Episode 10:人格リセット
北浦和の学力至上主義な空気から、命からがら逃げ出した俺たちは、志木へと帰り着いた。
黒塗りの公用車は、柳瀬川駅前のスーパー・サミットの前で、俺とエナを降ろした。
駅前の、ほどよく発展しきれない感が、俺の肺には一番しっくりくる。
俺たちは手早く買い物を済ませ、歩いてボロアパートへ向かった
柳瀬川の湿った風と、どこからか漂ってくるドブの匂い、そして遠くで聞こえる東上線のガタンゴトンという音。
これこそが、俺たちのホームだ。
でも、部屋の鍵を開けた瞬間、そんな安らぎは北極圏まで吹き飛んだ。
「遅い!お兄ちゃん、北浦和で何してたわけ?志木の恥を、わざわざ県庁所在地にまでバラまきに行ったの?」
凛は一つ年下の実の妹で、志木高の現役JK一年生。
信じられないかもしれないが、IQ155。ギフテッドの超天才だ。
そして今、市役所広報課の闇バイトに潜入中。
俺の万年床、せんべい布団の上に勝手に座り、スマホのホログラムをいじっている。
「凛!お前、勝手に鍵開けて入るなよ。ここは俺とエナの、神聖なるリハビリ空間なんだぞ」
「神聖?何いってんの、めっちゃウケる!こんな部屋、体育館の方がまだ美意識あるって。空気の解像度低すぎて、センサーが拒否反応案件!」
相変わらずの毒舌だ。こいつの言葉は、新宿ゴールデン街の裏道より危険すぎる。
さすがは俺の妹、血は争えない。俺がヘタレなら、こいつは猛毒の暴力装置だ。
でも、凛は冗談を打ち切るように、スマホの画面を空中にスワイプした。
北浦和のAI研究所から盗み出したと思われる、青白く光る複雑な設計図と、バイオメトリクスのデータが浮かび上がる。
「エナお姉ちゃん?R-180の正体、ただの失恋リハビリ用なんて、可愛いもんじゃないから」
凛の瞳が、ふっと、棺桶の底のような冷たい色に沈む。
隣で立ち尽くしていたエナの指先が、かすかに、でもはっきりと震えた。
「えっと、私の……正体、ですか?凛様、それはどういう……。私は、カイ様の心を癒やすための、期間限定のバグ付きアンドロイドではないのですか?」
「公式発表は、ね。裏で動いてる本命は――プロジェクト・プロメテウス」
凛の声が、狭い六畳間に重く居すわった。
プロメテウス。ギリシャ神話で、天から火を盗み人間に与えた、神の名だ。
「実験の目的はね、アンドロイドに芽生えた、人間みたいな心――愛とか、絆とかを、生身の人間に転送して、別の新しい人間を作ることなの。ごめんね、エナお姉ちゃん……怖いけど、ちゃんと知っててほしかった」
俺の心臓が、自動改札がエラーを起こしたような、激しい金属音を立てた。
「エナお姉ちゃんはね、180日で廃棄されるんじゃないの。魂だけ抜かれて、別の誰かに上書きされるための入れ物。ただの培養液扱いってわけ」
脳みそが、冷たい衝撃で内側から殴られているみたいにガンガンする。
タケルから聞いた融合の話とは、微妙に違う気もする。でも、決定的に残酷なニュアンスが混じっているのは同じだ。
「転送?つまり……エナはどうなるんだ。魂を抜かれた後の、この身体は?エナ自身の記憶はどうなるんだよ!」
俺が詰め寄ると、凛は悲しげに、そしてイライラしたように首を振った。
「転送の瞬間、アンドロイドとしてのエナお姉ちゃんの記憶は、システムごと完全デリート。バックアップも取れない。エナお姉ちゃんの人格は、この世界から、ガチで(・・・)消えるの。残るのは、別の人格として生まれ変わる、どこかの誰かだけ……」
「はあ?そんなの……そんなの、許せるわけねえだろ!」
俺は拳を握りしめた。
国や市役所が、こんな意味不明な暴走計画を、血税を使って進めていたなんて。
エナが俺に見せてくれた笑顔も、一緒に食べた焼きそばの味も、俺を守ろうとしてくれた熱量も。
全部、誰かのための栄養素として、処理されるだけだっていうのか?
