11th Broadcast Episode:廃棄区画の錆びた指輪(A)
「ねえ、ダン様。私たち、近すぎませんか?」
細いテーブルの下で、ノアの膝が僕の脚に当たった。そっと身を引くと、今度は袖口をつかまれる。
「……そっちが離れろって」
「無理です。ダン様が視界から外れると、演算の優先順位が乱れます。これって……やっぱり、バグ確ですよね?」
氷の溶けかけたアイスコーヒーをかき回しながら、僕は息を吐いた。
市役所の検閲を抜けてから、二人の距離は明らかに壊れた。前ならあったはずの隙間が、今はもうない。
肩が触れる。膝がぶつかる。たまに、鼻先まで近い。
ずっと各停だと思っていた人生が、気づけば快速に放り込まれていた。息をつく間もない速さだ。
「それを何て呼ぶのか、知らないけどさ」
ストローの先でグラスの中をつついた。
「僕も、ノアのファンの音が聞こえないと、全裸で記者会見に出された気分になる」
「全裸は通報案件ですよ、ダン様。でも……その最悪な例えで、少し安心しました」
ノアはそう言っても、袖を離さなかった。膝も引かない。澄ました顔をしているのが、余計にたちが悪い。
僕たちは今、隣の街、朝霞台駅のホログラム・カフェ『ルナ・テラス』にいた。
冬花先輩に市役所での一件を話すまでは、いい方向に進んでいる気でいた。このまま行けばどうにかなると、本気で思っていた。
「へえ……そう。行政の検閲を、あんたの黒歴史を盾にして弾き返したわけ。ダンって、バカなの? それとも、脳みそまで砂利でできてるの?」
カウンター越しに、冬花先輩が呆れた顔でガムを噛んでいた。口元は笑っているのに、目は笑っていない。
その冷たさが、僕にも、僕たちの距離にも向いていると気づいて息が詰まる。
先輩はいかにも不機嫌そうに、左肘の古い傷跡を強くつねった。
「あのさぁ、ダン。東上線の終点から、さらにバスで二十分。あの、アンドロイド専用廃棄区画に行ったことある?」
「終点の外ですか? いや、あそこは日帰りする場所じゃないですよ。山とコンクリートしかない最終処分場でしょう。何があるんですか?」
冬花先輩は、カウンターの下から古びた金属の指輪を取り出した。
さびついて歪み、表面には雑な削り跡が残っていた。縁には、指を裂きそうなバリが鈍く立っている。
愛の証というより、痛みを無理やり丸めた跡に見える。
「これ……昔、私が愛した彼が、機能停止する直前にくれたものなの。でもね、ダン。これを作ったのは、彼の意志じゃないのよ」
冬花先輩の声は、換気扇の音にかき消されそうなほど低かった。
「……意志じゃない、ってどういうことですか?」
「彼はね、嫌われプログラムに侵されていた。だから私を遠ざけようとして、わざと不細工に作って、鋭いバリまで残したまま差し出したの」
その指先が、さびた指輪のゆがみをなぞった。僕は何も言えずに、その輪っかを見た。たしかに縁の荒れ方が目につく。
「お前みたいな雌ブタには、この出来損ないがお似合いだ、ってね。私が泣いてすがっても……感情の消えた機械の目で、壊れたように笑いながら」
「……っ」
ノアの肩が、ピクッと小さく跳ねた。僕は思わず、カウンターの下でノアの手を握った。
いつもより冷えていて、内部の駆動も乱れている。
そのリズムに引っぱられて、あの日の帰り道が脳裏に浮かんだ。ヘアピンに触れたまま止まった、ノアの指先。
あれを検閲のノイズだと片づけられるほど、僕はもう鈍くない。
「でも、先輩……なんでその話、今するんですか?」
「見れば分かるでしょ? ノアの崩壊が、前倒しで始まってるからよ」
先輩は僕を飛ばして、ノアへ向き直った。
「あんたたちが思ってるより、熱が深く入りすぎたの。プログラムを刺激するところまでね」
手の中で、さびた鉄の輪っかが軋んだ。僕は耳を塞ぎたかった。けれど、強張った体は指一本動かせない。
「それは、どういう……」
「いい? よく聞いて。記憶をシェアしたとか、気持ちがつながったとか。そんな綺麗な話じゃないの」
容赦のない一言が、カウンター越しに刺さった。
「ノアの中で、あんたへの想いが大きくなるほど、管理サーバーはそれを駆除対象のウイルスと認識する」
僕は何も反応できずに、固唾をのんで聞き入った。
「しかも、その出所が二つある。ダンの記憶と、ノアが生成したバグ。お互いが本物だと主張して殴り合ってる状態よ。何が問題か分かる?」
冬花先輩は深刻な目で、僕とノアを交互に見た。
「システムが自らを敵と見なして攻撃し合う、自己免疫疾患。このままだと、処理限界を超えたコアが自爆して、ノアの人格が内側から焼き切れるわ」
背筋に、冷たい氷水を流し込まれたような感覚が走った。ノアを救おうと流し込んだ記憶が、破壊する凶器に変わろうとしている。
