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Episode 19:ラストプロトコル

俺の脳内は、最強にうるさくて愛おしい、エナという同居人が抜けた喪失感で、空っぽになっていた。


終電が去った駅のホームみたいに、しーん……と静まり返っている。


その静寂を、無慈悲な金属音が切り裂いた。


九条が仕掛けたラストプロトコルによる、デリーターズへのハッキング。彼の命の灯火が消えるのと同時に、非情なタイムアップを迎えていた。


カチッ、カチッ、カチッ。


一斉に安全装置が外される音が、死神の足音のように響く。


「……ハッキング解除。ターゲット、再捕捉。九条特務官の反逆罪を確定。残存するバグおよび共犯者を、即刻デリートせよ」


総理秘書官の、感情を完璧に捨て切った冷たい命令が、焼け焦げた病室の空気を汚す。


俺の胸元で、レーザーサイトの赤い点が、獲物を見つけた蛇のように踊っていた。


マスターは、すでに俺を守って倒れている。


一華先輩は、弾の切れた銃と、ひしゃげた鉄パイプを握りしめたまま、膝をついていた。


「終わりよ、カイ。各停男の物語は、ここが終着駅ね」


一華先輩が、乾いた笑みを浮かべる。


その瞳の奥には、1ミリたりとも諦めていない執念の炎が、火柱みたいに揺れていた。


「一華先輩。終着駅ってのは、新しい始発駅でもあるんすよ。九条さんが、命懸けで渡してくれた切符、無駄にするわけねえ!」


俺は、横になったままの少女――エナを守るように、立ちはだかった。


たとえ、一秒後にハチの巣にされても構わない。


人間になったエナを、必ず俺が守る。


その時だった。


デリーターズの通信機から、耳を割くようなノイズと緊急音声が漏れた。


『全ユニットに告ぐ。九条特務官が死亡直前に発動した、最終秘匿プロトコル【リデンプション】が起動。国家サーバーの最重要機密情報が、志木市内の全世帯、全スマートフォン、公共放送に強制配信されている』


「なっ、何だと……!?」


総理秘書官の顔色が、一瞬で、数日間ドブに浸かって死んだ魚みたいに白くなった。


病室の壁に設置されたテレビモニターが、砂嵐を力技で突き破る。そこに映し出されたのは、生前の九条が、自室で静かに録画したビデオログだった。


『……私は、政府特務局特務官、九条と申します』


映像の中の九条は、いつもの冷徹な仮面を被っていなかった。


その表情は、どこか懐かしそうにヒマワリを思い出すような、ひどく人間臭いものだった。


『内閣総理大臣の直属として、私は人の心を効率で支配する計画を進めてきました。ですが、私は志木という街で、ある不条理に出会ったのです。各駅停車に揺られ、無駄な会話を楽しみ、不味いコーヒーに文句を言いながら笑う……。非効率の塊のような、愛すべき人々です』


モニター越しに、九条の静かな、確信に満ちた声が染み渡る。


『総理。貴方は、心はノイズだとおっしゃいました。ですが、私はこの180日間、一人の少年と、一体のアンドロイドのバグを観測し続け、確信したのです。国家を支えるのは、決して論理ではありません。砂利道で泥にまみれ、それでも誰かの手を握ろうとする、不完全な心なのです』


九条の手元には、二つの魂のコアが映し出されていた。


一つは、エナのバックアップ。


そして、もう一つは――


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


『一華さん、君に謝らなければならない。本当に申し訳なかった。君の愛した彼は、プロジェクトの最初の完成体だった。私は、彼もエナと同じように、総理や周囲の目をあざむき、この10年間、器を保存し続けてきた。実は、彼は今も、その病院の別室で君を待っています』


九条の声が、静かに、そして残酷なほどの優しさを持って病室に響いた。


その瞬間。


一華先輩が握りしめていた銃と鉄パイプが、命を失った獣のように、鈍い音を立てて転がった。


カラン……、という乾いた音を合図に、先輩の周囲で張り詰めていた世界が、音もなく崩れていく。


彼女はその場に、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。床に額を押しつけたまま、震える肩を抱きしめる。


