22nd Broadcast Episode:世界崩壊と再契約(A)
泥だらけのスリッポン。引き裂かれたシャツ。顔には、ヘドロをそのまま擦り込んだ汚れがこびりついている。
今の僕を鏡で見たら、ゴミ捨て場に転がってるマネキンの方が、まだちゃんとした人間に見えるはずだ。
心臓がドクドクと暴れて、呼吸が整わない。頭の中が熱くて、ずっとうるさい。
嫌われプログラムが発動した、冷たいノア。それでも泣いていた。あの青白い一筋は、どうやっても見間違いになんてできない。
僕は、その事実にしがみついて、奈落の底から無理やり体を起こそうとしていた。
「お兄ちゃん、ガチでキモいんだけど。ドブ川にダイブして、カッパと相撲でもしてきたわけ?」
そこは、駅裏の旧街区にあるタケルのジャンクショップだ。怪しい基板と、古いホログラムのノイズが漂う、ガラクタ部屋。
その真ん中で、凛が半開きのジト目で僕を見下ろしていた。市役所帰りの制服姿で、泥だらけの兄を完全に汚物扱いしている。
床にへたり込んだまま、枯れた声を絞り出した。
「だから……見たんだよ。ノアの涙を」
口の中には、まだ駅前ロータリーの砂利の味が残っている。あれを見間違いで片づけたら、全部が切れる気がした。
タケルが、古びたモニターから顔を上げ、ゴーグルをカチャリと跳ね上げた。
「涙? アンドロイドの冷却液が漏れたんじゃねえのか」
返ってきたのは修理屋の答えだった。
「この辺のアスファルト、デコボコだからな。振動でパッキンがイカれたんだろ」
「違う! あれはガチの涙だ!」
音量が勝手に大きくなった。
「あいつ、泣いたんだよ! 僕を……ダン様って呼んだんだ! まだ残ってたんだよ、ノアが!」
タケルの反応が変わった。モニターの波形が、激しく上下している。
「同調率99.9%の極限状態で、無理やり人格を上書きされたせいか……バグだな」
ゴーグルの中の目が、わずかに細くなった。
「スパコンでも予測できない、マジのイレギュラーだ。お前、ノアをギリギリで引き戻したんだよ」
タケルの表情から、さっきまでの軽さが消えた。もう冗談で済ませる気はない。
「いいか、ダン。ノアは今、市役所だ」
画面を睨みながら言った。
「地下のサーバーに幽閉されてる。もっと正確に言うと、嫌われプログラムの地獄みてえなフィルターで、お前への愛を憎しみに強制変換されてる」
キーボードを叩く音が、一段強くなった。
「これ、精神的な強制労働だろ」
その言い方で、急に現実味が出た。ふざけた名前なのに、本当に地獄なんだと腹に落ちた。
「……助け出す方法は?」
僕が身を乗り出すと、凛がスマホをスワイプして、市役所の立体図を空中に出した。
地下深くに、北浦和中枢区のAI研究棟と直通の巨大なサーバールームがある。
「正面突破は……はい、無理ゲー確定ね。セキュリティはガチ鬼レベル。生体認証からAI監視までフルコンボ」
図面の一部が拡大された。
「抜け道なんて、エラーでフリーズしたログイン画面くらい見つからない」
凛は冷たく言い放ち、別の区画を開いた。
「でも……唯一の抜け道がある」
画面上の印が、市役所の裏手を示した。
「ジモピー専用の、裏から入れるやつ」
そこは、堤防沿いにある古い排水ダクトだ。
「ここ、柳瀬川が増水でヤバい時用のサブ放水路なの」
そう言って、ポケットからラムネの袋を取り出し、器用に一粒つまんで口へ弾き入れた。ポリポリと小気味よい音が、重苦しい空気を場違いに刻む。
「100年分のヘドロと不法投棄の黒歴史が詰まってる場所。今のお兄ちゃんなら、泥まみれすぎて逆にハマるじゃん。背景と同化できるかも」
「ふん、やってやるよ」
喉の痛みを押し潰して、無理やり息を吸った。
「背景役なら得意だ。ノアを、制度の鎖から引きずり戻す」
タケルに差し出された、セキュリティ突破用の怪しいUSBメモリを握りしめた。
傷だらけで、どこかのジャンクパーツから抜き取ってきた、不格好な武器だ。
「いいか、ダン。そいつをサーバーのコアにブチ込め」
その言葉には、逃げ道がなかった。
「お前の脳内に残ったノアのバグを、市役所のクリーンなシステムに逆流させるんだ」
タケルはポケットからいつもの十ミリボルトを取り出すと、指先でクルクルと猛スピードで回し始めた。この無茶を本気で勝ち筋に変えるつもりだ。
「お前の全人生の恥を、弾丸にして撃ち込め!」
「恥、か……」
乾いた笑いが、うまく出なかった。
「そんなの、カッパの皿に山盛りできるくらい持ってるよ」
負け犬が、システムという名の神様に喧嘩を売る。駅裏の油っぽい煙の中で、その覚悟が静かに立ち上がった。
あとはもう、潜って、壊して、取り戻すしかない。
◇ ◇ ◇
「あのさ、凛。この排水ダクト、百年放置した納豆みたいな匂いするんだけど……。くさっ……嗅覚が避難命令を出してる」