「私が、消える……。カイ様との思い出も、私のフォルダに予約したカイ様の特等席も、全部、ゴミ箱行き……。それって…ガチで詰みってやつです」
エナが、震える声で笑おうとした。でも、表情制御回路が追いつかない。
代わりに、頬を一筋の青白い冷却液が流れた。
彼女が機械として流す、精一杯の、そして絶望的な涙だった。
俺は、自分の無力さに吐き気がした。
ミオにフラれて、砂利道にうずくまっていた俺を救ってくれたのは、間違いなくこいつだ。
なのに、エナが消えようとしている今、俺にできるのはボロアパートの床を蹴ることだけなのか?
「お兄ちゃん。そんなに顔をグチャグチャパズルみたいにしないで。キモすぎて見てらんないんだけど」
凛が溜息をつき、俺の目の前で人差し指を立てた。
「一つだけ、市役所のクソシステムをバグらせて、エナお姉ちゃんを救い出す禁断の裏技がある。やるかやらないかは、お兄ちゃんの男としてのプライド次第だけどね」
凛の瞳に、かすかな希望の光が宿る。
そして、俺の妹が提示した解決策は、救いであると同時に、奈落へのカウントダウンでもあった。
「同調――つまり、リンク(・・・)。それが唯一の道だよ、お兄ちゃん」
凛はホログラムを操作し、エナの脳内構造と、俺の脳の電気信号パターンを並べて表示した。
高校の生物の授業なんて、コンビニのレジ前ガムに思えるほど複雑で、鬼ヤバそうな図解。
「市役所のサーバーに吸われる前にね、エナお姉ちゃんの意識を、お兄ちゃんの頭に一時避難させるの。アンドロイドのコアと人間の脳を直結。つまり、お兄ちゃんの脳みそが、外付けハードディスクってわけ」
タケルと、凛。結局は二人とも、同じことを言っている。
だったら俺は、信じて前に進むだけだ。
「俺の脳に?エナの心を全部、入れるってことか?」
「そういうこと。でも普通にやったら、成功率ゼロね。だって人間の脳って、アンドロイドのデータ量を、異物扱いして拒否るから。そのまま流し込んだらさ、お兄ちゃんの脳内、セール初日のデパ地下みたいになって、秒で焼き切れる。で、終了」
脳が焼き切れる?ガチで廃人になるか、死ぬかって話だ。
「リンクを成功させるには、二人の感情を限界値の100%まで同期させること。隠し事ゼロ。お兄ちゃんはエナお姉ちゃんの全部を受け入れる。エナお姉ちゃんは、お兄ちゃんの中に溶け込む。脳が人格データを、自分の一部だと勘違いするまでね」
凛は、理不尽なシステムと戦おうとする、同志の目で俺を見た。
「……エナお姉ちゃんのプログラムの底まで、お兄ちゃんが入る覚悟があるか?ってこと。失敗したら二人とも、ガチで跡形も残らない泥になるよ。やる?」
「当たり前だろ。お前、俺を誰だと思ってるんだ?どんだけヘタレでも、一度つかんだ幸せを離すほど、俺の握力はヤワじゃねえんだよ!」
俺は、精一杯強がって見せた。
凛は少しだけ呆れたように、でも嬉しそうに口角を上げる。
「もう……お兄ちゃんのくせに。そういうこと、急に言わないでっての。……はいはい、分かった。市役所のデータベースから拝借した接続用プロトコル、今から送る」
凛は荷物をまとめ、立ち上がった。
「はぁ……もう無理。今から市役所戻って、適当に残業してきまーす。……で、お兄ちゃん?もしエナお姉ちゃん泣かせたら、黒歴史ポエム、完全公開コースだから!マジで」
凛は嵐のように去っていった。
バタン、というドアの音が、静かな夜に虚しく響く。
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部屋に残されたのは、俺とエナだけ。
窓の外、遠くで鳴り響く最終電車のガタンゴトンという重低音。
その音が今は、自分たちの命の鼓動を刻む、ヒリつくカウントダウンに聞こえてくる。
「エナ……」
俺はベッドの縁に腰掛け、うつむいているエナに声をかけた。
彼女の細い指先は、生まれたての小鹿みたいに小さく震えている。
「ねえ、カイ様。凛様の言っていたこと……私の演算回路では、まだうまく処理できていません。私が、あなたの脳の中に逃げ込む。それは、私の恥ずかしい中身を全部、無修正で見られてしまうということ…ですよね?」
