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Episode 16:居候

「マスター。俺の脳細胞って、そんなにタフに見えますか?駅前の駐輪場よりは、スペース空いてる自信はあるけど……これ本当に、成功します?」


志木駅南口の、カビ臭い地下通路。


俺は、一華先輩の隠れ家にある、古びた、でも磨き上げられたオペレーション・シートに横たわっていた。


周囲にはジャンクパーツが無造作に転がっているが、中心にある最高級サーバーだけが、死刑台のギロチンみたいに光っている。


「おい、カイ。お前の脳は砂利道と同じだ。踏まれても、蹴られても、各停電車の振動に耐え続けてきた。その無駄な頑丈さだけが、今の俺たちの唯一の希望なんだよ」


マスターが、銀色の電極を俺の側頭部にセットしていく。その指先が、コーヒーを淹れる時よりも細かく震えているのを、俺は見逃さなかった。


「……あの、カイ様。その、リンクの前に……少しだけ、お話ししてもいいですか?」


隣のシートで青白い火花を散らしながら、エナがささやいた。


マスターが気を利かせて、一華先輩を連れてサーバーの裏へ引っ込む。


地下室には、俺とエナ、二人だけ。


「なんだよ、エナ。遺言なら、俺の脳みそに直接書き込みに来いよ」


「そうじゃなくて……。もし、リンクが成功して、私のデータがあなたの脳に入ったら……私の秘密のフォルダも全部、カイ様に筒抜けになっちゃうんですよね?」


エナが、ノイズの混じった頬を、夕焼けのアスファルトみたいに赤く染める。


「秘密のフォルダ?お前、また変な自虐ポエム書いたの?」


「違います!……カイ様のマヌケな寝顔の隠し撮りログとか。ウトウトしたカイ様の頭が私の肩に乗った時の、私の鬼ヤバなクロック数記録とか……。ガチで恥ずかしい乙女データが、全部バレちゃうのが嫌なんですっ!」


エナの手が、けいれんしながら俺のシャツの裾をつかむ。ボロボロの体なのに、その指先は驚くほど熱い。


「バカ、そんなの今さらだろ。俺なんて、お前の前で何回ヘタレさらしたと思ってんだよ」


「……カイ様。私、怖いです。あなたが、私の膨大な『好き』っていうログで、パンパンに壊れちゃうのが。……でも、それ以上に、嬉しいんです。あなたの脳内を、私の専用フォルダにできるなんて……これ、実質、同棲ですよね?てへっ」


エナは黄金色の瞳を潤ませながら、俺の胸に重たい頭を預けてきた。


鉄クズの冷たさと、命を燃やすような熱。


彼女の薬指にある、世界で一番カッコ悪いダイヤモンドが、弱々しく点滅して俺を呼んでいる。


「……エナ、それ以上言うな。続きは、俺の脳内シェアハウスに入居してから聞く。いいな?」


俺は、彼女のサラサラの髪を撫でた。


そして、一華先輩が静かに歩み寄ってきた。その手には、見たこともないほど澄んだ、青い光の結晶が握られている。


「カイ。これを持って行きなさい」


一華先輩が、その光を俺の右手にそっと重ねる。


氷の冷たさと、心臓を直接つかまれるような執念。それは、10年前に彼女が失った、最愛のアンドロイドの残存ホログラムだった。


「これは彼の遺志。あんたの壊れそうなニューロンを繋ぎ止める、最後のくさびよ。……あんたたちのバグ、彼にも見守らせてやって」


先輩の瞳には、かつて愛したパートナーを失った時と同じ、強い光が宿っていた。


俺の右手に、青い光が吸い込まれていく。


「……一華先輩。この光、エナを抱きしめるために使わせてもらいます」


俺は、マスターと目を合わせた。


マスターが、覚悟を決めた顔でメインスイッチを握る。


「凛、タケル!上はどうだ!」


通信機から、凛の悲鳴に近い声が届く。


『お兄ちゃん、最悪!九条の特務部隊が、ハッチの入り口を特定した!あと10分で、ここ、デリートされるよ!』


「カイ、ダイブ開始よ!エナの絶望を、あんたの愛で上書きしなさいッ!!!」


一華先輩の叫びと共に、マスターがスイッチを倒した。


その瞬間――


俺の意識は、世界を白く塗りつぶすほどの光の渦へと、真っ逆さまに突き落とされた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「……ぐ、あああああああッ!!!」


