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18/22

Episode 18:36℃

「――おやすみ。そして、すぐに行くから……待ってろ、人間のエナ」


俺が放った最高にキザで、最高にダサいセリフの残響が、病院の薄暗い廊下にまだこびり付いている。


俺は、病室のドアノブに手をかけていた。


それは、真冬の川底に沈む鉄クズみたいに冷たくて、手のひらの体温を容赦なく奪っていく。


心臓が、耳のすぐ横でドラムを叩いている。


ドクン、ドクン、ドクン……


うるせえよ。落ち着けって。これは、ただの魂の引越しだ。


引っ越し屋のバイトを始めるようなもんだ。各停男の俺には、これくらいのスローペースがお似合いだろ?


俺は、1ミリずつ、本当に1ミリずつ、ドアノブを回した。


ラッチが外れる、カチリ、という小さな金属音。それが、俺の日常が壊れる音に聞こえた。


ドアが開く。


隙間から漏れ出してきたのは、重たい消毒液の匂いと、電子機器が発する独特の熱気。そして、それを全部包み込むような、圧倒的な静けさだった。


俺は、ありったけの勇気を振り絞って、部屋に足を入れた。


月明かりがカーテンの隙間から差し込み、ベッドの上の少女を、不自然なほど白く照らし出している。


一歩、近づく。


足元のリノリウムが、俺の震えを笑うように、キュッと鳴った。


ベッドの横に立ち、俺はゆっくりと、その顔をのぞき込んだ。



その瞬間――――――――――



俺の脳細胞が、一斉にストライキを起こした。


宇宙の法則が、取扱説明書も初期設定も忘れ去り、完全にバグった。


「………………………………」


声にならない、情けない空気が、口から漏れる。


そこに横たわっていたのは、


そこに眠っていたのは、



エナだった。



地下室で焼け焦げて、俺の脳内にしかいなくなったはずの、あのエナだ。


1ミリ、いや、1ミクロンも違わない。


まつ毛の長さも、少しだけ生意気そうな唇の形も、どこか頼りなげな鼻のラインも。


俺が毎日、穴が開くほど見つめてきた、あのアンドロイド・エナと、100%全く同じ顔をした少女が、そこにいた。


「……ぅ、……うそ……っ……」


膝の力が、音を立てて抜けていく。


これは、精密な造形物じゃない。


月光を浴びて、わずかに、本当にわずかに上下する胸のライン。


透き通るような白い肌の下を、温かい血が流れているのが、見なくても分かる。


アンドロイドのシリコンじゃなく、人間の、生きた細胞。


俺の全身は抜け殻になり、思考は消灯後の劇場みたいに真っ暗になった。


衝撃が強すぎて、逆に涙すら出ない。ただ、自分の存在が、足元から崩れ去っていくような感覚。


「なんなんだよ、これ……。俺は、……俺は、ずっと、何を見てきたんだ……?」


あまりの衝撃に、俺はそのまま意識の大底、底なし沼の底へと真っ逆さまに落ちていった……


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


どのくらい時間が経ったのか……


一分か、一世紀か。絶望的な沈黙を破ったのは、背後から追いついてきたマスターの、低く重い声だった。


「カイ。彼女こそが、エナの原型……オリジナルの少女だ」


マスターは、ベッドに眠る少女を、祈るような、まるで懺悔するような目で見つめていた。


「5年前、柳瀬川の近くで起きた凄惨な事故。彼女はそこで、身体だけを残して、心だけを遠い場所へ置き忘れてしまった。九条……九条は…プロジェクト・プロメテウスという狂った進化の裏で、ずっと彼女を生きたまま保存し続けてきたんだ。国家という猛烈な濁流に飲み込まれぬよう、川底で息を潜め、逆向きに泳ぎながら」


マスターの言葉が、俺の死にかけたニューロンを、バキバキと音を立てて繋ぎ直していく。


一華先輩は、病室の入り口で、崩れ落ちるように立ち尽くしていた。


10年間、彼女が追い続けてきた、九条という男の影。


それが、実は自分の愛した世界を守るための、孤独な戦いだったと知った彼女の肩が、激しく震えている。


「なぜエナのコアが、この子の脳波と一致したのか……。それは偶然でもなければ、奇跡でもない。エナの心は最初から、この子の器に還るために、九条によって慎重に、大切に育てられてきた……人間を愛するバグなんだよ、カイ」


