13th Broadcast Episode:嫉妬という名の過電流(A)
「ダン様、それは豆腐ではなくプリンです。三回連続で同じミスを確認。かなり重症のバグ確です」
「うるさい。見た目がほぼ一緒なんだよ」
スーパーの袋を片手に提げながら言い返すと、ノアは僕の袖を引いた。
僕がつかんでいたプリンをひょいと取り上げ、当然の顔でエコバッグへ戻す。
距離が近い。というより、もう距離はない。レジを出てからも、ずっとその調子だ。
並んで歩いていても、気づくと肩が触れている。信号待ちでは、僕の肘に腕を預けるのが当たり前になっていた。
アンドロイド専用廃棄区画から戻ってきて数日。
僕とノアの間の湿り気は、まだうまく乾いていなかった。あそこで起きたことが、二人を貼り付けたままだ。
他人から見れば、普通の距離感じゃない。でも、その理由を僕たちは、まだちゃんと言葉にできていなかった。
スーパーの自動認証ドアが背後で閉まった。この街の夕方は、惣菜売り場の油の匂いを、湿った風が運んでくる。
僕たちは、駅前のカッパ像が街灯に照らされる姿を眺めながら、アパートへと向かっていた。
「ダン様? ……監視カメラのログに、致命的なキラキラ感を検知。これ、ガチで近寄っちゃいけないタイプの有害物質です」
ノアが、僕の袖をつまんでピタリと足を止めた。その先には、駅前ターミナル区画、東エリアのロータリーがある。
カッパ広場のベンチに、一人の女が突っ伏していた。断続的に跳ねる叫びが、死にかけのセミを思わせる。
「ううぅ、大宮なんて……大宮なんてっ! ホログラムばっかで中身スカスカな街、こっちから願い下げなんだからぁっ!」
その声。その自分勝手な理屈。聞き間違えるはずがない。
元カノ、サエだ。
その名前を認識した途端、胃の奥が嫌なふうに縮んだ。終わったものには、もっと綺麗に終わっていてほしい。
足元には、空になったストロング系のチューハイ缶が転がっている。それを見て、だいたい察した。
「サエ……。雨宮と、選ばれた側の未来を語ってたんじゃなかったの?」
僕が、恐る恐る呼びかけると、サエはガバッと顔を上げた。ゴールドの前髪が乱れ、汗と涙で額にへばりついている。
化粧はボロボロに崩れ、最先端トレンドの服は、乗り換え通路に落ちてる忘れ物くらい無残なことになっている。
「あっ、ダン? ダンじゃん! えっ、本物!? 鈍足で、歩き方が田舎臭い、私のダン……っ!」
サエはふらつきながら立ち上がると、ノーブレーキで僕に突っ込んできた。
酒と、高級な香水の残り香が混ざり合って、鼻が曲がりそうだ。さらに僕の首に腕を回し、わざとらしく胸元を押し当ててくる。
「ねえ、ダンぅ……。やっぱり志木がいい。あんたの安心するダサい匂いが一番だよぉ。ちょっとでいいから……このまま、こうさせて?」
生身の女の体温。触れられた感覚ひとつで、忘れたはずの記憶がぞろりと浮かびかける。
その不快さと懐かしさが、頭の中で最悪の混ざり方をした、その時だった。
「…………プシュゥゥゥゥ!!」
隣にいたノアから、不気味な排気音が漏れた。
「検知。被験者ヒロセ・ダンに対する、旧型感情モデル、サエの物理的接触を確認」
口調は平坦なのに、いつもより遥かに速い。
「リハビリ・ガイドライン第十二条に基づき、これを駆除すべき外来バグと認定、確定します。ダン様、今すぐその物体を可燃ゴミとして処理してください」
「ノッ、ノア!? 目が、目が怖すぎるぞ」
怖い、で済ませていい顔じゃない。
僕が知っているノアの、どのモードにも属していない。その視線は、はっきりと僕へ向いていた。
その瞳は、見たこともない色に沈んでいた。紫に近い。でも、宝石じみた澄み方じゃない。生々しいアザの色だ。
すぐには意味が拾えなかった。ただ、ただの怒りじゃないことは分かる。
「怒っていません」
そう言い切るトーンが、いつもよりずっと低い。
「ただ私のコアが、サエ様の志木にすがり付く情けなさを演算して、異常発熱しています」
そこで初めて、ノアは自分が何を言ったのか確認したらしい。
「あ、今のは……ガチでディスりました」
ノアの表情には、いつもの機械的な余裕がない。
サエを強引に引きはがし、僕との間に割って入った。その動きに、ためらいはなかった。
「サエ様、警告です。ダン様は現在、私のリハビリ・プログラムにおける最優先保護対象です」
その一言で、サエより先に固まったのは僕だった。
最優先保護対象。いつもの業務用語なのに、今のノアの口から出ると、別の意味に聞こえた。
「未認可の肉体接触は、迷惑防止条例……」
そこで一度、ノアは口をつぐんだ。
「……および私の、よく分からないけどムカつく感情に抵触します。今すぐ三メートル下がってください」
「なによぉ……! たかがアンドロイドのくせに。ダンの隣は、十年前から私の特等席なんだからぁ!」
サエも負けじと、反対側からしがみついてきた。右腕に、生身のしつこい執着。左腕に、冷たいのに逃がさないアンドロイドの力。
僕の体はその真ん中で、どっちに引かれているのか自分でも分からなくなる。駅前の視線も、監視カメラも、もう全部面倒だ。
結局、泥酔した女子高生を駅前に放置するわけにもいかず、僕はサエを肩に担いで、六畳一間のアパートへ連れ帰るしかなかった。
ノアは、そのあいだ一度も何も言わなかった。ただ、僕が部屋の鍵を開ける手元と、肩にもたれたサエを、黙って追っていた。
