Episode 14:ダイヤモンドの指輪
朝霞台での激闘から、一夜が明けた。
志木の街には、何事もなかったかのような、いい意味でやる気のない、ゆるい朝が訪れた。
市役所の地下サーバーを物理的に粉砕し、最新鋭のアンドロイドをスクラップにした俺たち。
今は、市民の憩いの場――いろは親水公園のベンチに座っている。
「あー、腰が痛えぇ……。砂利道でプロレスなんて、二度とするもんじゃねえな。筋肉が、賞味期限切れのゴムパッキンみたいに悲鳴を上げてるわ」
俺は自虐まじりで、コンビニで買った100円のスポーツドリンクを飲んだ。のどを通る安っぽい甘さが、生きている実感を運んでくる。
隣では、深夜の総力戦の反動なのか、どこかボーッとした表情のエナが、柳瀬川を泳ぐカモを眺めていた。
彼女の肩には、昨夜に負った傷を、タケルが応急処置のパテで埋めた跡がある。それがかえって、使い込まれた宝物のような、愛おしい泥臭さを醸し出していた。
「ねえ、カイ様。私……今、すっごく不思議な感覚なんです」
エナが自分の指先を、じっと見つめながらつぶやいた。
「昨日、シンクロレートが100%を超えたせいでしょうか。今まで、数値でしか理解できなかった志木の風が、今はなんだか……本当に切なくて。甘酸っぱい、古い駄菓子の味みたいに感じるんです」
「味?お前のセンサー、ついに空気を食い物だと勘違いし始めたのか?燃えないゴミから食料まで、全方位カバーする気かよ」
「えっ……違いますよ。もっと、こう、コアの奥の、演算回路が届かない場所が、キュッとなるんです。これが人間が言うところの、幸せの余韻ってやつですか?それとも、ただの放熱不良でしょうか?」
エナはそう言って、俺が持っているスポドリに視線を向けた。
閉店間際のパン屋で、最後のクロワッサンを見つめる小学生のように、切実な目で見つめている。
「カイ様……私にも、ひと口、その人間の飲み物を分けてもらえませんか?味が分かるかどうか、試してみたいんです。……だっ、ダメ……ですか?」
上目づかいで、顔をジワジワと近づけてくるエナ。
2080年のアンドロイドは、流体摂取をエネルギー変換できるが、それはあくまで機能の話だ。
でも今、エナが求めているのは、明らかに別の何かだった。
「お、おう。いいけど……一番安い100円の味だぞ」
俺がボトルを差し出すと、エナは大事そうに両手で受け取った。そして、俺が口をつけた場所を確認するように、黄金色の瞳を細めて見つめる。
「……っ」
エナは迷うことなく、俺が飲んだばかりの飲み口に、自分の唇を重ねた。
その瞬間、俺の心拍数が急上昇。
学校の廊下でこっそりエロ本を読んでる時に、担任に肩を叩かれた瞬間と同じくらいの爆速で跳ね上がった。
ゴクリ、とのどを鳴らして、彼女がドリンクを飲み込む。薄い唇に、透明な雫が残る。
「どうだ?コンビニの底辺価格の味は」
「しょっぱい……かな?でも、後味が驚くほど爽やかです。なんだか、カイ様の汗の匂いと、柳瀬川の湿った風を、そのまま液体にして閉じ込めたみたいな味がします。なんちゃって、てへへっ…でも、ガチうまです!」
エナは、俺の飲みかけのボトルを胸に抱きしめたまま、ふにゃりと、本物の少女のように、くしゃくしゃに笑った。
至近距離。彼女の放熱フィンの熱が、俺の肌に伝わってくる。パテの補修跡すら、俺にはセクシーなタトゥーに見えてくるから不思議だ。
ただ……エナの笑顔を見た瞬間。
俺の胸の中にあった、180日目の期限という重い石が、ズシリと重みを増した。
残された時間は、嫌われプログラムの発動によって、一気に減った。
あと79日。3ヶ月もない。
その79日にしたって、今回みたいに、突然消えてしまうかもしれない。
この温かさが、プログラムの藻屑と消えるなんて、あっていいはずがないんだ。
「エナ……ちょっと、付き合ってほしい場所があるんだ」
俺は立ち上がり、彼女に手を差し出した。
「えっ?またドロドロ相撲するんですか?今の私、パテが乾いてないので、浸水したらマジでショートしちゃいますよ?」
「違うよ。駅前だ。お前に、まだ教えてない、俺たちの宝物があるんだ」
俺の手を握り返すエナの指先は、さっきのドリンクのせいか、それとも恋という名のバグのせいか、驚くほど熱を持っていた。
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『はあ?指輪屋?お兄ちゃん、マジで言ってる?あそこ入った瞬間メンタル試験始まる店なんだけど。空気重すぎて時間止まるし、下手すると呪い持ち帰るからね?』