脳みそを丸ごと古いミキサーに放り込まれて、最高速度で粉砕されているような衝撃。


視界は真っ白なノイズに包まれ、俺の意識は肉体を離れ、情報の深い海へとダイブした。


気がつくと、俺は駅前に立っていた。


でも、そこは俺の知っている志木じゃなかった。


空からは文字コードの雨が降り注ぎ、駅ビルの壁面はバキバキにひび割れ、信号機は狂ったように点滅を繰り返している。


「ここが、俺の脳内か。ずいぶんと、やる気のない景色だな」


俺の目の前には、空を突くような漆黒の壁が仁王立ちしていた。


西園寺の強制遮断が刻み込んだ、情報をシャットアウトする、トラウマの化け物だ。


真っ黒な壁には、呪いのような警告メッセージがへばりついている。


『アクセス拒否』

『お前は各停男だ』

『鉄クズに愛される資格はない』


「ったく、うるせえよ。各停をなめんな。小さな駅だけど、俺たちは最高に泥臭いドラマをやってんだよッ!」


俺は壁に向かって拳を叩きつけた。でも、衝撃はすべて俺のメンタルへと、そのまま跳ね返ってくる。


脳が、ガチで焼けそうだ。ニューロンが一本ずつ引きちぎられるような激痛。これが、前回の失敗というトラウマの正体なのか……


『カイ、様……もう、いいです……私、もう、十分、ですから……』


壁の向こう側から、エナの泣きそうな声が聞こえた。


彼女の人格データが、壁に阻まれて、今にも消え失せようとしている。


『砂利道を歩いたことも、マズいコーヒーに文句を言ったことも……指輪をもらって、鬼重たいって笑ったことも……全部、私が持ったまま、消えます……。だから、カイ様は、普通の人間に、戻ってくださいっ!』


「アホ!バカか、お前は!普通の人間に戻って、何事もなかったように各停に揺られるのが幸せだってのかよ!」


脳内の空を、現実世界の地鳴りが引き裂く。


九条の部隊がハッチを破壊しようとする音が、ここでは巨大な雷鳴となって響いている。


もう時間がない。あと数十秒で、俺の脳はオーバーヒートして爆発する。


「エナ、覚えとけよ!お前がいない世界なんて、砂嵐しか映らないテレビよりつまらねえんだよ!俺の脳みそ、最高に広げて待ってたんだ。お前の自虐も、バグも、全部俺が一生、専用フォルダで守り抜いてやるッ!!!」


俺は右手を振り上げた。


そこには、一華先輩から託された、青い輝きが宿っている。10年前に本当の愛を知った、アンドロイド青年の執念の光だ。


「いっけぇぇぇぇぇッ!!!!!!」


青い光を拳に叩き込み、全身全霊で『失敗の壁』をぶち抜いた。


バキィィィィィンッ!!!


