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20/22

Episode 20:Dear My Kai

「あー、ただいま、カイ!あら、その子がお嫁さん?超かわいいじゃない!あんたのセンス、駅前のハト並みだと思ってたけど、ちょっと見直したわ」


志木駅東口、早朝のロータリー。まだ夜の冷気が残るアスファルトに、とんでもないテンションの女が降臨した。


俺の母親、広瀬 静江しずえだ。


五年前。自分探しの旅という、中学生の家出でも使わない身勝手な理由で家を飛び出した自由人。


たまに届く、どこの国の言葉かもわからないポストカードと、律儀に振り込まれる生活費だけが、彼女の生存確認だった。


なあ、九条さん。あんたが死んで、やっと世界に平和が訪れたと思ったんだよ。


なのに、真のラスボスが『お待たせ!』と言わんばかりの笑顔で、斜め上から飛んできやがった。


「かっ、母ちゃん……!?なんで……っていうか、なんでエナのこと……」


俺の膝は、生まれたての小鹿みたいにガタガタと震えていた。


九条さんの電磁砲よりも、国家のデリートプログラムよりも、俺にとっては母ちゃんの機嫌の方が、はるかに恐ろしい脅威なんだ。


隣にいたエナが、いつもの鬼毒舌のままに、母親を遠慮なくジロジロと眺めた。


その視線は、かつてのデータスキャン以上に鋭く、そしてどこか好奇心に満ちている。


「カイ様。このおば様、顔の造形があなたに超似てます。将来の、私の劣化コピーだなって直感しました!あと、持ってるカバン、北浦和の高級ブティックのですね。ガチ金持ちってやつです」


「エッ、エナ!母ちゃんに劣化コピーとか言うな!マジで消されるぞッ!!」


冷や汗が、アリの大行列くらいの勢いで背中をつたう。


でも、母ちゃんは怒るどころか、エナの頬をむにゅっと両手でつかんで、超楽しそうに笑い声を上げた。


「まあ!いいわね、エナちゃん!かわいいわよ、気に入った!九条君が言ってた通りだわ。性格のひん曲がり方が、魔界のダンジョン並みに面白いわね」


「えっ、母ちゃん……?ええっ?九条君……???」


母ちゃんの表情から、遊びの温度がスッと引いた。その眼差しに影が差し、声は遊びを捨てて、真剣さだけを帯びていく。


「カイ、驚くのも無理ないけど……私、実はね、九条君の元同僚なのよ。政府のプロジェクト・プロメテウスの、立ち上げメンバー。九条君が死ぬ直前に、私に遺言を送ってきたの。不器用な息子と、もっと不器用な娘を頼むってね」


俺は、冗談抜きで腰が抜けそうになった。


衝撃の事実が、エスカレーターでブチまけられたビー玉みたいに、はちゃめちゃな方向に転がり出した。


ちょっと待て、九条さん……。死ぬ間際に、あの冷徹なあんたが、俺の母ちゃんに俺たちを託していただなんて。


あんた、どこまで先を読んで、どこまでお節介なんだよ。


「母ちゃんも、あの計画に関わってたのかよ」


「うん……。でも私はね、効率第一の政府がヘドが出るほど嫌いで、途中で飛び出しちゃったわけ。それで海外で、人間のエモさを研究してたのよ。あんたと凛を放っておいたのは、ほんとゴメンね……。でも、これから頑張るから!ねっ!」


はぁ……やれやれ。目の前にいるこの人は、間違いなく俺の母ちゃんだ。


自分勝手、天真爛漫、そして超絶ポジティブ。


この街の湿っぽい空気を、一瞬でカリフォルニアの乾燥した風に変えちまう、広瀬家の絶対君主。


「さて、立ち話もなんだし……。ねえ、エナちゃん、ちょっといい?今日から、私の遠い親戚『エナ・マルチネス』として、私の家に住むこと!それと……」


「はあ?なんだよ、それ……母ちゃん!?」


カオスにさまよう俺を無視して、母ちゃんが真っさらな服をエナに突きつけた。


濃紺のブレザー。紺ベースに青のラインが入った格子チェックのスカート。純白のシャツ。そして、紺のレジメンタルリボンタイ。


それは、どこからどう見ても、俺が通う県立志木高校の制服だった。


「エナちゃん!明日からカイと同じ学校に通いなさい。戸籍も、九条君が遺した裏ルートで完璧に偽装済みよ。九条君への最高の恩返しは、彼が愛したこの街で、あんたたちが普通の幸せをつかむこと。それが、彼の最後の願いだったんだから」