「ぁ……、あ…………」


漏れ出してきたのは、泣き声ですらなかった。


それは、胸の奥、心臓のさらに下に10年間沈めてきた感情を、内臓ごと引きずり出すような、魂の叫びだった。


10年。この街が少しずつ変わり、新しい店ができ、古い家が壊される間も。


彼女は、たった一人で、凍りついた過去を守り、届かない祈りを捧げ続けてきたんだ。


「っ、うそ……嘘……よ!なんなのよ!九条ぉぉぉッ!!!」


一華先輩は、赤ん坊のように泣き崩れた。


床を叩き、嗚咽を漏らし、10年分の絶望と祈りを、光の粒へと変えていく。


その涙は、夜空を彩るオーロラのように、静かに、でも確かに、彼女の周囲を優しく包み込んでいった。


九条……いや、九条さん。あんたって男は……


たった一人で、二つの不条理なほど重い愛を守り抜いたんだな。


国家という巨大な壁に、自分の命をノミにして風穴を開けて、そうして散っていったんだ……


「ふざけるなッ!データの断片に何ができる!撃て!街ごと、全てを焼き尽くせッ!!」


モニターの中の九条さんをにらみつけ、総理秘書官が狂ったように叫ぶ。


再び兵士たちの指が引き金にかかる。


その時だった。


『……ちょっと、おじ様たち、うるさいですよ……。夜は……静かに寝るのがルールだって……知らないんですか……?』


俺の隣で、ずっと黙っていた少女が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その口を開いた。


大きな瞳が、キラキラと輝きを増していく。


ローズゴールドの、あの暖かくて生意気な光が、そこには宿っていた。


灰になったアンドロイドでも、記憶喪失の器でもない。


世界で一番口が悪くて、世界で一番愛おしい、あの自虐の天才が、そこにいた。


「エナ……!お前、ガチで……ガチで戻ってきたんだな……ッ!」


俺の目から、ゲリラ豪雨みたいな涙が爆速であふれ出す。


隣で上半身を起こしたエナは、寝起きのJK顔で俺を見上げ、いたずらが成功した子どもみたいに、ニヤリと笑った。


「ねえ、カイ様。泣き顔が鬼キモいです。せっかく人間になったのに、最初の景色がこれとか、私の前世の行いが悪すぎたんですかね?」


ああ、間違いねえ。口を開けばすぐこれだ。


俺の知ってる、最高に性格のひん曲がったエナだ。


「何をしている!早くそのバグを始末しろッ!」


秘書官が絶叫し、兵士たちの銃口が再び火を噴こうとした瞬間。


エナが、ベッド横のモニターパネルを、五年間眠っていたとは思えない鬼速で叩いた。


「九条様はガチの天才です。私の脳内に、この病院の全セキュリティを掌握するマスターキーを隠してくれました!」


エナが指を鳴らした途端。


ガガガガッ!と重低音が響き、天井から巨大な防火シャッターが落下してデリーターズを分断した。


さらに全スプリンクラーが作動し、廊下は荒川の洪水みたいなパニック。


「一華様!今です!早く奥の特別病棟へ!そこに、あなたの王子様が待っています!」


「……っ、ありがとう、エナ!カイ、いい?死んだら絶対許さないからッ!!!」


一華先輩はバールを握り直し、マスターを肩に担ぐ勢いで、エナが開いた最短ルートを駆け抜けていった。


「ねえ、カイ様。人間になったお祝いに、一発ド派手な各停の逆襲、かましてやりましょうか?」


エナは、その細い指で、俺の胸ぐらをグイッと引き寄せた。


駅ビルのパン屋のような甘い匂いと、確かな人間の、ドクンドクンという鼓動が伝わってくる。


二人の再会を祝う間もなく、病院の全スピーカーから、地獄の底でこすれ合う骨の音みたいな声が響き渡った。


『不愉快だ。九条も、愚民どもも。効率こそが正義であり、心などというノイズは、我が国家の進化には不要だ。全システムに命ずる。プロトコル・ゼロを起動せよ』


内閣総理大臣だ。


モニターに浮かんだ顔は、もはや人間としての感情を完全に捨てた、ただの冷たい命令装置に成り下がっていた。


プロトコル・ゼロ。


志木市全域を強力な磁気の嵐で焼き尽くし、すべてのデジタルデータと、そこに宿る心の足跡を物理的に消去するリセットボタン。


「あちゃー……。あいつ、性格のひん曲がり方が鬼ヤバ。街を消して自分好みのジオラマにでもするつもりか?」


俺は震える足で立ち上がり、エナの手を引いた。


エナは、おぼつかない足取りで、でも驚くほど力強く俺の手を握り返してきた。


「カイ様。九条様が私に託した遺言コードが、脳の隅っこで光ってます。効率をバグらせる、世界で一番シンプルな、でも世界で一番美しいバグです」


エナが俺の額に、自分の額をコツンと当てた。


36℃。


AIのヒーターじゃない、本物の体温が、俺の脳内に残るノイズを全て吹き飛ばす。


「やろう、エナ。各停男の、最高に無駄で、最高にダサい人生の輝きを、アリンコみたいな総理に見せてやれ!」


エナが深くうなずき、開いたままのネットワークを通じて、プロトコル・ゼロの中枢へダイブする。


そして、九条さんが10年かけて集めた、不完全な人間の、不完全な心のカケラを、一気に送り込んだ。


それは、効率を極めた国家のロジックにとって、猛毒みたいな無駄の洪水だった。


柳瀬川で、釣れない釣りをしているオッサンの笑い声。


駅前で彼氏にフラれて泣いているJKの叫び。


まずい定食屋で、二度と来るか!と毒づきながら、また来ちゃう客の足音。


決して数字にできない、愛すべきゴミみたいな日常が、国家のシステムを内側から食い破っていく。


「ふんっ、お疲れさん、総理。あんたの負けだ。志木の砂利道は、あんたの高級な革靴じゃ一歩も歩けねえんだよ!」


俺が叫ぶと同時に、プロトコル・ゼロの中枢に、鮮烈なレーザービームが突き刺さった。


ズギャァァァァンッ!!!