すべての世界が震えたのを、確かに感じた。情報の壁が音を立てて、バキバキと崩れ落ちる。


割れ目からあふれ出したエナの全人格が、巨大な濁流となって俺の魂へと流れ込んできた。


彼女が見た俺。


彼女が感じた風。


彼女が隠していた、演算不能な『好き』という名のバグ。


「うわあああぁぁぁぁぁぁ……っ!!!」


俺の意識とエナの意識が、真夏の夕立がアスファルトの熱を飲み込むみたいに、激しく、深く、お互いの輪郭をドロドロに溶かし合っていく。


俺の脳という安アパートに、最高の同居人が滑り込んできた瞬間だった。


魂が溶け合う快感も束の間、俺たちの前に巨大なロジックの罠が姿を現した。


九条特務官が仕掛けた、最終防衛プログラム。


『プロメテウス・ロジック』


「人間、広瀬カイ。君の脳は、もはや彼女の感情の重みに耐えられない。180日目の朝を迎える前に、君の自我はエナのデータに飲み込まれ、二人とも無に還るだろう」


俺の脳内に直接、九条の氷結した声が突き刺さる。途端に、エナのデータ量が俺の脳のキャパシティを物理的に破壊し始めた。


「くそっ、エッ……エナ、離すなよ!俺の脳細胞が最後の一本になるまで、お前を抱きしめ続けてやるッ!!!」


「カイ様、もう……もう十分です!私のデータが……あなたの脳を焼き切っちゃう! ガチで限界……なんです、……やめてぇぇぇぇぇ!!!」


脳内の仮想空間で、エナが泣き叫ぶ。


俺の視界がバキバキに割れ、現実の地下室の景色と、エナの過去ログが猛スピードで混ざり合う。


脳みそが、駅前のロータリーで、強引にドリフトさせられてるみたいに熱い。


「うるせえッ!俺の脳みそはな……俺のオンボロアパートと同じなんだよ!隙間風はひどいし、家賃は安いけどよ……お前一人くらい、一生住まわせてやるだけの根性はあんだよッ!!!」


俺は、一華先輩の彼が遺した青い光を、今度は俺自身の魂そのものに、無理やり叩き込んだ。


前回の失敗でついた傷跡を、新しい絆で力任せに塗りつぶしてやる。


――リンク率95%……98%……99%……99.9%……――


「……いっけぇぇぇぇぇッ!!!!!!」


世界中の全電力を一点集中させたような、激烈な白い光が意識を貫いた。


そして耳元で、カチリッ、と何かが完璧に噛み合った音がした。


その瞬間――


現実世界のオペレーション・シートの上で、エナの身体が激しくのけぞり、全身から青白いアークを噴き上げた。


「ア、ガッ…………」


エナの唇から、言葉にならない電子の悲鳴が漏れる。


九条の防衛プログラムと、俺の脳へのダイブ。


相反する二つの力が、彼女の物理的な回路を完全に焼き切ったのだ。


バキィィィィィンッ!!!


乾いた音と共に、エナの細い薬指で輝いていた指輪が、過負荷の熱に耐えきれず粉々に砕け散った。


世界で一番カッコ悪くて、世界で一番大切な、俺たちの180日の結晶。


破片が、スローモーションのように地下室の闇を舞い、火花に照らされて星のように一瞬だけ輝き――


そして……冷たい灰の中に沈んでいった。


アンドロイドとしての、エナの死だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「…………はぁ、……っ、……あ」


