26th Broadcast Episode:ダイヤモンドの呪い(A)
ベンチの下で、飲みかけのスポドリのボトルが朝の光をはじいていた。
キャップの縁に残った水滴が、ぽた、ぽたと落ちる。その音を聞きながら、僕は背もたれに体を預けた。
肩も腰も、昨夜アスファルトに叩きつけられた場所から順番に文句を言ってくる。喉には、まだ鉄っぽい痛みが残っていた。
それでも、生きていた。隣には、ノアがいる。体の深いところが、ゆっくりほどけていく。
川沿いの遊歩道を、買い物帰りらしい自転車が一台、ふらふら通り過ぎた。犬を散歩させたおばさんが、振り返りもせずリードを引く。
水辺ではカモが二羽、何事もなかった顔で流れに乗っていた。
昨夜は、火花と警報と金属音のド真ん中にいたなんて、この景色からは想像できない。
ノアは、カモをじっと見ていた。
肩口の補修跡はまだ新しい。タケルが押し込んだパテは乾ききっておらず、朝の光を鈍く返している。
痛々しいけれど、目を逸らしたくはなかった。それも含めて、ちゃんとノアだから。
ノアはしばらく黙って風を受けていたが、ふいに自分の胸元へ手を当てた。
「ねえ、ダン様。私、今……すごく変なんです」
「変って、どういう意味で?」
「昨日まで、風は温度と湿度と強さでしか入ってきませんでした。でも今は、もっと奥で何かが触るんです」
そう言って川面へ目線を戻した。カモが向きを変える。水が朝日に散る。
「ひんやりしてるのに、嫌じゃありません。胸の真ん中が、きゅっとして、そのあと静かになります」
「それが風の感想ってこと?」
「はい。しかも、前よりちゃんと分かります」
そう言って、指先を握っては開いた。
「昨夜から、街の空気が数字じゃなくて、気配で入ってくるんです。急いでない人の歩幅とか、川の音とか、そういうものが中に残ります」
僕はボトルを口に運んだ。安いスポドリの甘さが喉を通る。そんなことすら、今はありがたかった。
ノアは、そのボトルをじっと眺めた。
目の追い方が露骨すぎて、笑いそうになる。冬のコンビニで、肉まんケースに釘付けの僕と、ほとんど同じだ。
「ダン様、そのスポドリを私にもください。ひと口差し出すのは、パートナーとして当然の義務です」
ノアが身を寄せてきた。視線が飲み口から、こっちへ移る。上目づかいで、じわじわ距離を詰めてきた。
でも、欲しがってるのは、たぶんスポドリじゃない。もっと面倒くさいやつだ。
「あっ、うん、いいよ……百円の安い味だけど」
僕はボトルを差し出した。指は離さないままだ。ノアは両手で包み込むように持って、飲み口をじっと見つめる。
そして、ひどく慎重に口をつけた。唇の端が、コンマ数秒、僕の人差し指に触れる。
「……っ」
思わず手を引っ込めそうになって、できなかった。とても柔らかくて、熱い感触。
ゴクリ、とノアが飲み込んだ。薄い唇に、透明な雫が光っている。
心拍数が一気に跳ねた。女子免疫ゼロの心臓は、ほぼ成長が見られない。
「どう? 底辺価格の味は」
「……しょっぱい。塩分と糖分の配合率が崩壊しています。ですが……不思議ですね」
それから、飲み口を見て、また僕を見た。
「ダン様のダサい体温が混ざったせいで、なぜか悪くないと感じてしまう。完全に私の回路のバグです」
ノアは、僕の手がかかったボトルごと、胸元に引き寄せた。
「……ガチうま。バグ確です」
そう言って、口元をくしゃっと崩して笑った。放熱フィンが近い。じわじわ温度が伝わってくる。肩の補修跡まで、目が引っかかる。
気づいたら、僕はまた脈をトントン叩いていた。我ながら末期かもしれない。
ただ、無邪気に笑っているノアを見つめていると、腹の底へ冷たい石がドスンと落ちていく。
――180日。
プログラムの数字は、容赦なく脳裏に刻まれていた。
あと79。
カウントダウンは、もう遠い未来の数字じゃない。両手の指を順に折りたたんでいけば、あっけなく届いてしまう短さだ。