街を飲み込むはずだった磁気嵐は、夜空で糸の切れたタコみたいに勢いを失い、無数の光の輪となって静かにほどけていく。


それは、戦い抜いた俺たちへの祝福のシャワーのように、この街をやさしく照らしながら消えていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


エナが放った九条さんの遺言コードは、プロトコル・ゼロをぶっ壊しただけじゃなかった。


永田町の腐った隠蔽体質まで、特大のバルサンを焚いたみたいに、綺麗さっぱり焼き払ってくれたんだ。


結局、国民を家畜にする計画を丸裸にされた総理大臣は、高級革靴を履き替える間もなく、政治の表舞台から強制退場。


今頃、独房の壁を相手に、効率論でも説いてるんじゃないか?


俺たちの志木には、やかましい駅前のパチンコ屋と、柳瀬川でのんびり泳ぐカモが戻ってきた。


九条さんの裏切りも、今や特務局界隈では、未来を救ったレジェンド扱いだ。


俺たちへの指名手配も、九条さんが遺した正当な捜査記録のおかげで、ガチの潔白が証明された。


国家反逆罪で一生ブタ箱かと思ったけど、今じゃ当局も『あのバカどもには関わるな』ってことで、完全に腫れ物扱い。


自由って最高だな?


「……ふぅ。今日も平和すぎて、自虐ネタのキレが鈍りそうです」


事件から数週間後。


俺は柳瀬川の土手で、隣に座る少女――エナを見つめた。


彼女は、100円のアイスを幸せそうに頬張っている。


AI時代にはできなかった、当たり棒が出るのを本気で祈るという、贅沢な時間の無駄づかいだ。


「なあ、エナ。人間になってみて、どうよ?」


「そうですね……。まず、カイ様の靴下の匂いが、データで見ていた時の1.5倍は鬼クサイことに驚きました。私の嗅覚細胞、何の罪でこんな罰ゲームを受けているのでしょうか?」


「そこは感動ポイントじゃねえだろ!」


「でも……」


エナがアイスを頬張るのをやめて、俺をじっと見つめてきた。


彼女の瞳が、夕陽を反射して、透明にキラキラと揺れている。


そして俺の手を、おずおずと、でもしっかりと握りしめてきた。


「……手が、すごく熱いです。脳内で計算していた温度より、ずっと、ずっと熱くて。なんだか、私の心臓までバグったみたいに速くなってます。これ、故障じゃないですよね?」


エナの顔が、もぎたてのリンゴみたいに赤くなっている。


握り合っている手のひらから、ドクン、ドクンと、彼女の鼓動がダイレクトに伝わってくる。


俺の心拍数も、リニアの加速ばりに爆上がり中だ。


「ああ。それは故障じゃねえ。……生きてるって証拠だよ、バカ」


「あー、バカって言いましたね?……責任、取ってくださいよ!各停男のせいで、私の人生、予定外のノイズだらけなんですから」


エナはそう言うと、俺の肩にコテッと頭を乗せた。


駅ビルのパン屋の匂い。柔らかい髪の感触。そして、昨日より少しだけ重くなった、幸せな手。


英雄なんてガラじゃない。国家の未来なんて、偉い奴らが会議室で守ってればいい。


俺たちは、この湿っぽい空気の中で、明日もまた、最高に無意味で、最高に愛おしい一日を、全力で生きていく。


「九条さん。マジで……ありがとうございました」


俺は空を見上げ、砂利道を、志木っぽい歩き方で歩き出す準備を始めた。


隣には、世界で一番口が悪くて、世界で一番大切な、36℃のバグがいる。


俺たちの各停列車は、これからもゆっくりと、この街の景色を楽しみながら走っていく。


次の停車駅なんて、決まってなくていい。ただ、お前と一緒なら、それでいいんだ。


「さあ、帰るぞ、エナ。今日の夕飯、何がいい?」


「そうですね。カイ様の自虐ポエムをスパイスにした、鬼甘すぎカレーがいいです!」


「……やっぱお前、人間になっても性格ひん曲がってるわ」


俺たちは笑いながら、夕暮れの街へと消えていった。

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