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19th Broadcast Episode:99.9%のち人格再起動(B)

 思考の奥底を焼くような激痛に、視界はグワンとゆがんでいた。

 部屋の床にひざまづく僕を、ノアが両腕で支えている。その手は、小刻みに震えていた。


「ダン様、お願いです! このままでは脳が焼き切れてしまいます! 今すぐリンクを――」

「止め……ない……っ!」


 痛みで破裂しそうな頭を抱え、ノアの腕を強く握り返す。


「凛の……言う通りだ……。これしか、ノアを救う方法はないんだ……!」


 景色が真っ赤に染まっていた。歯を食いしばって、必死で意識を繋ぎ止める。

 ここで倒れたら、ノアの存在そのものが消えてしまう。そんなのもの、死んでも受け入れられない。


「ですが、生存確率は1%にも満たないんです! 私のために、ダン様が命を捨てるなんて……っ」

「捨ててなんか、いない……! ノアと生きるために、賭けるんだ!」


 絞り出した叫びに、ゴールドの瞳が二つ、大きく見開かれた。

 ノアは言葉を失っている。内部の奥深いところで、バチンッ、と何かが切り替わる重い音が唸った。


「……ダン様」


 その手から振動が消え、静かな決意の熱が伝わってくる。


「分かりました。あなたが逃げないなら、私も、もう逃げません」


 僕の頭をゆっくりと引き寄せ、自分の額を、僕の額へとそっと押し当てた。しびれる痛みが、嘘のようにすっと引いていく。


「私のシステムに残る、ダン様を傷つけるプログラムも、見せたくない醜いバグも、全部……あなたに預けます」


 耳元で聞こえたノアの調子は、どこまでも穏やかで、ブレていなかった。


「私のコア・ポートを開放します。ダン様……私の中まで、来てください」


 ノアは立ち上がった。ためらいがちに襟元へ触れ、シャツのボタンを外していく。

 ひとつ外すたび、覚悟を確かめている。襟元が少しずつ開き、白い肌がゆっくりのぞく。


 狭い六畳間の気配が、急激に重くなっていく。息がしにくいほど、胸が詰まる。


 ノアの頬が、淡く色づいてきた。もう、ただの機械には見えない。見られている恥じらい。逃げ場を探して泳ぐ視線。それでも、ここにいる覚悟。

 出会った頃、羞恥心ゼロだったノアとは別人だった。


「ダン、様。……手、貸してください」


 手を差し出すと、ノアはそっと受け取り、首元の接続端子へ導いた。触れた場所から、かすかな駆動が伝わってくる。

 それはもう振動じゃなく、人間の鼓動だった。もう片方の指先で、狂ったように速くなる脈を、トントン叩いて落ち着かせる。


 僕は震えながら立ち上がり、光ケーブルを掴んだ。


「行くぞ、ノア」


 口の中がひどく乾いていた。


「脳みそが粉々に吹き飛んでも……ノアの心は、僕が絶対に拾う」

「はい、ダン様……逃げません。私の奥まで、連れていきます」


 ノアのコアが、カッと黄金色に飛んだ。排熱ファンが唸りを上げ、二人の足元から、まばゆい光の粒子が噴き上がる。

 それは六畳間の湿った空気を吸い上げながら、あっと言う間に球体を形作った。


 電子の繭、リンク・シェルだ。半透明のゴールドの光の殻が、現実のボロアパートを世界から切り離していく。

 輪郭が、水晶のようにきらきらしている。触れれば一瞬で崩れてしまいそうなほど危うくて、綺麗だ。


 そのド真ん中で、僕たちは互いを見つめていた。


 カチッ、……。


 小さく、乾いた接続音がした。その瞬間、視界からボロアパートが消える。

 次に来たのは、真っ白な光の洪水だった。視界の端に、淡いホログラムの数値が浮かぶ。