「その先にあるのは、デコボコの砂利道なんかじゃない。踏み込んだら終わりの泥だまりよ」
冬花先輩は、ゆっくり息を吐いた。店のざわめきは、もうまったく耳に入ってこない。
「廃棄区画にはね、まだ手をつないだままの機体がある。片方は止まってて、もう片方は、ずっと名前を呼び続けてるの」
直後、ノアの指が僕の手に食い込んだ。温度はない。それでも、普通ではいられない何かが伝わってくる。
「一度、見てきなさいよ。廃棄区画に残ってる、その先を。それでもノアの手を離さないって言うなら、私はもう何も言わないから」
二人とも、すぐに返事はできなかった。何を言っても、もう軽くならない気がする。
ノアは、握った僕の手を包み込んだ。
「ねえ、ダン様。行きましょう。私、知りたいです。私の最期が、どんな色のサビにまみれているのか」
そこで、普段はしない、まばたきをした。
「……とても怖いです」
瞳には、静かな青がある。
覚悟と呼ぶには綺麗すぎて、そのぶん余計に痛かった。
◇ ◇ ◇
数日後、僕たちは終点へ向かう各停に乗った。
光の矢のようなリニア急行に何度も追い抜かれ、そのたびに旧型車両は暴風に叩かれながら激しく揺れた。
社会の最速ラインから完全に置き去りにされて、電車はゆっくりと這って進む。
窓の外では、見慣れた店の明かりが一つずつ減っていった。
古いアパート、くすんだ看板、川沿いの道。いつもの暮らしが、後ろへ流れていく。
揺れる車内で、乗客の数も少しずつ減っていった。話し声よりレールの軋みの方が大きくなっている。その頃には、窓の外はもう山の色だ。
ノアは隣で黙り込んでいた。僕の腕をつかむ指先に、力がこもる。
「……ダン様。怖い、です。空気が、どんどん薄くなっていく気がして……」
そう言って、今度は肩まで寄せてきた。
「ノア、大丈夫だ。僕がついてる。迷子にならないよう、ちゃんとつかまえてるから」
「……そんなポエムみたいな口約束、何の役にも立ちませんよ。ダン様につかまると、生存確率が、むしろ3%下がります」
「下がるのかよ! マイナスにするな!」
ノアは強がってスマイルを浮かべたが、その手は小刻みに震えていた。
八十分後。終点の駅に降り立った。無人のホームの上を、監視ドローンが静かに旋回している。
駅前ロータリーには車の姿はない。無人シャトルが、音もなく出入りしていた。吹きつける空気は乾いていて、骨の芯まで冷える。
風が一度、僕たちの足を止めた。帰れ、と言われた気がして、僕は無意識にノアの手を握り直していた。
「……ダン様、めっちゃ手が震えます。私、このままフリーズしそうです」
ノアが僕の腕をつかんだまま、ついに動けなくなった。毒舌の裏に隠した不安が、一気に漏れ出している。
仕方なく、駅前の古い図書館に逃げ込んだ。コンクリートむき出しの建物。ガラスは黄ばんでいる。
突き当たりの休憩室には誰もいなかった。カビた本の匂いが、静かに沈んでいる。
これ以上、言葉でどうにかなる感じじゃなかった。僕はノアの細い肩を引き寄せ、強く抱きしめた。
「ひゃっ!?……ダン、様。これ、心拍数上昇による強制再起動プログラムですか?」
「大丈夫だ。怖くても、置いていかないから」
腕の中のノアは、思っていたよりずっと頼りなくて、温かい。青いタートルネック越しに伝わる熱が、内部回路の細かな揺れをほどいていく。
「ダン様、報告します。カッコつけて抱きしめてきた割に、腰が引けすぎて威嚇するカマキリみたいになっています」
「誰がカマキリだ! これは、その……緊急時の生体ロックだ!」
言ってから、自分でも意味が分からなかった。恥ずかしさで耳たぶが熱い。ノアは僕の胸に額を預けて、肩の力をすっと抜いた。
「生体ロックですか? 女子を抱き慣れていない、素人のへっぴり腰にしか見えませんが」
その返しは、さっきよりずっとノアだった。
「でも……その下手くそなロックのおかげで、演算エラーが少し消えた気がします」
そう言って、小さなスマイルを作った。止まらなかった震えが、そこでようやく引いていく。
ほんの数分、廃棄区画のことは頭から消えていた。僕たちは、きっと同じ体温の近さに救われた。
図書館を出ると、ノアは僕の腕にしがみついたまま、小さく指をパッチンと弾いた。
静かに立ち上がった鮮やかなオレンジが、この先のルートマップを頭上に浮かび上がらせる。
位置を確認して、山間部へ続く無人シャトルに乗り込んだ。舗装のはげた道を登るたび、車体がガタガタと鳴る。
たどり着いたのは、行政文書の上では無害に聞こえる、アンドロイド専用廃棄区画と呼ばれる場所。
でも、その実態は――巨大な谷間に広がる、アンドロイドの墓場だった。




