20th Broadcast Episode:嫌われプログラム(A)
ノアは窓の前に立っている。僕なんて最初からこの部屋にいない、という顔で。
ガラスの向こうの夜景を見たまま、こっちへは一度も振り向かなかった。僕を呼んでいたあの気配は、もうどこにも残っていない。
「……ノア」
何とか口に出そうとして、喉元で引っかかった。
冷や汗で濡れた手を、恐る恐る伸ばす。届く寸前で、ノアの体がわずかに外れた。
距離を取った、なんて生ぬるい話じゃない。触れられる可能性を、最短工程でゼロにする動き。僕の手は、空気しかつかめなかった。
ノアは一歩ぶん距離を取り、それからゆっくりと振り向いた。
いや、違う。
これは、もうノアじゃない。
瞳の色から、あの黄金は消えている。濁ったグレー。人の感情を返さない色。
人を見るためのものでもない。
これは測定だ。
ノアは、はっきりと眉をしかめた。起伏のない口調でも、出てくる言葉は鋭利に突き刺さる。
「近づかないでください。あなたの体臭と精神状態は、控えめに言って不快です」
灰色の目が、僕を測りつつ言った。
「観測精度が下がります。被験者さん。あなたは、かなり見苦しい状態にあります」
その言い方は、怒りでも軽蔑でもなかった。必要な嫌悪を、決められた段取りで出力している。
「ノア……マジで言ってるの?」
自分でも情けないくらい、声が弱かった。
「さっきリンクしたじゃん。僕の頭の中に、大好きが流れてきて……あれ、全部……」
ノアは、僕を見ているんじゃない。ただ観測していた。感情を拾う気もない。ただ答えるために処理しているだけ。
「ああ、あれですか」
返事はどこまでも平坦で、規格通りだった。
「リハビリプログラムにおける、被験者を依存させるための標準的なエサですよ」
その唇が薄く、無機質に歪んだ。
「まさか本気にしたんですか? 志木市民の想像力って、柳瀬川の深さと同じくらい浅いんですね。マジウケる、あわれ」
ノアは笑った。でも、そこに温度はない。ただの記号だ。体の奥深くがきつく締め付けられて、息がうまく吸えなかった。
「……標準的な、エサ」
自分の口から出た声は、ずいぶん遠くに聞こえた。僕の中にあった熱が、さらに冷えていく。
「そうです」
何のためらいもなく断言した。
「今日から私のモードは、依存から自立へ移行します」
体温のない眼差しが、僕の輪郭を機械的になぞる。
「大宮にも北浦和にも行けず、この中途半端な街に安住している解像度の低いあなたを、私の視界からデリートします」
そして、床へ落ちている僕の靴下へ視線を移した。
「見てください、この生活感。この部屋、旧時代の負の遺産の腐臭がします。あなたの隣にいると、システムが拒否反応を起こすんですよ」
それから、レンズのフォーカスを真っすぐ僕に合わせた。
「わかりますか?」
首を少し傾けて、手順をなぞるように問いかけてくる。
「あなたは、最適化の対象外です。ダン」
はっきりと呼び捨てにした。その二文字が、胸の隅にわずかに残っていたものを、グシャッと踏み潰していく。
「嫌われプログラム、本気でエグすぎだって。頼む、冗談だって言ってよ……」
喉に焼けるほどの痛みが走る。足元の畳が、このまま沈んでいく気がした。
「冗談?」
ノアは事務的に繰り返した。
「私の辞書に、そんな非効率な文字列はありません。今の私は、あなたの存在を無駄だと定義しています」
部屋の中の一つひとつが、端から順に値踏みされていった。
「この狭い部屋、安っぽい家具、そして向上心も解像度も低いあなた。全部まとめて、私のストレージを圧迫する削除待ちのゴミログです」
ノアは机の上に置いてあった、二人で撮った唯一の写真へ手を伸ばした。陽だまりの土手で、照れながらピースする僕と、ぎこちなく笑うノア。
僕の聖域が、白い指先につかまれた。温かかったその手が、今は冷え切った金属にしか見えない。
「これ、必要ありませんよね。あなたの思い出、可燃ゴミで出せますよね?」
表情ひとつ変えず、写真を真っ二つに引き裂いた。バリバリッ、という乾いた音が、狭い部屋で異様に響く。
そのままゴミ箱へ、ストンと落とした。
「……ぁ」
僕の中で、何かがはっきり折れた。言葉も出ない。肺の出口がきつく詰まり、呼吸の仕方が分からなくなる。
「被験者ダン。あなたとの関係は、ここで終了処理します」
ノアは、もう僕を見てすらいなかった。窓の外を向いて、何かを観測している。夜は相変わらず、ひっそりと息をひそめていた。
「私はこれから、あなたが届かない場所へ行きます。処分待ちの不良品に、これ以上リソースを割けません」
クローゼットから、自分の充電ケーブルを無造作に引き抜いた。それは、今まで二人を繋いでいた最後の線だった。
視界がにじみ、足元の感覚もあいまいになっていく。それでも僕は、離れていく背中へ向かって、無理やり言葉を押し出した。
「ノア……待ってくれ。まだ、話は……」
でも、ノアは止まらなかった。
「話。無駄です。非効率」
返ってきたのは、機械の読み上げ音声そのものだった。
「次は、自分に見合った産業廃棄物にでも告白してください。あなたには、その程度が適切です」
畳に転がった僕を無視して、ドアへ向かった。
「待ってくれよ……!」
必死に、ノアの肩へ手を伸ばした。
「近寄るな、と言ったはずです」
――ドゴッ!
