18th Broadcast Episode:99.9%のち人格再起動(A)
「……こっちのコンビニ、落ち着きますね」
黒塗りの公用車が去ったあと、ノアは店先の古い立体広告を見上げて、ぽつりと言った。
北浦和の無機質な白い光より、志木のくたびれたホログラムの明るさの方が、たしかに息がしやすい。
「分かるなあ。あっちは空気まで偏差値高そうで、何だか疲れるんだよね」
「ですがダン様、こちらは爆走するママチャリの殺気と牛丼の匂いが過剰充満しています。環境警告レベルのカオスですよ」
「いいじゃん。それがこの街の安心感だって」
自動認証ドアが開くたび、ぬるい肌触りと揚げ物の匂いが流れてくる。柳瀬川から湿った風が上がってきて、遠くで高架線が低く唸っていた。
国家の中枢から逃げ帰ってきた僕たちには、その全部がちょうどよかった。
ノアはスイーツコーナーの前で、神妙な顔つきで腕を組んでいる。
「ダン様。極度のストレスにより、私のコアが『生いちごパフェを買ってもらわないと起動停止する』とバグを起こしています」
「都合のいいバグ起こすな! それ、一番高いやつでしょ?」
「命の恩人に対する報酬がコンビニスイーツのみとは、ダン様の器の小ささが計測限界以下ですね」
そう言ってノアは、ぺろっとピンクの舌を出した。
もう、あの完璧な優等生スマイルには戻っていない。それを眺めているうちに、張っていた変な緊張が、ふっとほどけた。
コンビニ袋をぶら下げて店を出た。川沿いから、懐かしいドブの臭いがする。砂利の混じる細い道を歩くたび、靴の裏がジャリッと鳴った。
「やっぱり、この音ですよね、ダン様」
安心感に包まれて歩いていると、いつの間にか見慣れたボロアパートの前に立っていた。
ドアの向こうから、聞き慣れたため息が漏れてきた。同時に、ポリポリと何かを噛み砕く、場違いな音が響いてくる。
その時点で、もう嫌な予感しかしなかった。
◇ ◇ ◇
部屋の鍵を回すと、ささやかな安心は一気に吹き飛んだ。
「遅い! お兄ちゃん、北浦和で何してたわけ? 地元の恥を、わざわざ向こうまで運んでんじゃないよ」
凛は一つ下の妹だ。現役JK一年生にして、僕とは違う方向へ振り切れた天才。
しかも今は、市役所広報課のバイトという建て前で、変な場所まで首を突っ込んでいた。
ベッドの上に勝手に座り、政府系ネットの認証画面を、暇つぶし同然にスマホでいじっている。
「凛! 勝手に鍵開けて入るなよ。ここ、僕とノアの神聖な部屋なんだぞ」
「神聖? 何それ、めっちゃウケる」
スマホを持たない方の手で、ベッド脇に置いた缶をつかんだ。毒々しいピンク色をしたエナジードリンクを、細い喉を鳴らして一気に流し込む。
「ぷはーっ……。はぁ、やっと脳が起きた」
息を吐き出すと、空になったアルミ缶を無造作に床へ転がした。凛は部屋をぐるっと見回す。
「こんな部屋、体育館の方がまだ美意識あるって。センスの解像度、低すぎ」
妹は昔からそうだ。IQ155のギフテッドらしく、相手がいちばん傷つく角度を、考えるより先に見つけてくる。
でも、凛の軽口はそこまでだった。
スマホの画面を空中へ払う仕草でスワイプすると、青白い設計図とバイオメトリクスのデータが部屋に浮かび上がった。
北浦和の研究棟から引っぱってきたとしか思えない代物だった。
「ノアお姉ちゃん。R-180の正体、失恋リハビリ用なんて可愛い話じゃないよ」
凛の目つきから、急に温度が消えた。ノアは呆然と立ち尽くしている。
「私の……正体、ですか?」
声が、途中で切れた。機体がかすかに震えている。
「凛様、それはどういう……。私は、ダン様の心を癒やすための、期間限定のバグ付きアンドロイドではないのですか?」