明日、目が覚めたらノアが停止しているかもしれない。この手の温もりが、跡形もなく消えてしまうかもしれない。
想像すると、背筋に冷や汗が吹き出す。息の吸い方が分からなくなる。肺がキュッと縮み上がるような恐怖が、喉を絞めつけてきた。
考えない、と決めても、張り付いて離れない。人間は、終わりが約束された幸せを前にすると、こうも無力になるのか。
それでも、今を止める方法を、僕は知らなかった。
「ノア……ちょっと、付き合ってほしい場所があるんだ」
僕は震える手で、ノアの手を強く握り直した。
「拒否します。泥まみれ暴走案件なら、ダン様お一人でやってください。私、まだパテが乾いていないので浸水したら普通に壊れます」
ノアは自分の肩を横目で見やり、心底面倒くさそうな仕草で、手を振り払おうとしてきた。
僕は苦笑いしながら立ち上がり、その細い腕を強引に引っ張った。
「違うって。駅前だよ。まだ秘密にしてた場所があるんだ」
◇ ◇ ◇
駅が近づくと、人の流れが濃くなってきた。ターミナル・モールの入口では、開店前の店員がホログラム看板の角度調整に手こずっている。
カフェの前には、開店待ちの女子が二人。朝一番のテンションで、お互いの推しについて喋り倒すオーラが全開だ。あの元気の半分でも、今の僕に分けてほしい。
通り抜ける途中のカッパ広場で、ノアがぴたりと止まった。
「……いました」
何かと思って目線を追うと、ホログラムのカッパ像が、朝の光の中でぬるく水色に発光していた。
今日も相変わらずで、税金の使い道を三回は見失ったような、何とも言えない顔をしている。
「ちょっとノア、何それ? 真顔で、いましたって。指名手配犯でも見つけたのかと思ったよ」
僕は笑いをこらえきれずに、痛む肩を揺らした。
「私にとっては、かなり重要参考存在です」
ノアは、微動だにせず答える。それから、カッパ像をじっと見上げた。
「ここ、最初にダン様と出会った場所です」
そう言われた瞬間、僕の足もピタッと止まった。出会ったあの日の映像が、脳内で勝手に再生される。
当時のノアは、もっとよそよそしくて、非の打ちどころがなかった。笑い方も、喋り方も、すべて完璧。手の届かない高嶺の花だった。
僕は、カッパの頭の皿を見上げてつぶやいた。
「……そうだね。今思うと、人生最大の出会いがこいつの前って、だいぶどうかしてるかも」
「はい、嫌です。もっと運命的な背景がよかったです。夕暮れの観覧車とか、雨の歩道橋とか。せめて水色の珍獣ではなく、もっと外見が整っている哺乳類とか?」
「最後だけジャンルおかしいから!なんで生き物に進化してるの」
ノアは、ちょっと首をかしげた。それから、容赦なくカッパ像を指差す。
「見てください、この雑な造形。親しみと地元愛と未来感を、全部同時にどんぶりに入れて、乱暴にかき混ぜた惨状です」
「言い方ひどすぎない?」
「しかも、私たちの始まりの記念碑がこれなんて。ロマンチックの神様が、激怒してふて寝するレベルです」
僕は吹き出しそうになりながら、ノアの隣に並んだ。
「でもまあ、その絶望的なセンス込みで、僕らっぽいんじゃないの」
「各停人生のダン様と、バグまみれの私ですもんね?」
ノアが僕を覗き込んできた。
「オシャレな観覧車より、この予算をケチった水色の怪物の前で拾われた方が、ダン様にはお似合いです」
「……怪物扱いするな! あと僕を拾ったみたいな言い方やめて!」
やり取りの途中で、広場の端にいた幼い子どもが、カッパ像に向かって手を振った。
ホログラムが反応して、頭上に水色の輪が、ポンッと浮かぶ。子どもは、キャッキャと笑って、母親の足にしがみついた。
ノアは、その様子をじっと見ていた。
「ねえ、ダン様。前の私は、ああいう子どもの反応を、地域接続型ホログラムへの定型的好意反応として処理していました」