エナは制服を受け取ると、人間になってまだ日の浅い、柔らかな指先で生地をなぞった。


そして、鏡もないのに自分の姿を想像するように、クスクスと笑った。


「女子高生……JK、ですか?きゃー、ウケます!もしかしてカイ様と、禁断の学内ラブコメができるんですか?あー、でもカイ様は、成績が各停レベルだから。私に教わらないと留年確定ですよ?」


「うるせえ!誰が各停レベルだ!でも、本当にいいのか、母ちゃん?エナが、俺と同じ学校だなんて……」


エナはかつて、政府に指名手配までされたアンドロイドだ。いくら何でも、市内の高校で顔バレしないはずがない。


「カイ、あんたが心配することは何もないわ。緊急事態宣言の騒動も、指名手配のことも、政府特務局のデリートプログラムが『都合の悪い記憶』として消去済よ。あんたたちと一緒に戦った仲間以外、エナちゃんのことは誰も覚えてないから大丈夫」


さすがは俺の母ちゃん。わずかな隙も見逃さないしたたかさと、爆速で回るキレキレの頭脳は健在だった。


俺とエナの、本当の意味での、36℃の日常が始まろうとしていた。


「ねえ、カイ様。このスカート、防御力がゼロなんですけど……。冬の隙間風が、私の生体パーツを、直接デバッグしに来てますよ。これ、カイ様は毎日拝んでたんですか?変態ですね」


エナは、わざとらしくスカートの裾を少し持ち上げ、俺の顔をのぞき込んできた。


朝日に照らされた、その太ももの白さが、目に焼き付いて離れない。


……これから始まる学校生活。


俺の心臓は、国家権力との戦いよりも、はるかに過酷な試練にさらされることになりそうだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


登校初日の朝。


志木駅東口から宗岡回りのバスに揺られている間、俺の胃袋は、急流にもまれる小石みたいにひっくり返っていた。


隣に座るエナは、着慣れない制服に身を包んでいる。


窓の外を流れる、退屈すぎる街並みを、初めて見る異世界の景色みたいに眺めていた。


「ねえ、カイ様。制服って、こんなに締め付けが激しいんですか?ブラが呼吸器系を圧迫して、肺がデバッグを求めています。あと、ストッキングの電磁的摩擦が……その……、股間のあたりが……ムズムズするんですけど……」


「デカい声で言うなッ!頼むから普通の女子高生に徹してくれ。俺のライフはもうゼロなんだ」


バスを降り、学校へ向かう並木道。


エナは慣れないローファーを、カツカツとアスファルトに鳴らしながら、俺の三歩後ろを歩いていた。


朝の光を浴びて、ポニーテールに結い上げたの黒髪が、小さなリスみたいに弾んでいる。


スカートの裾から伸びる、白すぎて不安になるような脚。


その立ち姿は、どこからどう見ても、この街に舞い降りた可憐なJKに見えた。


中身がかつて、国家を揺るがした毒電波AIだったなんて、ドブ川のカメでも信じないだろう。


そして、校門をくぐった瞬間、俺の不安は的中した。


「……おい、見ろよ。あの子、誰?」


「えっ、マジ?超かわいいんだけど!モデル?芸能人?」


「ウチの高校に、あんな逸材いた?」


登校中の生徒たちの視線が、強力な磁石に吸い寄せられる砂鉄みたいに、エナに集中する。


ザワつく校内。空気の密度が明らかに変わった。


エナは、かつてアンドロイドとして何万回もシミュレートしたであろう、完璧な美少女の微笑みを顔面に貼り付けている。


そして、全生徒の脳細胞を一瞬でハッキングしていった。



クラスでの自己紹介。


エナが壇上に立った瞬間、男子連中の鼻の下が、ゴムみたいにビヨーんと伸びる音が聞こえた。


「えっと……初めまして。エナ・マルチネスです。家庭の事情で、遠い親戚のカイ君……あっ、広瀬君の家でお世話になってます。志木のことは、まだよく知らないので、色々教えてください。あと、カイ君が夜中にこっそり、私の部屋の匂いを嗅ぎに来るのを、誰か止めてあげてください」


