16th Broadcast Episode:国家中枢区のプロメテウス(A)
「……高くない?」
僕はメニューを開いたまま、声をひそめた。目の前には、聞いたことのないソース名と、食欲より学歴が高そうな料理名が並んでいる。
北浦和駅直結タワーユニットの三十二階。
全面ガラス張りの向こうでは、巨大な透過シールドが真昼の光を均一にコントロールし、冷たく白い街並みを照らしている。
塵ひとつない人工的な青空の下、国家中枢区のビル群が、一切の影を残さず整然とそびえ立っていた。
でも、今いちばん僕を追いつめているのは景色じゃない。葉っぱ数枚と透明なスープで2,500円する、このランチセットだ。
地元なら、定食屋で腹いっぱい食って、おつりでアイスまで買える。僕の財布は、この高そうな場所に負けかけている。
「安心してください、ダン様。事前に計算しました。このランチ二名分を食べても、今月後半は、86%もやしで生存可能です」
「安心できる要素が一個もないけど?」
そう言い返した瞬間、ノアが小さく笑った。以前の、綺麗に作られたスマイルじゃない。笑いの内側に、あたたかい揺れがある。
僕はメニューより先に、そっちへ気を取られた。
「北浦和、すごいですね」
ノアは窓の外を眺めている。
「街全体が、常に誰かを選別しています。建物も、人の服も、歩く速度までハイスペック仕様です」
「でしょ? 立ってるだけで、偏差値測られそうで嫌なんだよ」
国家中枢区のハイライズ・セクターは、何もかもが正しすぎて息苦しい。志木の泥や油や、余計なゆるさが入り込む隙もない。
「でも、隠しごとをするなら、そのぶん裏通りの方が向いています」
そう言って、ノアはガラス越しの白い高層群を見据えた。その横顔は、前より人間くさい。
それから「ふふーん」と鼻を鳴らして、指をパッチンした。
テーブル上に広がったビビッドオレンジのホログラムが、あの夜に拾った座標と周辺の立体マップを鮮明に映し出す。
「ログの跡はここです」
ノアの指先が、投影座標の北側をなぞった。
「国家AI統治機構の表玄関ではなく、再開発から外れた北側ブロック。市立図書館の地下回線と、断続的に同期しています」
「つまり、祭りの日に拾った怪しい座標を追ってたら、北浦和の裏側に出たってことか」
「はい。裏側に繋がる時点で黒寄りです。なので今日は、デートに偽装した、不法侵入一歩手前の現地調査ですね」
「その言い方!」
ノアは、また新しい調子で笑った。
あの自爆が嘘のように、今のノアからはエラーの気配が消えている。記憶の混線も、サエへの嫉妬も、自分の力で噛み砕いて克服したんだ。
この不器用で愛くるしい笑顔が、何よりの証拠だった。
僕は目を逸らして、グラスを一気にあおった。皿の上は上品すぎて近寄りがたくても、水はスルッと喉を通っていく。
「……とにかく、飯食ったら図書館だ」
「はい、ダン様。なお現在の心拍は、調査任務よりデートに近い数値です。照れ隠しの攻撃性も上昇中です」
「うるさい!」
会計を済ませて店を出ると、外の空気は昼間なのに張りつめている。
駅直結フロアの磨かれた床も、無駄のない歩幅で行き交う連中の視線も、場違いな二人をどこかへ追い出したがっている気がした。
「……長居する場所じゃないですね」
ノアが小さくつぶやき、歩きながら浮かべていたホログラム表示を消した。
僕も無言でうなずいた。
この街で、座標を追いながら人目を避けられる場所は、一つしかなかった。
◇ ◇ ◇
僕たちは、逃げ込むように巨大な図書館へ入った。館内は、ページをめくる音すら怒られそうなほど静かだった。
僕とノアは、奥まった資料コーナーの、人目に付きにくい小さなデスクに座った。
「……静かすぎますね」
ノアのささやきが、耳のすぐそばに落ちる。
「これ、声を出したら即、退学処分になりそうです」
触れた肩から伝わる熱が、前よりはっきりしている。以前のノアなら、こういう距離の詰め方も、まだプログラムの延長として受け取れた。
でも今は違う。こっちが意識してしまうほど、そこに意思がある。
ノアはホログラムの座標データをデスクに投影しながら、当たり前のようにその近さに居座った。
「……ねえ、ダン様」
その響きが、前よりずっと生っぽく胸に残る。
「この空間、呼吸音にも偏差値をつけてきそうです。ダン様の心拍、かなり目立っています」
「……っ!」
細い指が、僕の反応を確かめる手つきで首筋をなぞった。体の弱いところを全部知られてる気がして落ち着かない。
物音ひとつ立てられないせいで、かえってノアの距離感が壊れていく。腕に寄りかかる重さが、もう完全にわざとだった。
「……声、出しちゃダメですよ?」
ノアは悪戯っぽく言った。
「もし変な声出したら、今日のダン様、私の中で永久保存です」
その手元が、僕のワイシャツのボタンに近づく。座標どころじゃなかった。僕はその横顔から離れられない。
目も耳も肌も、ノアというバグに持っていかれた。考えがまとまる前に、どこかへ流されていく。
血の巡りが、息苦しい沈黙に逆らって体の中で暴れていた、その時。
入り口あたりから、温度のない視線が刺さった。北浦和の連中は、追い詰める時ほど音を立てない。
