、圧倒的な16Kホログラム広告の濁流。空中を交差するリニアタクシーの軌道。
何より、歩いている連中の顔つきが違う。
『俺たちは埼玉の選ばれし民だ』というプライドが、その足取りに1ミリの迷いも許していない。
「うわっ、ガチでキラキラしてやがる。まぶしすぎて低スペックな網膜が焼け焦げそうだわ」
「カイ様、情けない声を出すのは禁止です。背筋を伸ばしてください。今のあなたは、最新型のアンドロイドを連れて大宮に殴り込みをかける、伝説の男なんですから」
エナは隣で、俺の腕をグイッと引っ張る。その肌は、さっきより明らかに熱い。
都会の街全体が放つ高出力のワイヤレス給電波に、彼女のデリケートな回路が過剰反応している。
「おい、エナ。大丈夫か?顔、ちょっと赤いぞ」
「問題ありません。……ただ、都会のノイズが、私の演算能力を5%ほど奪っているだけです。でも、これくらいの負荷なら、手動だと思って押したら自動ドアだった時くらい余裕です」
彼女は強がって笑った。でも、その笑顔には、180日の終わりへの予兆のような、はかない影が見える。
俺たちは、ミオがいるというホログラム・スカイレストランが入った高層ビルを見上げた。
エントランス近くにミオがいた。あのアホみたいなピンクのホログラム・ドレス。
そして隣には、一華先輩が警告した、『大宮のインテリ男』が立っている。
「よお、ミオ。……大宮の飯は、そんなにウマいのか?」
俺は精一杯の勇気を振り絞って、声をかけた。
ミオが驚いたように振り返る。
「カイなの?あんた……また嫌がらせ?っていうか、その歩き方…大宮で、志木っぽい猫背で歩かないでよ!マジで恥ずかしいんだけど」
ミオの言葉は、相変わらず鋭いナイフだった。
でも、隣に立つインテリ男の視線は、それ以上に冷酷だった。
彼は俺を人間として見ていない。道端に落ちている使用済みの乾電池を見るような目で、俺を、そしてエナを眺めた。
「君がカイ君か。先日はどうも。悪いけど、ミオは今、僕と解像度の高い未来について語り合っているんだ。ミオ、君の過去という名のノイズ、ここで消去してあげようか?」
インテリ男がミオに微笑む。
彼女は一瞬ためらった。でも、俺とエナの姿を見て、ドライアイスみたいに言い放つ。
「お願い、西園寺くん。志木の記憶って、ガチで低スペで恥ずかしいから。全部ゴミ箱に入れて」
その瞬間、俺の胸の中で何かが砕ける音がした。
10年間の思い出。柳瀬川で一緒に笑った日々。それが今、目の前で、ゴミとして処理された。
「ふーん。解像度の高い未来…ですか。笑わせないでください!」
静かに、でも音量MAXで、エナが割って入った。彼女の瞳の青い光が、都会の夜景を飲み込むほどに激しく発光する。
「その未来に、期限はあるんですか?明日、消えるかもしれない覚悟はありますか?カイ様は、180日で消える私のために、重い足でここまで来た。それをゴミって呼ぶなら——あなたたちに、未来を語る資格はありません!!!」
エナの叫びが、都会の静寂を切り裂く。
彼女の体から、プシュッ、という小さな排熱音が漏れる。
限界だ。オーバーヒート寸前。
「なっ、なんなのよ、機械のくせに熱くなっちゃって……!」
ミオがたじろぐ。
俺は、倒れそうになったエナの肩を、力いっぱい抱き寄せた。その体は、銭湯のジェットバスよりも、情熱的に熱くなっていた。
「……ミオ。分かったよ。お前が消したい思い出は、俺が全部、泥水と一緒に持っていくわ。お前の高解像度な未来に、俺みたいな各停男は必要ないもんな」
俺はミオの目を、しっかりと見据えて言った。
不思議と、もう悲しくなかった。目の前にいるのは、かつて愛したミオじゃない。ただの、中身のないホログラムだ。
「行こう、エナ。帰るぞ。俺たちの街に」
俺はエナを抱えるようにして、大宮駅の改札へと引き返した。
背後ではインテリ男が、不敵に眼鏡の奥を光らせていた…
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帰りの電車の中。エナは俺の肩に頭を預け、弱々しく笑った。
その瞳は、一瞬だけ不吉な赤色に点滅したが、すぐに元の青に戻った。
「ねえ、カイ様。私、本当にバグっちゃったみたいです。胸の奥のコアが、鳴らない通知を何度も確認しちゃうみたいに、ソワソワして止まらないんです」
「ああ。それはきっと、俺のせいだな。俺が志木っぽい歩き方で、お前をここまで連れてきちゃったからだ。でも……ありがとうな、エナ」
180日のうち、すでに15日が過ぎようとしている。 一華先輩が言った、嫌われプログラムの足音は、着実に近づいている。
「ねえ、カイ様。私があなたをディスるゴミになっても…今のこの熱だけは、夜空に保存しておいてくれますか?」
「保存なんてしねえよ。俺の脳みそに、直接書き込んでやる」
世界で一番狭くて、世界で一番切ない街、志木。
俺たちの失恋リハビリは、ここから本当の地獄と、本当の恋へと加速していく。