「公式発表は、ね」
凜は浮かんだ設計図の一つを、指で弾いた。
「裏で動いてる本命は――プロジェクト・プロメテウス」
ノアの肩が、ピクっと揺れた。狭い六畳間に、その一語が重く落ちる。
――プロメテウス。
こめかみのあたりで、嫌な響きがした。
天から火を盗んで、人間に渡した神。そんなものを計画名にしている時点で、ろくな話じゃない。
「実験の目的は、アンドロイドの中に育った人間に近い心を、生身の人間へ転送すること」
説明の途中で、凛の視線がノアへと移った。
「愛とか、絆とか、そういう厄介なものごとね。……ごめん、怖いだろうけど、ちゃんと知っててほしかった」
僕の鼓動が、急に速度を上げ始めた。
「ノアお姉ちゃんは、180日で終わるんじゃないの。中に育ったものを抜かれて、別の誰かへ移される。そのための入れ物ってこと」
凛の口調は、いつもより平らだった。頭の中に、冷たい金属の打撃が何度も走る。
タケルから聞いた話とは、微妙に食い違う。あいつが仮説なら、いま突きつけられているのは切り開いた中身そのものだ。
「転送って……じゃあ、ノアはどうなるんだよ」
言いながら、無意識に話し方が荒くなっていく。
「抜かれたあとの身体は? ノアの記憶はどうなるんだ!」
僕が詰め寄ると、凛は一瞬うつむいて、短く首を振った。
「転送の瞬間、ノアお姉ちゃんの記憶はシステムごと消される。バックアップも無理」
もう一度、こっちを見た。
「今のノアお姉ちゃんの人格も、転送された時点で終わり。残るのは、別の誰かに移された結果だけ」
「はあ? そんなの……そんなの、許せるわけないだろ!」
僕は拳を握りしめた。
ノアが見せた笑顔も、一緒に食べた焼きそばの味も、僕を守ろうとしてくれた意志も。全部、知らない誰かのための材料になるのか。
「私が、消える……。ダン様との思い出も、私のフォルダに予約したダン様の特等席も、全部……ゴミ箱行きなんですね」
ささやきは、ひどく小さかった。言葉が、喉元で止まる。
「それって……ガチで詰みです」
ノアは震えを押し殺しながら、いつもの笑いを作ろうとした。でも、もう顔が追いつかない。
代わりに、頬を青白い冷却液が、一筋つたった。機械の身体で流せる、精一杯の絶望だった。
自分の無力さに、吐き気がした。サエにフラれて、砂利道にうずくまっていた僕を救ったのは、間違いなくこの子だ。
なのに、ノアが消えようとしている今、僕はボロアパートの床を蹴ることしかできないのか。
「ちょっと……お兄ちゃん? そんな顔しないでよ。キモすぎて見てらんないから」
凛はため息をついた。制服のポケットからラムネの袋を取り出し、残りを全部口の中へ放り込む。
ポリポリと、静まり返った部屋に盛大な咀嚼音が響く。それを一気に飲み込んでから、人差し指を一本立てた。
「ノアお姉ちゃんを救い出せる道が、一つだけあるよ。やるかどうかは、お兄ちゃん次第だけど」
今度は、真っすぐ僕を見た。
それは希望というより、もう引き返せない話だった。その解決策は、救いであると同時に、奈落への入口でもあった。
「同調――つまり、リンク」
一度口を閉ざしてから、はっきりと言い切った。
「それが唯一の道だよ、お兄ちゃん」
六畳間の時間が止まった。
ノアの冷却ファンは細かく駆動している。その音に引きずられて、僕はいつも通り無意識に脈をトントン叩いていた。
握った拳は開けない。そのまま、リンクの意味を飲み込むしかなかった。
「……リンク」
ノアが、その一語を小さく繰り返す。自分の運命のファイル名を、初めて突きつけられた表情だった。