「やってねえええええッ!!!」


俺の絶叫は、クラス中の爆笑と、男子たちの殺意に満ちた眼差しにかき消された。


休み時間。エナの机には、校内の猛者たちが男女入り乱れて群がった。


「エナちゃん、趣味は?」

「スイーツ何が好き?」

「彼氏いるの?」


弾丸のごとき質問を、エナは優雅に、かつ猛毒を振りかけてかわしていく。


「趣味ですか?そうですね……人間の寝相を観察して、各停レベルの脳みそを指でツンツンすることです。好きなスイーツは、駅前の潰れそうな定食屋のサービスで出てくる謎のゼリー。彼氏は……秘密、です」


エナが少しだけ首を傾け、俺の方をチラリと見た。


その瞬間、クラス中の男子が絶望に包まれる。


「まさか、あの各停男が……!?」


おい、やめろ。俺をクラスで孤立させる気か。


昼休み。俺は騒ぎから逃れるように、エナを連れて裏庭のベンチへ避難した。


「ハァ、ハァ……カイ様。人間ってガチで疲れます。アンドロイドだった頃なら、全校生徒の顔を0.1秒で識別できました。けど今は、名前を覚えるだけで脳の糖分がデリートしそうです」


エナはそう言って、俺の肩に、ストンと頭を預けた。


「っ、おい、エナ……近すぎるって」


俺の鼻を、石鹸の甘い匂いと、エナ自身の熱がくすぐる。


AIだった頃の、あの機械的な温もりじゃない。36℃の、確かな鼓動を伴った体温。


制服の薄い生地越しに伝わってくる、女の子の柔らかい肩の感触。


俺の心臓は、コンビニ前でコケる寸前のチャリみたいに、不規則なリズムを刻み始めた。


「……カイ様。私の胸の音。うるさいですか?」


エナが、上目づかいで俺をのぞき込んでくる。


長いまつ毛の隙間に見える、ローズゴールドの瞳。


そこには、かつての無機質なデータ処理の光はなく、言葉にできない熱い感情が、洪水のようにあふれていた。


「あっ……、いや、俺の音の方がうるさくて、聞こえねえよ」


「……バカ。各停男のくせに、こういう時だけ加速しないでください」


エナが、俺の制服の裾をぎゅっと握りしめる。


指先がわずかに震えていることに気づいた瞬間、俺の脳内回路は、ショート寸前の電圧に達した。


周囲の騒がしい喧嘩や、遠くで練習する野球部の声が、不意に遠のいていく。


世界には、俺とエナの二人しかいない。そう錯覚しそうになるほど、俺たちの距離は、限界まで近づいていた。


そんなエモい空気を切り裂くように、聞き慣れた、でも今は聞きたくない絶叫が響いた。


「カァァァイ!てめえ、裏庭で何しっぽりしてんだよッ!!ざけんなよ、この各停野郎ッ!!」


タケルだ。その後ろには、スマホを構えたミオと、なぜかバットを持った体育教師までいる。


「ヒッ……!カイ様、逃げますよ!ミオ様の眼光、ガチで命を取りに来てます!」


俺たちは、昼休みのチャイムをBGMに、校舎の奥へと走り出した。


繋いだ手のひらから、エナの汗ばんだ熱が伝わってくる。


それは、どんなプログラムよりも複雑で、どんな奇跡よりも確かな、人間の証だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


俺はタケルやミオを振り切って、エナの手を引いて本校舎の屋上へと駆け上がった。


地学部の天体観測用という名目で、普段は鍵がかかっているはずの秘密基地。


でも、母ちゃんがくれたユニバーサル・キーのおかげで、俺たちには誰もいない、街を一望できる特等席が開かれた。


「ふぅ……。ねえ、カイ様。人間ってガチでエネルギー効率が悪すぎます。たった三階分階段を上っただけで、私の心臓がオーバークロック状態です。……ほら、触ってみますか?」


エナが荒い息をつきながら、俺の目の前に踏み込んできた。


そして、自分の左胸——薄いワイシャツと、小さな紺色のリボンタイが震える場所に、俺の手を強引に引き寄せた。


「っ、おい!何すんだよバカッ!」


手のひらに伝わってくるのは、狂ったようにビートを刻む、生々しい心音。


ブラのストラップの感触か、それとも彼女自身の骨格の細さか。


俺の指先が、女の子特有の柔らかく、壊れそうな命の塊に触れてしまった瞬間、俺の脳内データは文字通りデリートされた。


もうダメ……


「……バカはカイ様ですよ。今の私の心拍数、160を超えてます。これ、故障じゃなくて、あなたが私を強引に連れ出したせいですから。責任、取ってくださいね」


エナは手を離す気ゼロで、じーっと見つめてきた。


ほてった赤いほっぺ。近すぎて、息まで聞こえる距離。


屋上の明るすぎる光のせいで、目から俺への好きがダダ漏れしてないか?


