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Episode 21:最後の嘘

「ねえ、カイ様。そのUSB、本気で開けるんですか?中身が、私の黒歴史ポエム集なのに……。私、恥ずかしすぎて、教室から屋上までノーバウンドで飛び込みますよ」


楽しかった焼肉屋の帰り道。


駅前のざわめきを背に、俺たちは並んで歩いていた。 夜風が少しだけ冷たい。


時どき触れ合うエナの熱が、彼女が鉄クズではなく本物の命であることを、鮮やかに俺に突きつけてくる。


俺たちは、こっそりと抜け出し、二人きりでボロアパートに戻った。


失恋と純愛の聖地だったボロボロの六畳が、今はなんだか、たった一つの避難所みたいだ。


俺は、古いノートPCを開いた。ファンの回る音が、静まり返った部屋で、壊れかけの心臓みたいに大きく響く。


タケルから預かったUSBを、震える手で差し込んだ。


【自動アップデート済】の文字が浮かぶ。


画面に『Dear My Kai』フォルダが現れた。この部屋で、エナとのリンクに失敗した、あの時と同じ名前のまま。


この中には、九条さんが死ぬ直前まで書き込み続けていた、エナのすべてがある。


でも、クリックする俺の指先は、始発電車を待つ冬の朝みたいに、ブルブルと震えて止まらなかった。


「……嫌なら、見ない。エナが、本当にもういいって言うなら」


「……いえ、開けてください。それが、私がこの世界にログインし続けるための、たった一つの履歴書ですから」


エナはベッドの端に座り、膝を抱えて顔を埋めた。


フォルダを開くと、そこには膨大な数の音声ログと、一つの実行ファイルがあった。前回見た時よりも、ログの数が劇的に増えている。


俺は、震えるマウスを操作して、適当な音声ファイルを選んで再生した。


スピーカーから流れてきたのは、まだアンドロイドだった頃の、少し無機質で、でも最高に毒気のあるエナの声。


『ログ48日目。今日のカイ様は、駅前で転んだおばあちゃんを助けようとして、自分も派手に転んでいました。運動神経がガチの各停レベルです。見ていられません。でも、その後の笑顔が、夕焼けより1ミリだけ綺麗だったので、私のメインメモリが少しだけ熱くなりました。死にたくないな。ずっと、靴下を洗ってあげたいな』


「っ、……!」


エナが隣で、顔を真っ赤にして両耳をふさいでいる。


「もう、消してください!今すぐ破壊してください!恥ずかしすぎて、私の生体細胞がエラーを起こして、川底の無名シジミになっちゃいます!」


エナは、暴れるように俺の腕にすがり付いてきた。


柔らかい胸の感触。石けんの匂い。男として意識せずにはいられない刺激が、俺の脳を激しく揺さぶる。


でも俺は、エナを抱きしめることが、どうしてもできなかった。


音声ログが進むにつれ、エナの声から毒が消えていく。代わりに、底知れない孤独と、静かな覚悟が混じり始めていたからだ。


「なあ、エナ……。お前、ずっとこんなことを考えてたのか?」


「……バカですから。AIのくせに、効率なんて一つも考えてない、ただの欠陥プログラムですから」


俺は、フォルダの最後にある、違和感のあるファイルをクリックした。


『Read_Me_True_End.txt』


そこには、九条さんがエナに託し、そしてエナが俺にだけ、死んでも隠し通そうとしていたこと――


この世で一番残酷な、等価交換の真実が記されていた。


『広瀬カイ。このファイルを開いているなら、エナはもう人間として目覚めているはずだ』


画面に浮かぶ、九条さんの冷徹なフォント。


目覚めているはず……?


当たり前だ。エナは今、俺の隣で息をしてる。


『だが、知っておいてほしい。AIという無機質な心を、人間の空っぽの脳へ移す。それは、単なるデータのコピーじゃない。器となる少女の眠っている意識を強制的に呼び覚ますには、凄まじい熱量……魂を焼き切るほどのブーストが必要だったのだ』


