21st Broadcast Episode:嫌われプログラム(B)
僕はアパートの階段を転げ落ちる勢いで駆け下り、そのまま駅前ロータリーへ走った。
ターミナルモールの横を抜け、タクシー乗り場が見えてきた。肺は、今にも潰れそうに悲鳴を上げている。喉が干からびて、息がうまく通らない。
僕の記憶を消したノアの仕草が、まだ目に焼きついていた。深夜の駅前ターミナルには、終電を逃した学生の笑い声が遠くで浮いている。
その時、ロータリーの真ん中に、この街には似合わない白い高級セダンが滑り込んできた。駅前の光を、異様なほど綺麗に反射している。
後部座席のガラスは黒く、車内の様子は見えなかった。それでも、誰かがいる気配が残っている。
「ノア! どこにいる? 待ってくれよッ!」
僕の叫びは、深夜のロータリーに響くゴミ回収車の回転音に飲まれた。運転席の窓が静かに下がり、雨宮が顔を出した。
「その名前を、もう三回は呼んでいるよ」
雨宮は僕じゃなく、その後ろの駅を眺めている。
「やあ、各駅停車。まだ必死だね。行き先を間違えた迷子そのものだ」
口をついて出た悪態とは違って、スマートグラスの先にあるのは、いつもの冷徹な拒絶じゃなかった。
その目に気づいた瞬間、僕の足が止まった。何かがおかしい。
「雨宮……。あんた、ノアに何をした……?」
雨宮は、すぐには答えなかった。その表情が痛々しいほどに強張っている。
ボロボロになって叫ぶ僕の姿が、誰かと重なり、引き剥がせない記憶の底へ沈み込んでいる顔。
僕が車に触れようとした、その時だった。黒い窓の裏側で、何かがわずかに動いた。
「不快です。その汚れた手で、公用車に触れないでください」
伸ばした指先が、無機質な力で弾かれた。後部座席から降りてきたのは、ノアだった。
「……ノア」
「雨宮主任。報告します」
ノアは、僕には目もくれずに言った。
「被験者ヒロセ・ダンの依存度は、予想を大幅に上回っていました。想定以上の感情ノイズを検出しました」
灰色の視線が、一瞬、僕をかすめた。
「私の論理回路を、稚拙な妄想で汚染しようとしました。嫌悪反応が止まりません。再起動を早めて正解でしたね」
雨宮の隣に、従順な秘書のように並んだ。もう、あの熱は一滴も残っていない。
「聞こえただろう、ダン君。これが現実だ」
雨宮は、いつもの能面に戻っている。講義でもする口調で言った。
「君一人の感情で、社会のシステムを壊すわけにはいかない。君と過ごした日々は、彼女にとってバグの温床でしかなかった」
スマートキーが、その手のひらでクルクルと回る。
「君が必死に捧げた愛も、その無様な汗も、今の彼女にとってはノイズまみれの低解像度動画でしかないんだよ」
雨宮は無理やり口角を上げて、薄く笑った。
「ダン。砂利道を二人で歩くなんて、非効率の極みです。私の足の接合部に、無駄な摩擦係数しか増えません」
ノアは、そこで話を止めた。次の一言を探す、微妙な間が空く。
「ああ、髪に付いていたヘアピンは駅前のゴミ箱に捨てました。あんな安物、あそこがお似合いです」
「……ゴミ、箱」
その言葉は、他の罵倒よりずっと深く刺さった。
最初のデートで、僕が贈ったヘアピン。あの時の店の明かりや、並んだ安物のアクセサリーまで、生々しく思い出す。
胸の深いところで、まだ踏ん張っていた最後の支えが、音を立てて折れた。
「そうです。あなたの存在も、あなたの想いも、これにてすべてデリート完了」
そう言いながら、僕ではなく雨宮を見ていた。
「さあ、雨宮主任。行きましょう。ボロアパートの電圧は不安定すぎて話になりません。もっと知的で、安定した電力が供給される所へ」
そして、高級車のドアノブに触れる。その指が、一瞬止まった。左の目尻で、白銀のまつ毛がかすかに震えている。
見間違いかもしれない。けれど、そのわずかな遅れが、まだ終わっていないと知らせていた。
「待て! 行かせるかよ!」
僕が反射的に腕をつかんだ直後。ノアがわずかに動いた。その動き一つで、僕はアスファルトに叩きつけられる。
「あ、が……ッ!」
「触れるな、と言ったはずです」
ノアの声は、どこまでも冷淡で、機械的な出力だった。
「あなたの体液まみれの指が触れると、私の外装強度が低下します」
温度のない顔が、僕を見下ろしている。
「被験者さん。最後のアドバイスです。あなたは一生、この泥の匂いにまみれて、誰にも必要とされずに朽ちていけばいいんですよ」
ノアが、フッと鼻であざ笑った。かつて二人で笑い合ったものとは別物の、軽蔑そのもだった。
白いセダンが、デコボコのアスファルトを静かに滑り出した。
僕は地面に這いつくばったまま、遠ざかるテールランプを見送るしかなかった。口の中に、ロータリーの砂利と鉄の味が広がっている。
それでも、ノアがそこにいる限り、終わりにはできない。膝の擦り傷から血を流しながら、もう一度走り出した。
追いつける保証なんてなかった。でも、ここで足を止めたら、本当に手の届かない場所へ行ってしまう。
◇ ◇ ◇
安物のスリッポンは、一歩踏み出すたびに足を削ってきた。