「うん。その言い方が、もう全然かわいくないから」
「でも、今は違います。分かるんです。こういう急がなくていい場所で、どうでもいい像を見ながら足を止めてしまう、この感じが」
そう言ってから、ぐるっと広場を見回した。自分のシステムを整えるように、小さく肩を上下させている。
ノアはカッパを捉えたまま続けた。
「効率は悪いです、かなり。でも、嫌いじゃありません。むしろ、ちょっと好きです」
それから左胸のあたりに手を当てた。
「昨日から、こういう無駄に内部がよく反応します。たぶん私のコア、順調にポンコツ化が進んでいます」
「誇らしげに言うことじゃないって」
「ダン様、褒めてください」
ノアが、すっと手を出した。
「大きな進化ですよ。昨日は戦闘モード、今日はカッパの前で感傷モード。情緒の振れ幅が、かなり人間寄りです」
「ひどい進化だけど?」
「はい、末期です」
その返しがあまりに早くて、僕はとうとう声を出して笑った。
広場のド真ん中で、ノアの白くて細い手を取った。人が行き交い、カフェのドアが開いて、モールのガラスに朝の光が跳ねている。
手を繋いで並んで立てること。
くだらないことで笑えること。
もう、どうしようもなく心地よかった。今は正直、怖いくらいだ。でも満ち足りた時間ほど、終わりを先に考えてしまう。
「ねえ、ダン様。……ダン様?」
ノアが顔をのぞき込んできた。少し黙りすぎたかもしれない。僕は慌てて首を振った。
「いや、ごめん。何でもないんだ」
そう言ってから、カッパ像をあごでしゃくった。
「でも、まあ、最初がこれでよかったのかもね」
「なぜですか?」
「最初から完璧すぎたら、きっと緊張してたから。ちょっとずれた景色の方が、僕たちには絶対合ってるって」
ノアがその言葉を聞いて、ふふっと笑った。
「はい、ダン様。私も完璧すぎるより、ちょっと抜けてる方が落ち着きます。ダン様の隣も、その方が居やすいです」
そう言って、自分の胸元を押さえた。ふい打ちだった。
「……なっ、何言って……っ、前触れなく言うなって」
女子耐性マイナスの僕の脳は、何も変わっていなかった。心拍数は猛暑日並みに跳ね上がり、頬が急速に熱を帯びていく。
「あっ、照れてますね、バグ確ですか?」
ノアは、ぱちりと、わざとらしくまばたきした。
「……照れてませんけど」
「では、顔が真っ赤なのは放熱ですか?」
「うるさい!」
即答すると、ノアは満足そうに笑って僕の手を取り直す。
「行きましょう、ダン様。で、私はどこへ連行されるんですか?」
僕は、ぎゅっと握り返した。
「人聞きが悪いよ。……まぁ、着いてからの、お楽しみってことで」
僕たちは広場を抜けて、駅裏の薄暗い路地へと向かった。
あと79日。どれだけ世界に邪魔されようと、ノアに笑っていてほしい。
ポケットに突っ込んだ手で、汗ばんだ封筒をクシャっと握った。深夜バイトで泥のように働き、吐きそうになりながら稼いだお金。
今の僕がノアに贈れる、精一杯の証明だ。ノアがどう反応するか想像すると、期待と不安があふれ出して止まらなかった。
僕は封筒の角を指先で確かめながら、わずかに歩調を早めた。
午前の柔らかな日差しの中で、カッパ像が水色に揺れている。きっと十年先も、ここでぬるく光っているんだろう。
なのに、僕の手の中にある体温は、あと79日で消える。そんな不条理への怒りを、ポケットの中の希望で塗りつぶした。
でも――この時の僕は、気づいていなかった。
カッパの足元の、光が届かない小さな影。無機質な赤レンズが、僕たちの背中を正確にロックオンしていた。
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【NOA CORE COUNTDOWN】
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