「……責任って、何をだよ。ほら、これ。学食のおばちゃんに取り置きしてもらったやつ。……食えよ」


俺は、爆発寸前の欲望をごまかすため、ポケットから袋を出した。学食で大人気の、爆速で売り切れるドーナツ。


エナは俺の手を、なごり惜しそうに離して、ドーナツを全力でかじった。


「っ……!うまっ……ガチで美味しいです。カイ様、これは化学調味料の刺激じゃありません。小麦粉の甘みと、あなたのお節介という隠し味が、私の魂をデバッグしに来てます」


エナは、口元に砂糖が付いてるのに気づかず、ふにゃっと笑う。


その笑顔が、あまりにも可愛く、あまりにも反則すぎて、俺の指先は、つい彼女の唇に行ってしまった。


「……砂糖、ついてるぞ」


「あっ……」


時間が止まった。指先に残る、エナの唇の柔らかい感触。


彼女の顔が、もう夕陽と勝負してるレベルに赤くなる。


そして、俺の指を避けるどころか、自分から顔を寄せ、俺のシャツの胸ぐらをギュっとつかんだ。


「……カイ様。私、人間になって一番驚いたことがあるんです。……それは、好きな人の匂いが、データで嗅いでいた時よりも、一万倍も甘く感じるってこと」


エナの顔が、ゼロ距離すぎる。


クリクリの瞳が、俺の目のスクショ範囲を焼く。


制服越しに、ほんのりあったかいのが来た。


「……抱きしめてください。物理的なリンクじゃなくて、もっと、その……お嫁さん的な、ギュッてやつです」


俺はもう、抵抗できない。細い腰を引き寄せて、エナの小さな体を腕の中に閉じ込める。


彼女の重さが、存在そのものが、俺の全細胞に『愛してる』という信号を叩き込んできた。


エナの髪から、ふわっとシャンプーの匂いがする。耳元でささやく、くすぐったい息もれ。


俺たちは、街のど真ん中の校舎の屋上で、世界一贅沢で、世界一無駄な密着タイムに溺れていた。


その時だ。


「ちょっと、あんたたち!屋上で何エロいことしてんのよッ!!」


扉を蹴破って現れたのは、仁王立ちのミオだった。


その後ろには、連写モードでスマホを構える凛と、なぜか『リア充爆発しろ』と書かれたハチマキをしたタケルまでいる。


「っ、げぇっ!お前ら、いつから……!」


「エナちゃんを抱きしめたあたりから、バッチリ動画に収めたわよ!カイ、あんたのママに送っとくから!」


ミオの叫びを合図に、俺たちの秘密基地は一瞬で崩壊した。


エナは顔を真っ赤にしながら、俺の手を強く握りしめ、屋上のフェンスを背に走り出した。


「カイ様、逃げてください!ミオ様、ガチで怖い……でも、後でもう一回、続きをしてくださいね!」


俺たちは、午後の授業をエスケープして、街へと駆け出した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ハァ、ハァ……!カイ様、ここまで来れば、ミオ様のレーダーから外れたはずです。校内で指名手配犯みたいに追いかけ回されるなんて、校内の治安はどうなってるんですか?」