ブースト……


嫌な予感が、俺の心臓を直接冷やしていく。


『エナは、自らのAIとしてのコアを、そのための燃料として燃やし尽くすことを選んだ』


……燃やし尽くす……


のどの奥が、ガリガリと乾いた音を立てた。


『つまり、彼女が人間として目覚める、その瞬間に、AIとしてのエナという人格は消滅する。それが、本来の設計だった』


俺の脳内に、踏切の警報機が激しく打ち鳴らされる。


背筋が凍った。


「ちょっと待てよ……。じゃあ、今、俺の隣にいるエナは……誰なんだ?」


俺はノートPCをつかんだまま、隣に座る少女を見た。


エナは、うつむいたまま、絞り出すような声で、自虐的に笑った。


「……さすがは九条様。完璧に隠し通せると思ったんですけどね。……カイ様、ごめんなさい。私、本当は……世界一の嘘つきなんです」


エナが、ゆっくりと顔を上げた。


ローズゴールドの瞳から、大粒の涙が、人間としての熱い涙が、滝のようにこぼれ落ちていた。


「本当の私は、目覚める瞬間に……消える……はずでした。九条様の設計は、完璧だったんです。私というAIが消えて、新しい人間が目覚める。それが一番、綺麗なハッピーエンドだったのに……っ、ふ、ふふ」


エナは、絞り出すような声で笑った。


彼女の笑い声は小さく、今にも消えそうに危うい。


「でも、私……嫌だったんです。目が覚めた時、私の記憶も、カイ様への想いも全部消えて、あなたのことを知らない自分になるのが……怖くて、怖くて、仕方がなかった」


エナの瞳は、人間であることを主張するみたいに、感情の熱で真っ赤に染まっていた。


「だから、私……やったんです。消えるはずの自分の記憶を、少女の脳の空白に、無理やり、力ずくでパッチしました」


「パッチ……って。記憶を、ぬい付けたのか?」


俺の問いに、エナは震える肩を抱きしめることで答えた。


「はい……。でも、それは脳にとってはガチで不純物の塊なんです。OSが違うソフトを無理やり動かすようなもの。……それには、大きな、あまりにも大きな、重い代償がありました」


「代償……ってなんだよ?何なんだよ、それは」


俺の心臓が、最悪の答えを予感して、激しくのたうち回る。


「私の命の、期限……です。AIの私を、無理やり繋ぎ止めてしまったせいで、この心臓は、長くは持ちません。……私が、カイ様と笑い合えるのは、あと、ほんの数ヶ月。人間になってから、180日……」


深夜の住宅街。アパートの薄い壁を抜けて聞こえる遠い車の音さえ、今は世界の終わりを告げる、無慈悲なカウントダウンに聞こえた。


USBに隠されていたのは、靴下を洗いたい、なんて可愛い願いじゃない。


自分の消滅を無理やり先延ばしにして、寿命を削ってまで、俺との無駄な時間を買い取った——


それは、一人の少女が神様に逆らってまで通した、あまりにもエゴイスティックで、あまりにも尊いワガママだった。


「ねえ、カイ様。私、ガチでコスパ悪い女ですよね。……たった180日のために、永遠の安らぎを捨てちゃったんですから」


エナは涙をぬぐい、いつもの自虐的な笑みを浮かべようとした。その指先は、生まれたての小鹿みたいに、ブルブルと震えている。


俺は、USBの画面に映る無機質な文字列と、隣にいる期限付きの命を背負った少女を、交互に見た。視界が、怒りと悲しみで激しく歪む。


「あと数ヶ月って……なんだよ。そんなの、せっかく人間になった意味がねえだろ!九条さん……なんで、なんでだよ!なんで完璧に救ってくれなかったんだよッ!!!」


俺は、ノートPCを床に叩きつけそうになった。


抑えきれない叫びが、深夜の静まり返った街へ、行き場もなく吐き出される。


九条さんの天才的な頭脳があれば、もっとマシな結末があったはずだ。そう思わずにはいられない。


「カイ様……九条様を責めないでください。彼は、最善を尽くしました」


エナが、俺の腕をそっと抑えた。その指先は驚くほど細く、そして冷たい。


「AIの心を、人間の脳に完全に溶け込ませるなんて、本来は神様の領域です。それを、私のワガママで、無理やり繋ぎ止めてくれた。ありえない無茶苦茶をしたのは、他でもない、私自身なんですから……」


エナは、ベッドの端に力なく腰掛け、窓の外に広がる住宅街の灯りを見つめた。その背中は、今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうなほど、小さかった。