凛がホログラムを操作すると、ノアの知能回路構造と、僕の脳の電気信号パターンが並んだ。
「市役所のサーバーに吸われる前にね、ノアお姉ちゃんの意識を、お兄ちゃんの頭に一時避難させるの」
浮かんだ図の端を、凛が軽く弾いた。
「アンドロイドのコアと人間の脳を直結して、人格のバックアップを取る。つまり、お兄ちゃんの脳みそが、外付けハードディスクになるってこと」
親友のタケルと、妹の凛。別々の場所から、同じ危ない答えに辿り着いていた。
もう迷う理由はない。消させないための道がそれしかないなら、僕はそのバグに賭ける。
「僕の脳に、ノアの心を丸ごと逃がすってことか?」
「そういうこと。お兄ちゃんのイカれた過集中脳なら、負荷を全部吸い取って最適化できる」
凛はさらっと言った。
「でも普通にやったら、成功率はゼロ。人間の脳は、アンドロイドのデータ量を異物扱いして拒否るから」
ノアは黙って、その図を眺めていた。逃げたいのか、踏み込みたいのか、自分でも決めきれていない。
凛は、画面に絡み合う線を、迷いのない手つきで追った。
「そのまま流し込んだら、お兄ちゃんの脳内、セール初日のデパ地下並みにパンクして、秒で焼き切れる。で、終了」
脳が焼き切れる。そういうレベルの話なのか。
「リンクを成功させるには、二人の感情を限界まで同期させること」
二つの波形のあいだを、指先がまっすぐなぞった。
「隠し事ゼロ。お兄ちゃんは、ノアお姉ちゃんの全部を受け入れる。ノアお姉ちゃんは、お兄ちゃんの中に溶け込む」
言葉が一度途切れた。
「脳が人格データを、自分の一部だって勘違いするところまでね」
凛は、この世界の仕組みごと分かっている眼差しで、僕を見た。
「……ノアお姉ちゃんのプログラムの底まで、お兄ちゃんが潜る覚悟があるかってこと」
まばたきもせずに言った。
「もう、いつ転送されてもおかしくないよ。でも、リンクに失敗したら、二人ともガチでログごと消える。やる?」
息苦しさが、一気に増した。それでも、僕はすぐに口を開く。
「当たり前だ」
自分でも、驚くくらい迷いがなかった。
「僕を誰だと思ってるんだ。 逃げて傷ひとつ負わなかったことなんて、人生で一度もないんだよ!」
もう強がりでも何でもよかった。
一度、凛の視線が落ちた。それから短く息を吐いて、僕の左眉の傷をジッと見つめている。
「もう……お兄ちゃんのくせに」
眉をしかめたまま、スマホを操作した。
「そういうこと、急に言わないでよ。……分かった。市役所のデータベースから拝借した接続用プロトコル、今から送るね」
僕の端末が短く鳴った。画面には、見たことのない深い階層の文字列が、冷たく並んでいる。
凛はスマホをポケットへ突っ込み、立ち上がった。
「はぁ……もう無理。糖分切れた。コンビニ寄って、ラムネとエナドリ補充して帰る」
ドアの前で振り返り、こっちを指差した。
「……で、お兄ちゃん。もしノアお姉ちゃん泣かせたら、黒歴史ポエム、完全公開コースだから。マジで」
そのまま勢いよく出ていった。バタン、というドアの音が、静かな夜に長く残る。
直後――
『未承認プロトコルの展開を開始。脳波同期リンクによる生存確率、0.5%。最終プロセスへ移行後は、中止できません』
勝手に再生される機械音声と同時に、僕の内側に激痛が走った。
「ぐっ……あ……!」
頭が割れるような痛みに、耐えかねて崩れ落ちた僕を、ノアが両腕で受け止めた。
「ダン様! お願いです、今すぐプロトコルを止めてください!」
僕の手を握りしめる、ノアの悲鳴が遠のいていく。
脳を焼き切る激痛と、絶望的な数字。
それでも僕たちには、もうこの悪魔の道を進む以外の選択肢はなかった。