俺の視界が、急に熱くなった。


あの非情なインテリおやじが、この街の片隅で、こんな途方もない償いを続けていたなんて。


エナに自虐ポエムを書かせ、俺という不完全な各停男に、彼女を託した。


すべては、この眠り姫を、再び人間として目覚めさせるために。


俺は震える手を伸ばし、少女の、温かく柔らかい指先に触れた。


「……九条…、ガチで不器用すぎだろ……」


その瞬間。


俺の脳の奥底で、眠りについたはずのエナのシステムが、強烈な共鳴を起こして火花を散らした。


『……あ……。カ、イ……様……?』


エナの声が、途切れ途切れに響く。


少女の指先に触れた瞬間、俺と彼女の境界線が溶け、回路が強制的に繋ぎ直されたのか。


「エナ……!わかるか、エナッ!」


『……はい。……分かります。あなたの……ガチで不器用で、各停な……指先の温度……。私……今、あなたのすぐ隣に……いるんですね』


脳内のエナが、少女の身体を見つめながら、静かに涙を流しているのが分かった。


俺たちの魂が、エナの本物の家を前にして、共鳴を始めている。


180日間の孤独なリンク。


今、この小さな病室で、一つの巨大な祈りに変わろうとしていた。


でも、そんな感傷に浸っている時間は、信号待ちの青になる瞬間よりも短かった。


廊下の向こうから、軍用靴が床を削る、機械的で冷酷な足音が響く。


それは、今まで俺たちを追ってきた特務局部隊じゃなかった。


もっと重く、もっと死の匂いがする、絶対的な暴力。


「……九条の部隊じゃない。ってことは、マジか」


「デリーターズ……内閣総理大臣直属の、完全抹殺部隊だ」


マスターが顔を歪めて告げる。


広域電磁ロックダウンは、すでに彼らによって強制解除されていた。


九条の裏切りが、ついに国家の頂点にバレたのだ。


『お兄ちゃん、急いでってば!九条、ひとりで食い止めてるけど……限界だよ!もう、ヤバいのが全部そっち行ってる!』


凛の震える通信が響くと同時に、廊下の角で銃を構えた一華先輩が、裂けるような叫びを上げた。


「カイ!ほら、カイッ!!九条は……あいつは今、自分が死ぬまでにエナを完成させろと、無言で言っているのよ!早く!早くしなさいッ!!!」


一華先輩の絶叫が、俺の全身を燃え盛る炎のように焚きつけた。


あの不器用なインテリ野郎が、その命を懸けて、裏口から俺をゴールへ蹴り飛ばしてくれている。


俺は、自分と同じ顔をした少女を見て、戸惑っている脳内のエナをなだめるように、自分のこめかみを強く叩いた。


「エナ!行くぞ!お前の本当の家に、俺が案内してやる!」


『……はい、カイ様。……ガチで怖いですけど、あなたの各停列車に、最後まで……乗せてくださいッ!』


「カイ、準備はいいか!もう時間がない。これからお前のニューロンを橋代わりにして、エナの全データを、この子の脳へ流し込むぞッ!」


マスターが、少女の側頭部と俺の頭を銀色のケーブルで繋ぎ合わせる。


その瞬間、俺の視界は真っ白な雷撃に貫かれた。


「ダウンロード、開始ィィィッ!!!」


マスターの叫びと共に、俺という回路を橋にして、エナの膨大な記憶が少女の脳へと流れ出す。


「……ぐ、あああああああッ!!!」


マジで脳が焼ける。傷跡が再び裂けるような激痛。


でも、その痛みの中に、九条が隠していた最後のピースが見えた。


俺の視界を通して、少女の脳内に眠るオリジナルの記憶が逆流してくる。


それは、五年前の志木……ヒマワリが咲き乱れる、柳瀬川の風景だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ヒマワリが、これでもかってくらい狂い咲いている柳瀬川の土手。