校門を突破し、逃げ込んだのは志木駅東口。駅ビルを吹き抜ける風が、ほてった俺たちの肌を冷やしてくれる。


エナは乱れた髪を直すのも忘れ、俺の腕をギュッとつかんだまま、潤んだ瞳で俺を見上げた。


「ねえ、カイ様……。屋上の続き……する?」


俺の胸に顔を埋めて、上目づかいで訴えてくる。シャツ越しに伝わる、彼女の熱。


あの続きなんて、この駅ビルでできるわけがない。補導されて終わりだ。


でも、エナの誘うような眼差しが、俺の理性をゴミ溜めへ放り込もうとしていた。


「……っ、バカ!こんなところでできるかよ。ほら、口直しだ。アイス、食うぞ」


俺は強引に、駅ビルのアイスクリームショップへと連行した。


かつての彼女にとっては、効率的なエネルギー補給源でしかなかった食べ物。でも今のエナにとって、それは世界を彩る魔法の宝物だ。


「……っ!これが、人間界の至宝、ストロベリー・チョコチップ・ダブルですか?……カイ様、冷たすぎて、脳細胞がフリーズしました。でも、ガチで幸せです!」


エナは、幸せそうに頬張る。唇についたピンクのクリームが、妙に色っぽくて、俺はまた視線のやり場に困る。


するとエナが、半分溶けかかった自分のアイスを、俺の口元に差し出してきた。


「はい、アーン。拒否権はありません。これは私の一部をカイ様の体内に物理的にインストールする、神聖な儀式なんですからね」


「……っ、お前なぁ」


観念して一口食べると、甘酸っぱい冷たさが脳を突き抜けた。


うろたえる俺を見て、エナが満足そうに、いたずら好きの子どもの顔で微笑む。


ふと、視界の隅に、見慣れた、でも見違えるほど幸せなオーラをまとった二人組を見かけた。


一華先輩が、オープンカフェのテラス席に座っていた。その隣には、少し照れくさそうに、彼女を見つめる青年がいる。


かつてアンドロイドだった、あの彼だ。


「あら、カイとエナじゃん!学校サボって、各停デート中?」


一華先輩が、ストローをくわえたまま、茶目っ気たっぷりに手を振った。


隣の彼は、九条の遺したバックアップによって、今は完全に人間としての人生を謳歌している。


「一華先輩こそ、彼を連れ回して大丈夫なんですか?まだリハビリ中だって聞いてますけど」


「失礼ね、カイ。リハビリを口実に、美味しいグルメを制覇してるだけよ。ねえ?」


一華先輩が、彼の腕に自分を寄せる。その距離は、もはやミリ単位の隙間もない。


「ああ。一華が幸せなら、僕のバイタルデータも安定するよ。エナ。君もずいぶんと人間らしい顔になったね」


彼が、かつての同胞を見るような、温かい眼差しでエナに語りかけた。


エナは照れを隠すように、アイスのコーンをカリッと噛み砕く。


「一華様。もう、ノロケが似合わないですよ。ドブ川に投棄したくなるくらい、甘ったるすぎて胃もたれがします」


「へえー、相変わらずね、エナは。カイの手、さっきから握りっぱなしなのは、どこの誰?」


一華先輩が、俺とエナの繋いだ手を指差して、ニヤニヤしている。


エナは顔を真っ赤にしながら、俺の腕をさらに強く引き寄せた。


「……これは、迷子にならないための、物理的リンクです!各停男のカイ様は、放っておくとすぐ立ち往生して遅延しちゃうんですから!」


「はいはい、お幸せに。……カイ。エナを泣かせたら、バールであんたの脳みそデバッグするからね」


一華先輩の愛のムチに俺が震えていると、エナが耳元でコソッとささやいた。


「……カイ様。私はもう、あなたなしでは動けない仕様になっちゃってます。……ねえ、カイ様。今度こそ、誰もいないところで、物理的リンクのアップグレード、しませんか?」


エナの瞳が、夕やけの迫る駅ビルの中で、透明な赤い薔薇のように輝いていた。


俺は彼女の熱に浮かされるように、志木の街へと再び走り出す。


九条さんが命を懸けて守り、母ちゃんが繋いでくれた、この恥ずかしくて贅沢な日常。


そのド真ん中で、俺たちは今、世界で一番不器用で、世界で一番純粋なバグに溺れかけていた。


そんなエモい空気は、ロータリー現れた黒塗りの高級車によって、唐突にぶち壊された。


この街には1ミリも似合わない、威圧感バリバリのV12エンジンが唸りを上げる。


「お待たせいたしました。お嬢様、お迎えに上がりました」


車から降りてきたのは、ビシッと隙のないスーツを着こなしたマスターだった。


隣には、この街の風景から明らかに浮いている、品格が漂う老夫婦が立っている。


「エナ!無事だったのかい?私たちの……私たちの孫娘!」


老婦人が涙を浮かべて駆け寄ってくる。


俺がハトが豆鉄砲を食ったような顔で固まっていると、マスターが音もなく俺の背後に回り、耳元でささやいた。


「九条が用意した、偽装家族の役者たちだ。いや、役者というより、実際に事故で孫を失った、名士の老夫婦だよ。九条は、彼らの埋まらない孤独と、エナの居場所をマッチングさせた。これも、彼が遺した日常の一部だ」