公衆トイレの底に沈んでいそうなヘドロだらけの放水路を、僕はイモムシ同然の格好で這っていた。
この街の地下インフラは、何十年も継ぎ足してきた配管とケーブルのツケを、そのまま引きずっている。
北浦和なら排水溝まで自動洗浄されて、バラの香りでもしてるのかもしれない。
『はいはい、黙って進んで。その思考停止マシュマロ脳、今すぐノアお姉ちゃん救出モードに再起動して』
耳の超小型通信機から、凛の容赦ない毒舌が聞こえた。今ごろあいつは、市役所の警備システムを内部からハックしている。
僕の進むルートの監視カメラは、カッパが延々クロールで横切る、ふざけたループ映像に差し替えられていた。でも、そんな偽装がいつまで持つか分からない。。
「タケル、そっちはどうだ?」
『おう、順調。裏口は見つけた。……でも、ここから先は無理だ。雨宮の野郎、サーバーの入口にサイコウォールって精神防壁を張ってやがる』
「精神防壁って、何だ? 役所の窓口でたらい回しにされる時の、あの拒絶感の強化版か?」
『いや、もっと悪い。脳に直接干渉して、いちばん痛い記憶で潰してくる防衛プログラムだ。……来るぞ』
僕が最後のダクトの格子を蹴り破り、地下の冷え切った通路に降り立った時だった。
突然、空間がぐにゃりと歪み、ホログラムが実体の輪郭を持ち始めた。
「えっ、ダン? あんた、まだそんなことやってんの? 泥まみれになって、機械の人形を追いかけて……マジでドン引きなんだけど」
そこに立っていたのは、数ヶ月前に僕をフった元カノ、サエの偽物だった。あの日と同じ、道端の染みでも眺める視線まで、きっちり再現されている。
続いて現れたのは、高校の同級生たちだった。
僕を指差して笑う顔、顔、顔。どれも、嫌になるほど見覚えがある。
「見てよ、あの各停男。自分を救えないからって、アンドロイドに逃げてやんの」
「志木から出られない、一生負け犬のダン君! ダセえ、マジでダセえよ!」
僕は頭を抱えながら喚いた。
「っ、う、うっせえよ! 偽物のくせに、えらそうにすんな!」
ホログラムは容赦ない。
次に現れたのは、ノアだった。
でも、その顔には温度がない。瞳は硬く閉じたままで、感情が一ミリも浮かんでいない。
昨日、僕をゴミとして切り捨てた、あの表情そのものだ。
「ダン。あなたの志木愛は、前に進めない言い訳です」
「あなたの優しさは、相手を縛るための自己満足です」
「失恋したのは当然です。選ばれない理由が、あなたには多すぎます」
にせのノアが、じわじわと心の内側を削ってくる。市役所のサーバーは、僕が一番見られたくない情けなさを、正確にえぐり出してきた。
「ぐっ……ガチで、きついわ、これ……」
足が震え、冷たい床に膝をついた。
ノアが、僕を見下して笑っている。それは、人を刺すために作られた動きだった。
脳内に残ったリンクデータが、この精神攻撃に反応してノイズをまき散らし始めた。
『おい、ダン! そこで止まるな! それは雨宮の書いたクソ脚本でしかない!』
タケルが怒鳴った。
『いいか、ダン。よく聞け! お前の脳内には、まだノアのバグが残ってるだろ?』
通信機の音が、耳の奥でひび割れている。
『そいつを、そのホログラムにぶつけろ! お前の一番カッコ悪い本音で、スパコンの演算をブチ壊してやれ!』
「本音……」
泥まみれの顔を上げた。目の前のノアは、相変わらず温度のない美しさを保っている。
「ああ、そうだ……。たしかに僕は負け犬だよ。志木から一歩も出られない、各停人生だよ」
泥を拭う暇もなく、にせのノアを睨み返す。
「でも……! 僕のダサさも、情けなさも、ノアは笑わなかった! だから僕は、まだ生きてていいって思えたんだよッ!!」
タケルから渡された傷だらけのUSBメモリを、サーバーの緊急アクセス端子に押し込んだ。
脳からノアの思い出ログが逆流し、市役所のクリーンなシステムを侵食し始めた。僕の中の泥が、そのまま最新鋭の回路を汚していく。
「いっ、痛っ……! 脳みそが……天地ごとひっくり返った!」
にせのノアの頬に、鋭いノイズが走る。直後、凍りついていた美貌が、ひびを入れながら崩れて消えた。
同時に、地下通路の暗闇に赤い警告灯が走り、頭上から無機質な電子アナウンスが流れる。
『外部侵入による防壁突破を確認。対象R-180の強制初期化プロトコルを最優先実行――完全消去まで、あと三分』
「な……ッ!?」
『しまった……。 偽物をぶち壊したせいで、 初期化のスピードが最速に跳ね上がってる!』
タケルの怒号が、最悪の事実を告げていた。
「待って……! 頼む、待ってくれノアッ!!」
僕は膝をガクガクさせながら、地下深くへ続く闇の中をがむしゃらに走り出した。