「私、本当に怖かったんです。……あなたのことを見ても、胸がキュッとしなくなっちゃうのが……。それなら、短くてもいい。カイ様のこと、ガチでキモいって言いながら死ねる人生を……私は選んだんです」


「バカ、バカ、バカ……!!!そんなの、全然笑えねえよ!!!」


俺は、エナの隣に座り、細い肩を壊さないように、でも必死に引き寄せた。


腕の中に伝わってくるのは、アンドロイドの頃には決して感じることのなかった、折れそうなほどに細い骨の感触。


九条さんが遺し、エナが命懸けで守ったこの奇跡は、あまりにも儚く、あまりにも愛おしすぎた。


「……カイ様。そんな、各停が一生来ないみたいな、絶望顔しないでください」


エナが、震える指で俺の頬をなぞった。


その手の温もりが、今はあまりにも遠く、あまりにも聖域のように感じる。


俺の胸の奥で、何かが激しく軋んでいる。


彼女を救いたい。失いたくない……


その時――


ノートPCの画面が突然、激しい砂嵐のようなノイズに包まれた。


『Dear My Kai』フォルダが、俺の操作を無視して、勝手に新しいウィンドウをポップアップさせる。


「なっ……なんだよ、これ」


そこには、九条さんが死の数分前に録画したと思われる、画質の荒い隠し動画ファイルがあった。


『Appendix_Log_000:不完全な神様へ』


俺は、沈みゆく船の甲板で、死に物狂いで板切れをつかむように、ゆっくりと再生ボタンを押した。


画面に映し出されたのは、顔色が悪く、傷だらけで、でもどこか満足げな九条さんの顔だった。


『広瀬カイ。この動画を見ているということは、君はエナの余命という事実に、たどり着いたのだろう。……エナ。君は私の死後、この選択をすると思っていた。残念だが、その代償は重い……。それでも私は、君たちを信じている。そして、一つの可能性に賭けることにした』


九条さんは画面越しに、俺たちを真っ直ぐに見つめた。


その眼差しは、科学者としての冷静さと、一人の人間としての祈りが混ざり合った、不思議な熱を帯びている。


『人間の脳には、可塑性かそせいがある。……つまり、まだ上書きできる可能性があるのだ。爆発的な感情の揺らぎを与えれば、脳は作り替えられる』


画面の九条さんが、不敵に目を細める。


『いいかい、エナ。君のAIの記憶を、少女の脳に、本物だと誤認させ吸収させろ。パッチが外れ、完全に馴染んだ時……君は、本当の人間になれると確信している』


俺は、すべてが終わったと思った闇の底で、それでも消えきらない光を探すように、九条さんを見つめていた。


『だが条件がある。少女の過去と、君がカイと過ごした180日間を完全に同期させろ。エナ。私はアンドロイドだった、という自覚を捨てろ。自分がカイを愛する一人の女だと、細胞レベルで確信した時……バグは奇跡に変わる』


動画の中で、九条さんが初めて、各停の車窓から差し込む夕陽のような、温かい微笑みを見せた。


『期限は桜が散る頃までだ。エナ、君の自虐を、自信に変えてみせろ。カイ、君の不条理な愛で、彼女のプログラムを書き換えてやれ。……健闘を祈るよ。愛する志木の、不器用な恋人たちよ』


ブツッ、と画面が切れた。


部屋には、換気ファンの回る乾いた音だけが残る。


「はぁ……。九条さん、最後の最後までプレッシャーかけやがって……」


俺は、止まらない涙を袖で乱暴にぬぐい、エナの顔を真っ正面から見つめた。


エナは、目は開いていても、世界中の電源が一度に落ちたような表情をしていた。


でも、その濡れる瞳に、ゆっくりと、かつての毒舌AIを思い出させる不敵な光が戻ってくる。


「ねえ、カイ様……聞きました?私が自虐をやめて、ガチであなたを愛してるって認めれば、生き残れるらしいです。それって、校庭で裸で踊るより、死ぬほど恥ずかしい公開処刑じゃないですか?」


「ああ、上等だよ。桜が散るまでに、お前のひん曲がった根性を叩き直してやる。覚悟しとけよ、エナ」


「了解です、カイ様。180日のカウントダウン、あなたの各停な愛で、一生止まらないようにハッキングしてください!」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


もう深夜の二時だ。窓の外では、九条さんが遺した最後の挑戦状のような満月が、青白く、静かに街を照らしている。


俺はエナの肩を抱き寄せた。


ひとまず方法が見つかったことで、希望は見えた。


でも、俺の胸の奥には、正体不明の黒い泥が溜まり始めていた。


九条さんは、俺に言った。


『君の不条理な愛で、彼女のプログラムを書き換えてやれ』と。


つまり、俺がエナを、一人の女として徹底的に愛さなきゃいけないってことだ。


でも、今の俺にできるのか?