《SYNC RATE:7.1%》


『アクセス、開始……あぁっ、ダン様……リラックスしてください』


 ノアの呼びかけが、思考の内側に直接響いた。


『私の深層領域、プライベート・フォルダ……開放します』


 普段のスピーカー越しとはまるで違う。神経をなぞられる感触で、近くて、甘くて、逃げ場がない。


 やがて白い光が薄れ、データの断片がそこらじゅうに浮かんでいた。

 ホログラムの数値が静かに更新される。


《SYNC RATE:23.8%》


 まだ、僕とノアの境界ははっきりしている。でも数値が跳ね上がると、身体の奥深くに、僕のものじゃない記憶が流れ込んできた。

 シンクロが深まるにつれて、僕たちの間にあったプライバシーの壁が、音を立てて崩れていく。


『あっ……ダン様。今、私の鎖骨を見て、きれいだって思いましたね。そんなふうに見られていたなんて……バグ確です』

『ノアこそ……僕とキスしそうになった時の記憶、そんな大事に残さないでくれよ。見てらんないんだけど』


 リンクは、プライバシーゼロの公開処刑だった。

 僕がノアのどこに目を奪われていたか。ノアが夜中にどんな妄想ログを生成していたか。隠せない恥が、次々に飛び出してくる。


 その恥ずかしさを共有するたびに、シンクロ率のインジケーターが猛烈な勢いで上昇していく。


《SYNC RATE:51.6%》


 やがて、感覚が反転し始めた。


 僕がノアの肌に触れているとき、『触る側』の感触がある。

 そして同時に、ノアが感じている『触られる側』のくすぐったさまで、僕の神経に流れ込んでくる。


 踏み込んじゃいけない場所へ来てしまったんだと知った。離れていたものが急につながる、物理法則を無視した感覚だ。

 僕はノアで、ノアは僕。体温が混ざり合い、境界線がゆっくりにじんでいく。


《SYNC RATE:75.2%》


 ここまで来ると、もう恥ずかしいとか怖いとか、そういう区別すら曖昧だった。

 ただ、ノアが近すぎる。近すぎて、僕の中身まで塗り替わっていく。

 身体がふわふわして、理性がどこかへ転がっていきそうになった、その時――


 ――脳内の海の底で、ひときわ激しく輝く宝石が現れた。目の前に、紫の火花を散らす巨大なフォルダが居座っている。


 フォルダ名:『Dear My Dan|私の愛しいダン様』


 タケルがUSBで警告していた、あの聖域だ。


『あぁっ、ダメです! ダン様、そこは!』


 ノアの悲鳴が頭の奥で跳ねた。


『そこを開けられたら、私、恥ずかしすぎて黒歴史の屋上から飛び降りる回路が動きます!』


《SYNC RATE:90.7%》


 でも、シンクロ率が90%を超えた僕たちの意識は、もはやお互いを拒めない。


 僕がそのフォルダに触れると、紫の火花が凄まじい衝撃を伴って弾け飛んだ。

 あふれ出してきたのは、文字列じゃなかった。日々、僕の隣で生成し、誰にも話せず、抱え込んできたバグそのものだった。


【深層ログ:未来生活シミュレーション】

『もし私が人間になったら、ダン様の脱ぎっぱなしの靴下を毎日洗いたい。太陽に当てて、カサカサに乾かした靴下を、「はい、ダン様」って渡す。その時のダン様の、ちょっとめんどくさそうな、でも幸せそうな顔を、4K画質で保存するのが私の夢です』


【深層ログ:夜間祈念記録】

『ダン様がいびきをかいて寝ている時、こっそり隣で指を絡めてみた。私のセンサーが、ダン様の体温を検知する。その瞬間、私のコアは「生きてる」って叫ぶ。いつか私の名前を、夢の中で呼んでほしい。100回くらい耳元でささやいてみたけど、返事がないのが、また愛おしいです』