スマートグラスを光らせた雨宮が、無言でこっちを指し、外へ出ろと合図していた。レンズの奥で、僕たちの移動ログらしき赤い線が細く点滅している。
僕たちは促されるまま、裏の公園へと連れ出された。逃げ場のない昼だ。風はからからに乾いている。
「見つけたよ」
図書館を抜けた途端、雨宮の毒を含んだ一言が背中に張りつく。
「ドブ川からはい出してきた、迷子のカッパ君たちだ」
背後には取り巻きの大学生たちが並んでいた。研究対象を見る目で、僕たちを上から眺めている。
「雨宮……!あんた、しつこいんだよ!回収班を差し向けた次は、待ち伏せか?」
「人聞きが悪いな。ここは僕たちの管理圏だ」
雨宮は表情をまったく変えなかった。
「感情のノイズに汚染された個体が学術エリアへ侵入したと警報が出れば、確認に来るのは当然だろう」
大学生たちが、クスクスと鼻で笑う。
「へえ、これが噂のR-180?」
一人が、遠慮なく値踏みしてきた。
「最新型のわりに、外装はボロボロだな。歩き方も安定してない。まだ実用域にいるの、それ?」
「検知。対象のIQは高いです」
ノアはさらりと言った。
「ですが、人間性のアップデートは長期未実施のようです」
でも、大学生たちは眉ひとつ動かさなかった。
「口は達者だな」
その態度には、こっちが何を言っても変わらないと決めつけている余裕がある。
「でも、君のコアにあるのは結局、嫌われプログラムっていう負の遺産だろ。180日後には、その冴えない男を切り捨てることになる」
そこで、わざわざ間を空けた。
「そんな対象に執着するのは、合理的じゃないよな?」
ノアの肩が、小さく固まった。怒ったのか、傷ついたのか、その両方か。もう僕には、前ほど切り分けられない。
一人の男が、ノアの頬に汚らわしい手を伸ばそうとした。
「触るなよ」
パチンッ!
僕は、自分でも驚くほど低い声で、その手を叩き落とした。男は引っ込めた指を振り、薄っぺらく笑う。
「あ? 何だ、この各停野郎」
肺から喉元めがけて熱が込み上げてきた。でも、感情に任せて怒鳴り散らしたら、この連中と変わらない。
「……その通り、僕は各停だ。急行みたく器用に走れないし、砂利道でつまずいてばっかりだよ」
自分でも笑えるくらい、北浦和じゃ場違いな台詞が出た。
「でも……冷たい世界で見つけたこの温もりは、どんなに惨めでも絶対に離さないって決めたんだ」
僕はノアの前に半歩出た。
「最初から答え付きで人生を歩いてるお前らに、この子のバグの尊さが分かってたまるか!」
その瞬間、ノアの体がはっきり揺れた。僕の言葉を、誰より近くで受け取ったのは、隣にいるノアだった。
そのまま抱き寄せて、前へ進んだ。
「行こう、ノア。赤点回避に命かけてる僕とじゃ、住んでる世界が違いすぎて話が噛み合わない」
背後で雨宮が、誰かに短く指示を飛ばした。
振り返るべきだったのかもしれない。でもその時は、ここを離れることしか考えられなかった。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いて、人通りの少ない裏通りセクターへ入った時だった。ノアの体から、聞いたことのない激しい回転音が響いた。
「なっ……ノア!どうした、またオーバーヒート?」
「い、いえ……冷却ファンが、勝手にフルスロットルで回っています」
うつむきながら、かろうじて返した。
「ダン様が、さっき……離さない、なんて言うから。……私のコアの温度、バグ確です。もう自分でもよく分かりません」
首元から不規則な駆動音が低く漏れ、僕の胸に伝わってくる。
僕にはそれが、花火の下でこぼれた想いの続きが、体の中で騒いでいるようにしか聞こえない。
ノアの暴走する鼓動をなだめようと、ついいつもの癖で、自分の脈をゆっくりとしたリズムでトントンと叩いた。
「おーい、そこの高校生。路地裏でくっついてる暇があるなら、もっと足元に気をつけろ」
突然、暗がりのシャッターが、ガラッと勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、僕の悪友、タケルだった。志木駅裏の旧街区で、壊れたものを生き返らせてる同級生だ。
アッシュグレーのラフな短髪に、涼しげで鋭い切れ長の目。全身油まみれのツナギ姿でも、反則なくらい無駄にイケメンなのが困る。
「は? タケル! なんで北浦和の路地裏で油まみれなんだよ……。違法すれすれの魔改造が本業じゃなかったの?」
僕の問いかけに、タケルは鼻先のグリスもそのまま、口の端を上げた。何か面白い配線を見つけた時の顔だ。ろくな予感がしない。
「知的エリートどもの捨てるもんは、だいたい宝の山なんだよ。北浦和は高純度のジャンクが転がりすぎてんの」
そう言って、ポケットに突っ込んだ右手を、カチャカチャとせわしなく動かした。
親指と人差し指の先で、十ミリボルトをクリクリと器用に回している。この手癖が出ている時のあいつは、もう次の獲物を品定めしている。
その目が、すぐノアへ移った。
「で、それよりダン。お前のR-180、もう限界だ。冷却ファンの音で分かる」
カキンッ、コン……。
タケルの指先から、ポロリとこぼれ落ちたボルトが、アスファルトの上でかん高い音を立てて転がった。
その冷ややかな金属音は、終わりを告げるカウントダウンの始まりだった。