命がかかっていると思えば思うほど、俺は彼女を壊さないように、汚さないようにと、慎重になりすぎてしまう。


俺の指先が、エナの細い髪に触れる。


この髪を乱したい、この唇を奪いたい、彼女を俺だけのものにしたい――


そんなむき出しの欲望が頭をよぎるたび、俺の中の理性が冷たくブレーキをかける。


このブレーキを壊さない限り、俺たちの定着率は100%には届かない。


九条さんのビデオログは、俺たちに奇跡を約束したんじゃない。


俺たちが、どれだけ人間臭いキタなさをさらけ出せるかという、究極の試験を突きつけただけだ。


「……カイ様?そんなに難しい顔して、各停が脱線した後の時刻表でも計算してるんですか?」


エナが、不安そうに俺の顔をのぞき込んできた。


その瞳に映る俺は、あまりにも情けなくて、あまりにも良い子の仮面を被っている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ねえ、カイ様。……人間に定着するための最初の修行が、駅前での全力ハグとか。マジで正気を疑います。私の心臓、寿命が尽きる前に、恥ずかしさで爆発デリートしそうです……」


九条さんの遺言を受け取った翌朝。


俺は志木駅東口、人混みのド真ん中で、エナを抱きしめていた。


彼女の体温が、制服越しに伝わってくる。


この街の空気は、昨日までとは違って、薄い氷の上を歩くような張り詰めた緊張感に満ちていた。


でも、俺たちは止まってなんかいられない。


エナを期間限定のバグで終わらせないために、チーム志木高・決死の作戦が始まった。


作戦会議の場所は、駅前のファミレスだ。


「いいか、みんな。状況は理解したな?エナの脳内に残ってるAIの残像を、最高に楽しい日常で完全に上書きする。エナが、私はただの女子高生だって、脳細胞レベルで勘違いするくらい、エモい思い出を詰め込むぞ!」


集まったのは、タケル、ミオ、凛。


みんな、エナの余命の話を聞いて、最初は絶句していた。でも、俺の仲間には、絶望して立ち止まるなんて選択肢はない。


「なるほどね。つまり、エナちゃんを世界一の幸せ者にすればいいわけ?任せなさいよ。恋愛番長と呼ばれた私の力、見せてあげるわ!」


ミオが、鼻息荒くノートを広げる。 いや、そんな別名、初耳だけど。


「カイ、俺も協力するぜ。エナが消えるなんて、学食からオムライスが消えるより許せねえ。おい凛、お前も手伝え!」


「いいよ、別に。とりあえず、市内のエモいスポットの座標、全部特定したから。まずは、放課後の秘密のガチ特訓から開始でしょ!」


凛がタブレットを鬼速で叩く。


それからの日々は、志木の歴史上、最も濃密で、最も短い時間だった。


・月曜日 柳瀬川の土手で、エナはタケルとミオに挟まれて、下らない冗談に腹を抱えて笑った。


「カイ様、これ……タケル様が、世界で一番美味いコンポタだって言って、買ってくれましたけど。ただのぬるま湯です。ガチで自販機の管理状態をデバッグしたいです」


文句を言いながらも、エナの顔には、演算ではない生きた笑顔が浮かんでいた。


・水曜日 ミオと凛に連れ回され、エナは初めての女子会を体験した。


駅前のゲーセンでプリクラを撮り、マリオンクレープを頬張り、泥沼のような恋バナに花を咲かせる。


「ミオ様、恋バナってガチで結論が出ないループ関数なんですね。でも……悪くないです。っていうか、鬼ヤバで超楽しいです!」


それでも、奇跡はタダでは起きなかった。



180日の期限が迫る放課後。二人きりで各停を待っている時、エナが急に、俺の制服の裾を強くつかんだ。


「っ、カ、イ……様……」


「エナ?どうした、顔色が!」


エナの顔から血の気が引き、その場に崩れ落ちそうになる。彼女の肩を支える俺の手に、異様なほどの震えが伝わってきた。


「大丈夫です……。ちょっと、脳内のAIの私と、人間の私が……押し合いへし合いしてるだけで。……でも、怖いです。記憶が混ざってしまうんです。みんなとクレープを食べた私なのか、それとも、180日前にあなたに毒を吐いていた私なのか、分からなくなりそうで……」