「ハァ、ハァ……待て……待てって、言ってんだよ……!」
叫んでも、白い車体は少しもためらわなかった。僕は駅の灯りを抜けて、そのテールランプを目印に走り続けている。
堤防沿いの古びた街灯が、今にも消えそうに、チカチカと点滅していた。
「ノア! 聞こえるか!」
肺はつぶれかけて、吸っても吸っても酸素が足りない。走るたびに、靴の中で血がぬるく滑った。でも、止まったら僕の中の何かが死ぬ。
「僕のいびきが安心するって言ったじゃんか!あれは嘘じゃない!」
息が切れて、喉が裂けそうだ。
「システムが何を言っても、ノアのバグは僕の中にあるんだよ!」
車が土手沿いの道に差し掛かった。雨宮がアクセルを踏み込む。白いセダンが、無言で加速する。
足が、ついにもつれた。前のめりに倒れ込み、湿った土を顔面で受け止める。
土をつかもうとしても、力が入らなかった。立ち上がるための筋力が、もう残っていない。
「うっ、あ、ぐ……ッ」
腐った泥の味がした。みじめだ。サエにフラれた時より、ずっとひどい。今の僕は、目をそらしたくなるほど情けない。
それでも、顔を上げた。泥まみれで、遠ざかるテールランプに向かって叫ぶ。
「ノアの自虐が大好きなんだよ!」
「ノアのバグが愛おしいんだよ!」
そこまで叫んで、もう隠してる余裕なんてどこにもなかった。
心臓のもっと奥から、最後の言葉を無理やり引きずり出した。
「ノアーッ! 愛してるッ!!!」
返事なんて来ないと分かってる。それでも叫ぶしかなかった。無様な愛の告白が、夜風に溶けかけた、その時――
視界が限界まで引き絞られ、走る車の輪郭がコマ送りに変わる。
――後部座席で、ノアの体がびくりと跳ねた。首をこっちへ向けようとしている。
でも、その動きはひどく不自然で、見ているこっちまで苦しかった。システムへ引き戻す力に、無理やり逆らっている。
暗い窓越しに、僕とノアの視線がぶつかる。グレーに沈んでいた瞳の奥で、押し殺されていたゴールドの光がパンッと弾けた。
追いかけるように、ノアの頬を一筋の青白い液体が流れていった。それは雨でも、結露でもない。
『本当に……ガチでバカ、ですね。ダン……さ……ま』
ノイズまみれの、消えそうな声だった。途中で何度も途切れたのに、その最後は、はっきりと鮮明に届いた。
リンクの残響が、胸の中心にジワッと広がる。それはまぎれもなく、僕が愛してる、バグだらけのノアだった。
「ノ……ア……」
車は、そのまま一気に加速し、夜の向こう側へ消えていった。遠く及ばない、清潔で高解像度な側へ。
後に残されたのは、柳瀬川のせせらぎと、泥だらけで立ち尽くす僕だけ。川の水は、何も知らずに流れ続けている。
膝は傷だらけで、血が流れている。それでも、僕はまだ生きていた。
「なんで……なんでノアが、泣かなきゃいけないんだよ……」
力の限り地面を殴った。拳に焼ける痛みが走る。でもその痛みは、ノアが泣いていた光景が、夢でも幻でもないことを突きつけてきた。
ふと、目の前の泥の中で、キラリと何かが光った。地べたを這いつくばって、震える指先で拾い上げる。
「……これ、……何でここに?」
息が止まった。ノアがゴミ箱に捨てたと言っていた、あの百円のヘアピンだ。
思考が凍りつく。サラサラという川の流れが完全に消え、世界からすべての音が無くなった。
システムに操られたノアの行動と、手の中にある非効率な金属片。二つの矛盾が、噛み合わないまま僕を引き裂こうとしている。
――その時、脳裏に真っ白な光の矢が、真っすぐに走った。
「バグ……」
ノアは、捨ててなんかいない。ずっと持っていた。そして、わざわざここに落としていったんだ。
プログラムが消したはずの記憶。でも、どうしても消しきれなかったバグを、僕に残していった。
泥だらけの手で、夜空に向かってヘアピンを高く掲げた。まだ、わずかに温かい。強く握られていた跡が、金属に残っている。
僕は、今は聞こえないあの駆動音を探して、手首をいつも通りトントン叩いた。
「待ってて、ノア。……システムぶっ壊してでも、僕が必ず取り戻す」
ヘアピンを握りしめたまま、欠けた月を見上げた。まだ終わっていない。終わらせる気も、なかった。
——ピピッ!
突然、胸のスマホ端末が電子音を鳴らした。画面に浮かび上がったのは、冷酷な国家システムからの通知。
【開始通知:志木市役所・失恋特区管理課】
被験者・広瀬楽。
嫌われプログラムフェーズ2完了。
対象機体は、記憶完全初期化および解体処分工程に入ります。
端末を握る手が、一瞬で凍りついた。解体処分。初期化。膝の痛みが、絶望の温度が、一気に全身を塗りつぶしていく。
届かない。間に合わない。僕じゃ、何も——。
「……ったく」
ポン、と唐突に肩を叩かれた。
「みっともなく泣いてる場合じゃねえだろ、各停男!」
驚いて顔を上げると、真っ暗な土手に、見慣れた不敵な笑顔が立っている。その手には、月光にピカッと反射する十ミリボルトが握られていた。
「リニア急行に乗り換えるぞ、ダン。反撃の時間だ」