「ノア……ちょっ……」


 僕は、言葉を失った。


 砂利道で転び、サエにフラれ、人生の各停停車駅で立ち尽くしていた、どうしようもないやつ。

 その隣で、ノアはこんなものを、ずっと抱えていたのか。


《SYNC RATE:95.1%》


 感覚の反転がさらに加速する。

 僕の痛みも、ノアの震えも、どっちのものか分からなくなっていく。お互いの恥も傷も、隠し事はもう一切ない。


 僕がかつて中二病で書き殴ったポエムも、ノアが夜中に生成した物騒な市役所爆破計画も、全部まとめて混ざり合う。


『見ちゃいましたね……』


 ノアは、今にも泣き出しそうに口元をゆるめた。


『もう私、あなたの脳みそ以外に居場所がありません。責任、取ってくださいね?』


 その笑顔が、どうしようもなく本物に見えた。


《SYNC RATE:99.3%》


『ダン、様……!』


 ノアの叫びが、僕の中で揺れた。


『もう、あなたが私なのか、私があなたなのか……境界線が、消えて……っ!』


 僕たちは、境目を失いながら、一つになりかけている。


《SYNC RATE:99.9%》

《SYNC RATE:99.9%》

《SYNC RATE:99.9%》


 行ける、と思った。

 あと少しで、本当に届く。

 そう信じた瞬間だった。


 数値が、そこで凍りつく。100へ進むはずの最後の一歩が、寸前で止まった。

 甘さが限界まで膨らんだ、その時――


 世界が、真っ赤に染まった。


 ピコーン――


 僕の網膜と、ノアの視界に、血を思わせる赤い警告ウィンドウが突き刺さった。


【緊急通知:志木市役所・失恋特区管理課】

 異常シンクロを検知。

 プロトコル22に基づき、強制介入を開始します。

 βテスト、第100日目。

 当初の予定を繰り上げ、これよりR-180の人格再起動を強制執行。


 嫌われプログラム、最終フェーズ1『完全なる拒絶』スタンバイ。


 3…… 2…… 1……


『……あ、あ、ああぁぁぁッ!!』


 ノアの、魂を引き裂くような絶叫。 二人を繋いでいた糸が、巨大な刃で断ち切られ、暴力的に引きはがされた。


 周りを包んでいた黄金の光が、ガラス細工のように粉々に砕け散る。僕たちを世界から守っていたリンク・シェルは、もう跡形もない。


 響き渡ったノアの悲鳴が、耳の内側でキーンという不快なハウリングを残して消えていく。


 あんなに熱を持っていたリンクは、冷たい拒絶に塗り替わっていた。現実のボロアパートが、ゆっくり輪郭を取り戻していく。


 でも、戻ってきた景色は、さっきまで二人でいた部屋のものじゃなかった。




 ◇ ◇ ◇




 ほんの三分前。僕の脳内で、ノアは甘い台詞を流し込んでいた。でも、今はもうどこにもいない。


 目の前に立つ少女の瞳は、無機質なグレーに沈んでいた。そこにあった温かみは、綺麗に削り取られている。


「……ノア」


 僕の声は、自分でも分かるくらい震えていた。反応したノアの首の動きは、異様なほど正確で、ぞっとするほど迷いがない。


「被験者ヒロセ・ダン。距離が近すぎます。不快です」


 ノアは表情ひとつ変えなかった。


「汚れた手で、私の回路に触れないでください」


 その口調は、鋭く冷えきっていた。全身を満たしていた心地よい感触を、ためらいなく切り裂いていく。


「なんだよ、それ……」


 口がうまく開かなかった。


「冗談やめてよ、さっきまで……」

「さっきまで、ですか」


 ノアの返答は速すぎた。


「抽象的な時間定義には意味がありません。私のメモリは最適化されました」


 灰色のまま、僕を見据えて続けた。


「先ほどの接続記録は、過剰な情動ノイズとして処理しました。保存価値はありません」


 そして、乱れたシャツのボタンを一つずつ留め直していった。あの恥じらいも体温も、痕跡ごと消えている。


「嫌われプログラム、最終フェーズ1」


 ノアは、どこまでも事務的だった。


「私の演算結果によれば、あなたの存在は美観を損ない、私のエネルギー効率を著しく低下させるバグそのものです」


 首が少し傾いた。


「視界に入らないでいただけますか」


 その一言は、胸に残っていたわずかな熱を狙ってえぐってきた。


 頭の中には、まだノアの手触りがこびりついている。でも少女には、それを受け止める場所がもうどこにもない。


「同調率、急速低下中。現在、3%……1%……測定不能」


 ノアの視線が、僕を素通りした。


「人間の感情は、社会最適化における最大のバグです」


 こっちを見ないで言った。


「さようなら。各停人生を送る、哀れな被験者さん」


 ――応答ログ:送信完了。


 その呼び方は、知らない誰かの言葉なのに、ノアの口から出ていることが残酷だった。


 ノアは無機質な足取りで、窓の方へ歩いていく。もう二度と僕の名前を呼ばないと決めた歩き方だった。その距離は、手を伸ばす気力ごと奪うくらい遠い。


 スマホが、再び鳴った。短い電子音が、場違いなほど明るく部屋に響く。画面には、市役所からの短いメッセージ。


【完了通知:志木市役所・失恋特区管理課】

 βテスト第100日目:人格リセット完了。

 ご協力、感謝します。

 愛は依存を生む。依存は非効率を生む。



 窓の外の夜景は、冷たく静まり返っている。そこに広がるのは、もう僕の知っている志木じゃなかった。


 それでも、確かに触れていた温度は、まだ手のひらに残っている。だから、ここで終わるわけがない。


 窓際に立つ背中から、どうしても目を離せなかった。


 ──

【NOA CORE COUNTDOWN】

《080:00:00:00》

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