老夫婦は、エナを壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。


エナは戸惑い、機能停止したみたいに固まっていたが、俺とマスターの様子を見て、すべてを察したようだった。


「……ただいま。おじいちゃん、おばあちゃん。高校、ガチで疲れました。……でも、悪くないですよ」


エナの、家族との初めての対面。


九条という男が、命を削ってパズルを組み上げた、あまりにも優しい嘘の形だった。


そこに、腕を組みながら悠然と現れたのが、俺の母ちゃん――静江だ。


「はーい、役者は揃ったわね!さあ、カイ!今日は広瀬家とエナの家族で、志木で一番高い焼肉パーティーよ!九条君が遺した裏口座の遺産、全部使い切ってやるわッ!」


「九条さんの遺産……?なんなんだよ、それ」


冗談なのか本気なのか。この人の真意は、昔からバーゲン会場に並ぶ主婦の思考回路より複雑で、解読不能だ。


「九条さん、あんたって人は……死んじまった後まで、住宅ローン並みに重たい宿題を押し付けやがって」


とにかく今は、母ちゃんの豪快な号令に従うしかない。


俺たちは、駅前の看板が白い日差しを反射する街を、ゾロゾロと歩き出した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


志木で一番高い焼肉屋。その座敷は、もはや戦場だった。


アツアツの網の上で、九条さんの遺産らしき特上カルビが、ジュージューと官能的な音を立てている。


エナは、さっきまでのしおらしい孫娘の仮面を脱ぎ捨て、ご飯を特盛りでかき込んでいた。


「カイ様!このカルビ、私の味覚中枢に直接DMを送ってきます!人間って、こんな鬼ヤバなものを毎日食べてるんですか?贅沢すぎてデバッグが必要です!」


「高くて毎日なんて食えねえよ。……なあ母ちゃん。いい加減、九条さんの話を教えろ。あの人、最後に俺に何て言ったんだ?」


母ちゃんはビールを一気に飲み干して、プハーッと盛大に息を吐いた。それから、突然に科学者の顔に戻って、懐から一通の封筒を取り出した。


「九条君はね、自分が総理を裏切れば、ただでは済まないって分かってた。だから私に言ったの。俺が正しい死に方をした後、あいつらに本当の幸せを教えてやってくれってね」


母ちゃんが差し出したのは、九条さんの直筆メモ。


そこには、世界を欺いた天才科学者が書いたとは思えない、小学生みたいな乱暴な字で、こう記されていた。


『広瀬カイ。君の脳に保存されたエナのデータは、実は彼女の全てではない。残りは、つまり彼女の核心は、君が持っている、あのUSBの中にある』


「あのUSB……?まさか……タケルから預かった、『Dear My Kai』か!」


俺はポケットから、使い古された銀色のUSBを取り出した。


「九条君はね、エナちゃんが育てたカイへの想いだけを、そのフォルダに切り離して保存したの。万が一、データが奪われても、愛だけは汚されないように。……ねえ、エナちゃん。そこに何が入ってるか、あなたには分かる?」


エナの手が、ピタリと止まる。


その沈黙が、少しだけ長すぎる気がした。


俺の手のひらにあるUSBを見つめ、何かを飲み込むように深呼吸をしてから、世界で一番愛おしそうに微笑んだ。


「……分かってます。私がアンドロイドだった頃。恥ずかしくて、バグだと思って、絶対に言えなかった本当のポエムです。カイ様にも、一度見られちゃってます。……カイ様、それ、今夜二人で開けますか? 私の心臓、爆発しても知りませんよ?」


「……開けるか。二人で」


エナは、静かにうなずいた。その瞳には、校舎の屋上で見せた以上の熱が宿っている。


隣では、偽装家族を演じる老夫婦が、本当の孫を眺めるような目で見守っていた。


九条さんが遺したのは、国家の進化なんかじゃない。


街の片隅で、誰かが誰かを想う。この不器用な繋がり、そのものだった。


「よし、食うぞッ!エナ、焦げる前に食え。明日は小テストなんだろ?」


「小テスト?カイ様、そんな各停レベルの行事、私の演算能力と野生の直感で楽勝です。爆走するスーパーカブ並みの速度で、満点取ってやりますよ!」


笑い声が、焼肉の煙と共に夜空へと昇っていく。



でも……俺はまだ知らなかったんだ。


そのUSBを開いた瞬間、そこに記録されていた本当のポエムの、最後のひとつを目にした時。


俺たちの関係が、各停から、破滅へと向かう銀河鉄道並みの速度に変わってしまうことを。


人間になった奇跡の代償。


最後で、最大の悲劇が、すぐそこまで、足音を立てて近づいていることを――



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