凛の通信が耳元でうるさいが、俺はシカトしてノイズの彼方へ葬った。
今、俺たちが立っているのは、志木駅南口から徒歩三分の路地裏。
看板のネオンは半分切れていて、歴史というか、もはや店主の執念だけで営業しているような、古い貴金属店の前だ。
「ねえ、カイ様……ここ、マジで入っても大丈夫な場所なんですか?私のセンサーが、昭和の強力な呪いを検知して、システムがビビってるんですけど……」
エナが、俺のシャツの裾をギュッとつかむ。
たしかに彼女は、ホログラムが踊りまくるハイテクな店を見慣れている。
アンドロイドの目には、このホコリをかぶったレトロなショーケースが、ホラー映画のセットのように映るかもしれない。
「いいから来い。志木の男はな、大事な時は、ここで勝負するって決まってんだよ」
俺は勇気を振り絞り、立て付けの悪い引き戸を開けた。チリン、と力ない鈴の音が響く。
奥から出てきた、この街の歴史を全部飲み込んだような生き字引の店主と、一言二言かわす。
俺はポケットから、ドブ板工事のバイトで三ヶ月間、汗と泥にまみれて貯めた封筒を取り出した。
「これ。一番いいやつを、ひとつください」
店主が奥から出してきたのは、2080年の現代では、誰も見向きもしないもの。
天然の、それも小粒で少し曇った、ダイヤモンドのリングだった。
「カイ様?これって、まさか……」
エナが、驚きのあまり絶句している。
現代の人間にとって宝石は、単なる観賞用の石だ。電子機器に必須のレアアースにその座を奪われ、価値は暴落している。
でも、このカッコ悪い輝きこそが、今の俺たちにふさわしい。
俺はエナの前に立ち、少し冷たい、でも柔らかな左手を取った。
「エナ。俺は金もねえし、志木から出られないし、フラれてばかりの情けない男だ。お前が180日目にどうなるか、市役所が何を企んでるか……正直、怖くて足が震えてる」
俺は彼女の薬指に、世界で一番カッコ悪いダイヤモンドを、ゆっくりと滑り込ませた。
サイズは、事前にタケルから盗み出した、彼女の設計図データでバッチリだ。
「でもな、この石は、お前のバグと同じだ。天然で、カッコ悪くて、でもスパコンじゃ作れない、たった一つの輝きなんだ。180日経っても、1,000年経っても…俺の脳みそに刻まれたお前とのログは、この石みたいに誰にも壊させない」
その瞬間、エナの瞳が、赤みがかったローズゴールドに激しく点滅した。
クリスマスツリーの電飾がショートして、全色一斉に輝いたような、デタラメで圧倒的な光。
「これは、契約なんかじゃない。俺からお前への呪いだ。どこへ行っても、俺のことを忘れられないようにするための、鬼のように重たい執念だ。……文句あるか?」
エナは、自分の指に光る石をじっと見つめた後、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の頬には、青白い冷却液が流れ落ちている。
「カイ様、本当に……バカですね。ガチで重すぎますよ、こんなの。てへへっ…私のプロセッサー、今、夏休み最終夜の小学生くらいパニックで暴走中です。でも……いいですよ。その呪い、喜んでインストールさせていただきます」
エナが、俺の胸に、コツンとおでこを預けた。
彼女の体温が、急速に上昇していく。
人格が変わったように、彼女の手が俺の腰に回り、ギュッと強く抱きしめられた。
「あー、もう!カイ様、大好きです!今の私、出力1,000%ですよ!駅ビルを素手で解体して、新婚旅行用の空港作っちゃいそうです!」
「落ち着けエナ!破壊活動はやめろ!」
店内に漂う古い香水の匂いと、エナの甘いオイルの匂い。
この瞬間だけは、誰にも邪魔させない。
俺は、震える手で、彼女の背中を抱きしめ返した。
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市役所の追っ手も、180日のカウントダウンも、駅の発車メロディも。
今の俺には、すべてが冥王星の裏側で起きている出来事のように遠く感じられた。
「ねえ、カイ様。見てください!街灯の下だと、この石、なんだか底に沈んだビー玉みたいに、すっごく健気に光ってますよ!てへっ……」
指輪屋を出た、駅南口の絶妙に寂れた歩道。
エナは左手を高くかざして、何度も指輪の角度を変えては、子供みたいに瞳を輝かせていた。
そのテンションは、人生で初めて推しの限定グッズを引き当てて狂うガチ勢くらい、手が付けられないほど舞い上がっている。