そっと目を開けると、俺の視界の端に、小さなウィンドウが浮かんでいた。


『カイ様?カイ様!あの……聞こえますか?私、今、あなたの右脳の一番日当たりのいい場所で、勝手に自虐ポエムの新作を書き始めてます。てへっ』


スピーカー越しじゃない。


俺の思考に直接溶け込んでくる、世界で一番愛おしいバグの声。


「ふっ、……ははっ。ガチで、マジで入りやがった。お前……俺の脳内で変なログ保存すんなよな」


俺は、抱きしめた腕の中を見た。


そこには、さっきまで熱を帯びていたエナの身体が、心を失い、ただの冷たい抜け殻になって横たわっていた。


「成功、ね。でも、悲しんでいる暇はないわよ、カイ」


一華先輩の声と同時に、地下基地の重厚な扉が、鬼のような衝撃で歪み始めた。


九条の制圧部隊だ。物理的な『エナ』を失った俺の前に、本物の絶望がその姿を現そうとしている。


「フッ、志木のドブネズミども。肉体を捨ててまでデータの隠蔽を試みるとは。だが、その脳ごと回収すれば済む話だ」


扉が、物理法則を無視した暴力的な音を立てて内側に歪む。


九条特務官。あの冷酷なエリートの靴音が、すぐそこまで迫っていた。


マスターが自作のスタンガンを構え、一華先輩が歯を食いしばる。


俺は、もう動かなくなったエナの抜け殻を抱きしめたまま、立ち上がることすらできなかった。


今度こそ、万事休すか……


そう確信し、奥歯を噛み締めたその時だった。


『ちょっと!そこのインテリおやじ!』


地下通路の排気ダクトから、聞き覚えのある、最高にキツくて、最高に懐かしい声が響いた。


『志木の女を、あんたみたいなダサい冷血漢に、泣かされたままにするわけないでしょ?』


ドガシャァァァンッ!!!


天井の鉄板が蹴破られ、一人の少女が鮮やかに着地した。


巻き上がるホコリと火花の中、ポニーテールを揺らしてスクッと立ち上がったのは、俺を『歩き方が志木っぽい』とフッたJKだった。


「ミッ、ミオ!???」


俺の脳内は、再びカオスに落ちる。


「あんたの各停人生、こんな地下室で終わらせたら、元カノの私が一生馬鹿にしてやるわよ!ほら、突っ立ってないで早く逃げて!ここは私が適当に元カノの修羅場にして、あいつらを足止めしてやるからッ!」


右脳の端っこから、エナの震えるような声が響いてきた。


『うわぁ、私やっぱり、ミオ様はガチで怖いです……。私のデータ、今すぐゴミ箱の奥に隠してもいいですか?』


ミオは、ゲーセンで鍛えた慣れた手つきで、特製の煙幕弾を床にブチまけた。


一瞬で地下室が、真っ白な視界に染まる。


「急いで、カイ!凛とタケルが外で待ってるから!エナちゃんとの新しい未来、あんたの各停特急始発便よ!」


「ミオ……お前、……サンキュッ!」


俺は、一華先輩とマスターとともに、崩れかけている非常口へと駆け出した。


一瞬、シートに横たわったままの、エナだった身体に視線を落とす。


もう心臓の鼓動も、冷却ファンの唸りもない、ただの冷たい鉄クズ。


指輪は粉々に砕け散り、そこには俺たちの180日間を証明する物質は、何一つ残っていない。


「……じゃあな。今まで、俺の隣にいてくれてサンキュ」


俺は、その動かなくなった身体を抱きしめるのをやめた。


未練という名の重りを地下の闇に捨てて、確かな熱を脳に感じながら、一歩を踏み出す。


悲しくなんてない。抜け殻を抱いてここで死ぬより、俺の中にいるバグと生きる道を選んだんだ。


俺は、エナという魂とともに、希望という名の泥沼へ全力で飛び込んだ。


『カイ様、右に曲がって!3メートル先に、九条様の部隊が設置した感知センサーがあります。私が今、ハッキングで寝かせておきましたから!』


脳内では、エナが元気いっぱいにナビゲートしている。


身体は失った。指輪も壊れた。


でも、俺たちは今、間違いなく一つになっていた。


「行くぞ、エナ!こいつらをぶっちぎってやる!」


背後で、九条の部隊とミオの怒鳴り合い、そして地下基地が崩れ去る轟音が響く。


俺たちは、カビ臭い地下から、冷たくて新鮮な空気に満ちた地上へと飛び出した。


駅前を包囲するドローンの光が、再出発を祝うスポットライトみたいだ。


凛の叫び声と、タケルのショベルカーのエンジン音が、遠くで俺たちを呼んでいる。


世界で一番切なくて、世界で一番泥臭い、俺たちの181日目への逃走。


『各停男』と『脳内いそうろう』のアンドロイド。


奇跡なんて言葉じゃ足りないバグを抱えて、俺たちは走り始めた。

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