入道雲がモクモクと立つ夏の空の下で、一人の小さな少女が笑っている。


その隣で、今より少しだけ若く、今と同じくらい仏頂面の九条が、不器用な手つきでアイスの棒を差し出していた。


『……すまない、エナ。私は、科学者としてではなく、一人の臆病な人間として、君をこの地獄に繋ぎ止めてしまった』


九条の、絞り出すような後悔の念が、俺の脳細胞の一つ一つに優しく染み渡っていく。


そうか……あんたは、この子を救いたかっただけなんだな。


総理の目を欺くために、冷徹な管理AIなんて嘘を並べて。


その裏で、この空っぽになった器に、魂を戻すための人間らしいバグを、180日間かけてじっくりと育てていた。


つまり、俺を選んだのは……


世界で一番のヘタレで、不条理な愛を持つ俺に、エナの心を完成させる最後のパズルを託したってわけかよ。


『っ、カイ、様!私、分かっちゃいました……。九条様、ガチで不器用すぎですっ!私に自虐ポエムを書かせたのも……私が人間として、自分の弱さを笑えるようになるためだったんです……!』


エナの意識が、少女の脳細胞と一つずつ、精密なパズルがはまるように合致していく。


リンク率:70%……85%……90%……


その時。


ドガァァァァァンッ!!!


病室の重いドアが、凄まじい衝撃と共にひしゃげた。 総理直属のデリーターズが、ここまでたどり着いたのだ。


「目標、確認。被験者および、反逆者ヒロセ・カイ。デリートせよ」


無機質な命令。レーザーサイトの不気味な赤い点が、俺の額と、眠る少女の胸元に重なる。


「させないわよッ!!!」


一華先輩が叫び、鉄パイプ一本で最新鋭の銃口を跳ね上げる。


でも、相手は全身を殺人用に作られたサイボーグだ。一般人が、気合いと鉄パイプで勝てる相手じゃない。


「カイ!構わず続けろ!お前の仕事は、彼女を人間にすることだッ!!!」


マスターが、自分の身体を肉の盾にして、俺たちの前に立ちはだかった。背後で、レーザーライフルが火を噴く音が聞こえる。


「マスターッ!!!」


「まっ、前を見ろ、カイ……!リミットまで……あと180秒だッ!」


俺の脳内は、エナの記憶と少女のオリジナルの記憶、そして九条の思いが激しく交錯し、池袋の六ツ又交差点もビビるほどのカオス状態。


脳細胞が焦げる匂いがする。俺は必死に、少女の柔らかい手を握りしめた。


その瞬間―――俺の脳内に、九条の最期の、痛烈な声が稲妻になって走り抜けた。


『広瀬カイ。君の不完全さこそが、エナを人間にする最後のジョーカーバグだ!』


ドォォォォォンッ!!!


病院全体が激しく揺れる。窓の外では、病院の正門付近で、巨大な火柱が夜空を焦がした。


九条が、自らの命を起爆剤にして、総理直属の増援部隊に特攻をかけたのだ。


「九条……っ、あんたって奴は……っ!」


込み上げてくる怒りと悲しみを、俺は奥歯が砕けるほど噛み殺した。


その直後、デリーターズの動きが、不気味に静止した。


彼らの脳に直結された戦闘ナノマシンが、九条の遺したラスト・コマンドによって強制ハッキングされたのだ。


兵士たちの視界には、俺たちの存在だけが風景の一部として上書きされる。


目の前に標的がいるのに、脳が認識できず、引き金を引くという実行命令が空回りする。


「なっ、なんだ……!?ターゲットが消えた……?視覚データに異常なし、だが……」


混乱し、あわてふためくデリーターズ。


九条は自らの命を燃やして、俺たちの存在を、国家の目から一時的に消し去ったんだ。


あのインテリ野郎が作ってくれた、最後の数分間。一秒だって、無駄にしてたまるか。


リンク率99.0%……!