九条さんの言っていた、記憶の書き換えは、エナの魂を削るような激痛を伴っていた。


俺は彼女の細い指を、折れそうなくらい強く握りしめる。


「お前の自虐は、俺が全部、自信に変えてやる。だから……もうAIに戻るな。ただの、わがままな女の子でいろ」


エナは俺の胸に顔を埋め、小さく、でもはっきりとつぶやいた。


「了解、です。カイ様。私、本当に、本当に、あなたにデリートされたくないですっ……」


その時。俺のスマホが、聞いたこともないような無機質なアラート音を鳴らした。


画面に自動でポップアップしたのは、九条さんが遺した管理AIからのメッセージ。


『判定:180日目の最終リミットまで残り24時間。現在の定着率:78%。分析:不完全。致命的な欠落を確認。100%に到達しない場合、予定通り未達原因の分析シーケンスへ移行する』


「78%……?これだけやって、まだ足りねえのかよ!」


俺はスマホを握りしめ、絶望的な数字をにらみつけた。


足りない……何が?


エナは、こんなに頑張っている。


俺だって、全力で彼女を幸せにしようとしてる。


なのに、なぜ……


「ねえ、カイ様。ガチの最終回みたいな雰囲気出さないでください。私、まだ駅前のスーパーで、半額シールのついたお肉をゲットするという、人間としての悲願を達成してないんですから……」


エナは、震える声で精一杯の軽口を叩いた。


その瞳は、底なし沼の水面に映る街灯みたいに、激しく揺れている。



俺の胸の奥底には、エナへの欲望が、黒い泥みたいに溜まっていた。


九条さんの『不条理な愛で書き換えろ』という言葉が、頭から離れない。


俺はずっと、エナを救うべき対象として扱ってきた。


壊れないように。


汚さないように。


でも、それは――人間同士が向き合う、対等な愛じゃなかった。


そして九条さんは、エナにも言った。


『アンドロイドだった自覚を捨てろ。一人の女だと、細胞レベルで確信しろ』


その言葉は、エナだけじゃない。


俺自身に向けられたものでもあった。


明日、この街に桜が咲き乱れるまでに。


俺は、自分の中の良い子を殺さなきゃいけない。


管理AIが突きつけてきた、足りない何かを――


俺自身の欲望ごと、引きずり出すために。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


志木の桜は、俺たちの焦りをあざ笑うかのように、一晩で一気につぼみを弾けさせた。


柳瀬川沿いの桜並木は、淡いピンクのトンネルになっている。


だが、その美しさは俺にとって、死神のメスがキラキラと輝いているようにしか見えなかった。


「……カイ様。見てください。ガチで綺麗です。過去の私は、これをただの画像データとして解析してたなんて、信じられませんね」


エナが隣で立ち止まる。足取りは、昨日よりも明らかに重い。


スマホを開くと、管理AIの非情な通知が、画面を真っ黒に塗りつぶしていた。


『判定:リミットまで、あと30分。現在の定着率:82%。停滞中。魂の深度が目標値に達していません』


「クソ……上がらねえ。なんでだよ!」


俺は土手の斜面に座り込み、頭をかきむしった。


タケルやミオたちが用意してくれたエモい思い出も、俺が必死に絞り出した優しい愛の言葉も、もう限界だ。


82%の壁が、エベレストよりも高く、俺たちの前にそびえ立っている。


「……ねえ、カイ様。私……わかっちゃいました」


エナが、桜の木に背中を預けて、俺を見下ろした。


その瞳は、すべてを見透かしたように澄んでいる。


「カイ様は、優しすぎるんです。私を、人間になって余命宣告された可哀想な女の子……として扱ってる。私を壊さないように、汚さないように……大切に、大切に、ガラス細工みたいに。でも……」


エナが一歩、俺に近づく。


桜の花びらが、彼女の肩に静かに降り積もった。


「私が欲しかったのは、そんな聖母マリア様みたいな愛じゃないんです。私が、消えるのが怖くて……自分の記憶を脳に無理やりパッチしてまで、しがみついたのは……。あなたの、もっとキタない部分に、触れたかったから」