「だな。お前の細い指に、その安物がガチで似合ってるよ。高価なもんじゃないけど、そいつがお前の本物の心のバックアップだと思ってくれ」
俺たちは、肩と肩がぶつかる距離で並んで歩いた。
足元には、この街特有の、ちょっとひび割れたアスファルト。
でも、今の俺には、銀河一豪華なレッドカーペットに見えた。
「カイ様。私、決めました!もし180日目が来て、私の記憶がデリートされる時が来ても。この石の重さだけは、回路の隙間に無理やりねじ込んで、絶対に持っていきます。たとえ、私が私じゃなくなっても……絶対にデリートさせません!」
エナが立ち止まり、俺の正面に回り込んだ。街灯の光が、彼女の潤んだ瞳と、薬指の小さな石を優しく照らす。
「ああ。デリートなんて、俺が絶対させねえよ。明日になったら、タケルと凛と一緒に、北浦和のメインフレームを物理的にぶち壊しに……」
俺の言葉は、エナの細い指先によってさえぎられた。
彼女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
超近い、近すぎる……
甘いオイルの香りがする息もれが、俺の唇をかすめるような、もどかしくて不安定な距離感。
「ねえ、カイ様…。私…今…バックアップを取りたいです。……オフラインでの、物理的リンク……して」
エナの目が、ゆっくりと閉じられる。
俺の心臓は、解答用紙の回収後に名前の書き忘れに気づいた瞬間と同じ、絶望的な鼓動を刻んでいた。
吸い込まれるように、彼女の肩を抱き寄せた。
お互いの鼻先が触れ合い、唇までの距離は、もう最新のナノマシンでも計測不能なほどに縮まる。
エナの甘い放熱の熱気が、俺の理性をドロドロに溶かしていく。
もう唇が、触れる。
あと1秒。いや、コンマ数秒。
俺の鼓膜には、彼女のプロセッサーが奏でる、激しく、そして切ない旋律だけが響いていた。
そして、リンク完了の寸前――
――エナの唇が、ピタリと止まった。
全人類が息を潜めているような、張り詰めた沈黙が流れる。
彼女の黄金色の瞳が、不吉なノイズと共に、激しく点滅し始めた。
「……あ、……れ?」
さっきまで、幸せそうにゆるんでいたエナの表情。その瞳の奥で、高速で何かが書き換えられていくのが見えた。
「おい、エナ?どうした、また電池切れか?今、充電切れるとか、空気読めよ」
俺は、彼女の異変に気づき、抱きしめた腕に力を込めた。それでも、彼女の体温が、急速に失われていく。
「ノイズ、が……カイ、様、視界が、真っ白……何か、知らない、コードが、私の、最深部に、勝手に、入ってっ!」
エナの指先が、ガタガタと震え出す。
薬指で光っていたダイヤが、激しい震えに合わせて、悲痛なSOS信号を出しながら、虚しく揺れた。
その直後。
エナの口から漏れたのは、彼女の声であって、彼女の声ではなかった。
鉄仮面のような市役所のシステムが、直接俺の鼓膜を震わせているような、無慈悲なAI生成音声だった。
『警告:個体識別番号R-180。最終フェーズ、強制帰還、リコールを承認しました。周囲の非登録市民を排除し、速やかに最寄りの市役所出張所へ向かいなさい』
「やめろ!エナ、抵抗しろ!お前には、俺の呪いがかかってるんだろ!この石は、お前の本物のバックアップなんだぞ!」
俺は、彼女の肩をつかんで強く揺さぶった。
エナの黄金の瞳は、急速に光を失っていく。深くて空っぽの黒に、塗りつぶされていくように。
彼女の口元には、さっきまで俺の唇に触れようとしていた時の、甘い吐息の余韻なんて、もうどこにもなかった。
「カイ、様……逃げ……て……。私の、中の、鬼、ヤバい……制御プログラムが……あなたを、ターゲット、に、設定、しちゃい……っ!」
エナの苦しげな声が、途切れる。
ガシャン、という嫌な音がした。
彼女の首筋から、強制帰還用のアンテナが飛び出し、獲物を探すかのように夜空の衛星信号をキャッチする。
そして、彼女の左手が動く。
指輪をはめた、その手が、ゆっくりと持ち上がり、俺の首元へと向けられた。
「個体、R-180。障害物の排除を、開始します」
エナの顔から、一切の感情が消えた。
真夏の炎天下に放置されて、全てが機能が停止したアンドロイドの残骸のような、凍った表情。
指輪のダイヤモンドが、月光を浴びて空っぽに輝く。
さっきまで幸せの味を語り合っていた二人の時間。
最終電車が去った後のホームみたいに、一瞬で冷たく、孤独な闇に包まれた。
「エッ……ナ……ッ!!!」
遠のく意識のなか、俺の叫びは、底の見えない井戸に落ちていく。
返事もなく、ただ夜空に虚しく沈んでいった。