その沈黙が、さっき見た紫色よりよほど怖い。刺されるというより、何かを静かに記録されている感じがする。
玄関の明かりが、三人分の影を狭い廊下に引きのばす。そのうち一つが、少し後ろで止まったまま動かない。
背中の後ろにある圧へ、すぐには目を向けられなかった。
◇ ◇ ◇
「ううぅぅ、気持ち悪っ……。ダン、水!……いいから水……。優しい、ぬるいやつぅ……」
アパートに着くなり、ベッドを占拠したサエが、弱々しく手を伸ばした。僕が動くより先に、ノアがキッチンへ飛ぶ。
「はい、お水です。氷、多めにしておきました。喉以外も、いろいろ冷えると思います」
差し出されたコップには、これでもかというくらい氷が詰まっている。
「……何なの! ダン、あんた、こんな無愛想な機械と毎日くっついてんの? 私の方が、あんたにちょうどいい温度、知ってるのに」
その言い方に、僕は返事ができなかった。違う、と口から出かかっても、続きが出てこない。
サエが上体を起こし、わざとらしく肩から服をずらした。
「ねえ……覚えてる? 中学の時、川にチャリごと突っ込んで、二人で泥だらけになったじゃん」
酔った目が、こっちを向いた。乱れたハニーゴールドの髪をかき上げ、小指で唇のリップをねっとりと塗り拡げる。
「あの時の泥の匂いも、私の体温も、この子には絶対に持てないんだよ?」
その一言が、この空間に見えない線を引いたのが分かった。胃のあたりが、急に重くなる。
サエの主張に、ノアの動きが止まった。
「……」
細い背中が、小さく縮んで見える。部屋の空気が、どんどん重くなっていく。
ノアはゆっくり振り返った。瞳の奥の深みで、紫のノイズが細かく走っている。
「理解できません。私には、泥の匂いの記憶がありません。一緒にずぶ濡れになった過去もないです……」
そして、短い沈黙が流れた。
「でも……」
ノアは包丁を握り直すと、凄まじい速度でキャベツを刻み始めた。
トントントントン!
その音は、狭い部屋に異様な密度で跳ね返る。
「先日、ダン様が私のために流してくれた涙の塩分濃度は、私のセンサーに消えない記録として残っています」
ノアの声は、聞いたことがないほど震えている。
「過去の泥より、今の涙の方がガチなんです」
包丁が、ぴたりと止まった。
「女子力を語るなら、せめて使い捨てじゃないものを持ってきてください」
それは、もうプログラムの演算結果とは思えなかった。取りつくろえない本音。
ノアが、静かに包丁をまな板に置いた。カトン、と乾いた音が響いた直後。
黒い影がサエに覆いかぶさっていた。
「え……?」
ノアの指先が、サエの華奢な手首を正確に捕らえていた。速すぎて、息を飲む隙すらない。
機械の持つ圧倒的なパワー。サエの腕を引き、強引に僕から遠ざける。
「今のダン様を作ったのは、私です。過去の遺物に、上書きなんてさせません」
「……だったら、何なのよ!」
サエの表情から、酔いが一瞬で吹き飛んだ。ポニーテールを揺らして、力任せに手首を振り払う。
次の瞬間――
バチンッ!!
六畳間に、強烈な金属打撃音が弾け飛んだ。
サエの平手打ちが、ノアの左頬に真っすぐに叩き込まれていた。人間の皮膚と、最新型アンドロイドの外装が衝突した音。
「痛っ……硬すぎ、あんた!」
サエは赤くなった手を擦りながら、般若の顔でにらみつけた。
「ただのプログラムの分際で、調子に乗んじゃないよ!」
ノアは、一瞬もサエから目を逸らさない。その無反応が、サエの導火線にさらに火をつける。
「ダンが好きなのは人間! 傷つくのが怖くて機械に逃げてるだけ! 偽物のくせに、本物ぶってんじゃないわよ!!」
刃物より鋭い言葉だった。生身の毒が、部屋を凍りつかせる。
体の内側が、ぎゅっと締め付けられた。僕の弱さを、僕の逃げを、サエは一番分かっていて、容赦なくえぐってくる。
ただ、本当にダメージを受けたのは僕じゃなかった。
ギギ……ギギギ……ッ。
ノアの首の関節から、異様な摩擦音が漏れ始めた。内部のモーターが、過負荷で異常加熱している。
「ニセ、モノ……?」
その声から、いつもの平坦さが消えた。耳奥を揺らすような低い重低音。
「演算……制御……限界値をオーバーロード……」
瞳の紫色が、もはや光の束になって暴れている。処理しきれない何かが、リミッターを内部から焼き切っていく。
ノアが一歩、踏み込んだ。
ドスン、と床が鳴る。アンドロイドの質量が、暴力的な圧となってサエに迫る。
その手が、サエの首元へ向かって伸びる。国家規格の機械が持つ、排除の動作だった。
「ノア、やめろ!」
僕の叫びは、もう届かない。
二人の距離は、ゼロ。
手は、サエの喉元手前で、ぴたりと止まった。全身から、ジュッ、と部品が焼き切れる熱気が立ち上っている。
サエは逃げなかった。目の前に迫った恐怖に、カタカタと震えている。それでも、絶対に目を逸らさない。
涙目になりながら、意地と怒りを全開にして、その鼻先でにらみ返した。
「ほら、やってみなさいよ! 壊してみなよ、このガラクタ!!」
「……排斥対象と認定。これより――」
ノアの瞳から、完全にハイライトの光が消えた。機械の過熱音と、人間の荒い息遣いで、空気は極限まで張り詰めている。
僕の声も、僕の存在も、忘れさられていた。
もう二人の間には、わずかな余白もなかった。