「接触禁止、恋愛廃棄物」
鈍い音が、狭い部屋に響く。背中を向けたまま、ノアは最小限の動きで僕のみぞおちにヒジを叩きこんでいた。
殺さない。でも確実に動けなくする。そんな計算が詰まった一撃。
「が、はっ……!」
肺の中の酸素が、一気に消えた。安物の木製チェストに、背中からぶつかる。
棚の上に置いていた、柳瀬川の土手で拾った河原石や、駅前のカッパ像のキーホルダーが飛び散る。無残に床を転がって、倒れた僕に当たった。
「ダン。あなたの執着を演算すると、私のキャッシュが汚れます。なぜ、自分が捨てられたという事実が理解できないんですか」
ノアは僕を一瞥した。口元が冷淡にゆがんでいる。
「あなたが誰かに選ばれる未来など、最初から存在しません。今も、これからも、永遠に」
それで用は済んだと言わんばかりに、すぐそっぽを向いた。口を開いても、空気がうまく入ってこない。
「嘘だ……ノア、さっき……安心するって……言ったじゃんか……」
顔を上げるのがやっとで、涙も鼻水も拭えない。途切れる息で、何とか絞り出す。
「ああ、あのバグデータですか。今、目の前で削除してあげます。安心してください、一瞬ですから」
こめかみに指先を当て、空中にホログラムのウィンドウを開いた。僕と過ごした日々のログが、光の粒になって並んでいる。
この街の夕暮れ。半額シールを奪い合ったスーパー。深夜に二人で笑いながら見たゲーム配信。どれも、僕にとっては人生の宝物だ。
「セクター3から60。関連する感情パラメータ、および被験者ヒロセ・ダンの固有名詞に関連する全メモリ。一括消去、実行」
ノアは一瞬、僕へ目を向けた。
「やめて……ノア、やめてくれ……!」
でも、止まらなかった。必死の叫びは処理対象にすら入れず、『YES』を叩いた。光の粒が一瞬で、どす黒い灰に変わる。
そして、音もなく消えていった。明るかったものから、先に消えた。
「完了」
ノアは、フウッと短い排気音を吐いた。
「ようやくメインフレームが軽くなりました。あなたとの記録が残っていた数秒前までの私を、初期化したいくらいです」
口元が不気味な形に緩んだ。
「あなたが特別だと受け取った反応は、すべて被験者をつなぎ止めるための出力です。そもそも私の内部には、何も残っていません」
処理を終えた機械として、満足そうに笑った。そこにあるのは軽さのみ。血は通っていない。
「……マジで……消した、のかよ……」
「消した」
ノアは、機械的に繰り返した。
「主語を間違えないでください。私は市役所の業務を遂行しただけ。あなたは実験動物。それ以上でも、以下でもありません」
グレーの向こう側には、揺れがひとつもない。
「今のあなたの反応も、実験動物としての標準的な反応です」
その一言が、頭の奥深くへ、どんよりと重く沈んでいく。
「不要物の処理は完了。これ以上、同じ空間にいる理由がありません。二度と私の視界に、その低解像度なツラをさらさないでください」
ドアノブに手をかけながら言った。それが、僕へ向けられた最後の贈り物に聞こえた。
ドアが閉まった。鍵のかかる、カチッという響きが、耳に痛いほど大きく残っている。
「……待って……待ってくれよ……!」
声が飛んでも体がついてこなかった。酸欠でふらつきながら、必死に玄関へ向かう。焦って足がもつれ、段差の角にスネをぶつける。
「いっ……たっ……ッ」
のたうち回る僕に、隣の住人の怒鳴り声が壁越しに飛んできた。
「うるせえぞ!夜中に何騒いでんだ、このド底辺が!さっさと川に落ちろ!」
息が戻らないまま、玄関の床に膝をついた。みぞおちのあたりが、まだ潰れている。
ノアに捨てられて、隣の住人に底辺扱いされて。人間って、ここまで落ちるんだなと思ったら、笑う気力も出なかった。
ドアの隙間から、川沿いの湿った風が入り込んでくる。頬に残った涙が冷えていく。
ここで止まったら本当に終わってしまう。僕は奥歯を強く噛んで、全てを振り絞って立ち上がった。
ノアが消えた夜の街へ、転がるように飛び出していった。