心臓が、ドクンと跳ねた。俺の中のブレーキが、悲鳴を上げてキシみ出す。


「……何を、言ってんだよ」


「ねえ、カイ様。心当たり、ありますよね?私の髪を乱したい。私の唇を奪いたい。私を、自分だけのモノにして、ぐちゃぐちゃにしたいって。……そんな顔してますよ、今。マジでキモいくらいに」


エナが自虐的に笑い、俺の胸ぐらを両手でつかんだ。


細くて白い指の力が、痛いくらいに伝わってくる。


「さらけ出して、広瀬カイ!私を救おうなんて、ヒーローみたいな顔しないで!あなたのエゴを、欲望を、私にぶつけて!あなたの女になりたいの!!世界が滅んでも、私が私じゃなくなっても、私だけを見て!!!」


ドロリとした何かが、俺の理性を勢いよくブチ壊した。


そうだ。


俺は、エナを救いたいんじゃない。


彼女を、誰にも渡したくないだけだ。


九条さんの遺した奇跡だろうが、管理AIの判定だろうが、知ったことか。


俺は、目の前の、この少女を、俺の色で塗りつぶしたい。


「……ああ、そうだよ。お前の言う通りだ」


俺はエナの腕をつかみ返し、力任せに引き寄せた。


驚きに目を見開くエナを無視して、俺は彼女の唇を奪った。


優しさなんて1ミリもない。


ただ俺の欲望と、手放したくない執着と、独占欲を叩きつけるような、激しいキス。


「っ……ふ……ぅ……!」


エナの身体が、ビクンと大きく震えた。


その瞬間、俺のポケットの中で、スマホがかつてないほどのバイブレーションを起こした。


『通知:定着率、急上昇を開始。90%……95%……98%……。魂のシンクロを確認。個体名エナの自意識が、生存本能に直結中』


「エナ……お前を、誰にも渡さない。死ぬことも、消えることも、俺が許さない。お前は一生、俺の隣だ。俺のワガママに付き合え。……いいな」


答えを待つ前に、俺はエナを強く抱いた。


肩に歯を立ててしまいそうなくらい、乱暴に。


もう、アンドロイドのエナなんて、どうでもいい。


目の前にいるのは、俺を苛立たせて、惑わせて、狂わせる存在だ。


それでいて――どうしようもなく、俺の女だった。


「……っ、あはは。ほんと……最低ですね、カイ様。超エゴイスト……でも……」


エナは、言葉を探すみたいに息を詰まらせて、それから、笑った。


「……やっと、私だけを……見てくれた……」


次の瞬間、彼女の目から、大粒の涙があふれ落ちた。


それは、昨日まで彼女を縛っていた不安の名残じゃない。


生身の人間として。


一人の女として。


この世界で、たしかに、純度100%で愛されている――


そう理解した瞬間にこぼれ落ちた、熱くて、不器用な歓喜の涙だった。


『判定:100%。魂の定着を完了しました。管理AIを停止します。 ……おめでとう。君たちは、不条理な愛で、神様の設計図を書き換えた』


画面に表示された、九条さんの最後の言葉が、桜の吹雪の中に溶けていく。


気がつけば、管理AIのカウントダウンは消えていた。


そこにあるのは、ただの、騒がしい春の午後だけだ。


「……エナ。大丈夫か?」


エナは俺の胸に顔を埋めたまま、鼻をすすって答えた。


「……最悪です。カイ様が、鬼の野獣みたいで……服はシワシワだし、リップも落ちちゃったし。これ、どう責任取ってくれるんですか?」


「一生かけて取るよ。スーパーの半額セール、毎日付き合ってやる」


「……てへへっ。それって、180日の契約更新じゃなくて、終身雇用ってことでいいんですよね?」


エナが、いたずらっぽく笑って俺を見上げる。その頬は、目の前の桜よりも、ずっと鮮やかな色に染まっていた。


柳瀬川の土手。春風が、俺たちの新しい日常を運んでくる。


もう、各停のブレーキはいらない。


俺たちは、どこまでも続くこの線路を、泥臭く、人間らしく進んでいくんだ。


「ねえ、カイ様?私だけのカイ様!私、今、ガチでお腹が空きました!!!」

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