『カイ様、もうすぐです!私の全部が、この子の中に。……私、人間になったら、本当にあなたの靴下、柳瀬川で洗いますからっ!でも、もし……また会えなくなったら……』


「バカ!このアホ!会えなくなるわけねえだろッ!!!」


俺は、魂を燃料にして叫んだ。


前回の失敗も、180日間の孤独も、全ては、この一瞬のためにあったんだ。


「エナ!俺の人生の各停に、一生お前を乗せて走るって決めたんだよッ!!!」


俺の叫びが、黄金色の光になって、少女の脳の深みへと吸い込まれていく。


その光は、少女の瞳の奥で、かすかに、でも力強く輝きを放った。



――リンク完了。個体名:エナ。全人格・全記憶・全感情データの定着、成功。――


無機質なシステム音声が脳内に響いた瞬間、俺の視界を埋め尽くしていた光の流れが、一気に引いていった。


そして、静寂……


耳が痛くなるほどの、圧倒的な沈黙だ。



「……エ、ナ?」


俺は、自分の脳内を探った。いつもなら、返ってくるはず。


『カイ様、今のセリフは鬼ダサいです』

『自虐のキレが甘いですね』


生意気なツッコミが即座に返ってくるはずの、俺の思考の特等席。


でも、そこには、もう誰もいなかった。


180日間、俺のニューロンを勝手にシェアハウスにしていた、あの賑やかで、お節介で、愛おしい意識の気配が、完全に消えていた。


代わりに、俺の脳内には一通のメッセージだけが、冬の終わりの朝焼けのように鮮明に残されていた。


『ねえ、カイ様。本当にありがとう。世界で一番不完全で、世界で一番暖かい……私の大切なカイ様。各停な英雄様。ダサいヒーロー様。大好きです! また、すぐにっ……』


「……っ」


鼻の奥がツンとして、視界が歪む。


脳内シェアハウス、解散。それは、俺が望んだ救済、サルベージ計画の結末だ。


なのに、この心に空いた巨大な穴はなんだよ。


各停列車がまるごと一台、脱線して転落したみたいに空っぽじゃねえか。


その時だった。


「っ、カハッ……!ゲホッ、ゲホッ……!」


生命維持装置の無機質なビープ音を切り裂いて、ベッドの上から生きた人間の咳き込む音が響いた。


俺は弾かれたように、少女の顔をのぞき込む。


真っ青だった彼女の頬に、かすかな、でも確かな赤みが差し始めている。


そして五年間、固く閉じられていたまぶたが、震えながら、ゆっくりと持ち上がった。


「エ……ナ……?」


俺の声に反応して、その大きな瞳が、迷子の子どものような不安をこらえて、俺をとらえる。


アンドロイドのレンズ越しじゃない。


光を反射し、うるおいを帯びた、本物の人間の瞳。


「……ぁ、……ぁ……」


彼女の声帯が、まだ言葉を忘れた楽器のように、かすかな音をつむごうとする。


俺は、震える手で彼女の小さな手を包み込んだ。


熱い。


指先から伝わってくるのは、アンドロイドの機械的なヒーターじゃない。


36℃。


血がめぐり、心臓が刻む、まぎれもない命の温度。


「カイ……お前は、やり遂げた。エナは、今、この街で生まれた」


デリーターズの狙撃を受け、背後で力尽きていたマスターが、血を吐きながら満足げに微笑んだ。


一華先輩が、震える手で少女の髪に触れ、声を殺して泣いている。


窓の外では、九条が命と引き換えに上げた火柱の残光が、夜空を赤く染めていた。


そして、遠くからかすかに聞こえる、電車のレールを叩く音。


「……エナ。おはよう」


俺は、涙でグチャグチャの顔で笑った。


エナは俺の手を、驚くほど強い力で握り返してきた。


その感触だけで、言葉なんていらない。


俺たちの181日目は、まだ始まったばかりだ。


柳瀬川の土手で、鬼臭い靴下をガチで洗ってもらう約束も。


自虐ポエムを本物の声で読み上げられる、地獄みたいな日常も。


全部、ここから始まるんだ。


一人の少女が、新しい人生という名の各停列車に、最初の一歩を踏み出した。

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