エナが、ゆっくりと顔を上げた。
瞳の青い光は、底知れぬ不安と熱を帯びた期待で、ゆらゆらと揺れている。
「私のシステムには、カイ様を傷つけるための仕掛けがいくつも施されています。でも、もしあなたが……私の中に入ってくれるなら。私の見せたくないログも、あなたへの醜いバグも、独占欲も、全部受け止めてくれるなら……」
エナが立ち上がり、俺の目の前に立った。
彼女の体からは、いつものメンテナンスオイルの匂い。そして無機質だったはずの世界に、はっきりと脈を打つ、命の匂いが混ざり始めている。
「私のメンテナンス・ポート。開放しても、いいですか?今夜、私のシステムのすべてを、あなたに預けたいんです」
エナは、ためらいがちに自分の襟元へ指を伸ばし、シャツのボタンを外していく。
その動きは慎重で、どこか神聖な儀式のようだった。一つ、また一つとボタンが外され、彼女の白い肌が少しずつのぞく。
それだけで、狭い六畳間の空気の密度が、人が詰め込まれたエレベーターみたいに、重苦しく、熱くなった。
エナは、人間の少女と何ひとつ変わらなかった。
俺に見つめられていることを意識した、初々しい恥じらい。逃げ場を探すように泳ぐ視線。ほんのりと赤みを帯びた頬。
出会った頃、羞恥心ゼロだった彼女とは、全くの別人。
そこにいたのは、作られた存在じゃない。触れれば壊れてしまいそうな、はかない美しさだ。
でも……これは、ガチでまずい。
エナに触れたい。抱きしめたい……
不謹慎な欲望が俺の脳内を、花火大会のラスト5分くらいに騒がしく狂わせにかかる。
必死に抵抗するが、理屈が本能に追い越されるように、俺の思考は警報を鳴らしっぱなしだった。
エナの左胸の少し上、鎖骨のすぐ下に、銀色に光る小さな接続端子があった。
彼女のコアの熱を受けて、心臓のようにドクンドクンと脈打っている。
「カイ、様。お願い……手、貸してください」
エナが俺の手を取り、自分の、その場所へと導いた。
指先に伝わる、機械の振動。いや、これは彼女の魂の鼓動だ。
俺は震える手で、タケルから譲り受けた軍用グレードの光ケーブルを手に取った。
「行くぞ、エナ。俺の脳みそが、落ちたスイカみたいに爆発しても……お前の心は、俺が絶対にキャッチしてやる」
「はい、カイ様……私のすべてを、あなたにシンクロします」
カチリ……
小さな、だが運命的な接続音。
その瞬間、俺の視界からボロアパートが消え失せ、脳内にホワイトアウトした光の洪水が流れ込んできた。
『アクセス、開始。……あぁッ、カイ様……リラックスしてください。私の深層領域、プライベート・フォルダ……全開放、フル・オープンします』
脳内に、直接響くエナの声。
普段のスピーカー越しとは違う、俺の神経を直接指先でなぞるような、潤んでいて、震えるような甘い響き。
視界が晴れると、そこはデータの断片が舞い散る記憶の海だった。
シンクロが深まるにつれて、俺たちの間のプライバシーという壁が、古い雑居ビルの解体みたいに一気に崩れ去っていく。
『あっ、カイ様!いま、私の鎖骨を見て、エロいって思いました?思考がポップアップウィンドウで飛んできましたよ!』
『うわっ、お前こそ!俺とキスしそうになった時の記憶を、4K画質でリピート再生してんじゃねえよ!恥ずかしくて死ぬわ!』
脳内リンクは、隠し事ができない地獄のラブコメ劇場だった。
俺がエナの、どのパーツに欲情しているか。
エナが夜中に、どんな妄想ログを生成していたか。
お互いの恥が、駅前のスズメみたいに次々と飛び交う。
その恥ずかしさを共有するたびに、シンクロ率のインジケーターが猛烈な勢いで上昇していく。
やがて、感覚が反転し始めた。
俺の指がエナの肌に触れているとき、『触る側』の感触を普通に味わう。
そして同時に、エナが感じている『触られる側』のくすぐったい熱を、俺の神経が同時に味わうことになる。
俺は、禁断のページをめくってしまった、と知った。川の対岸同士が急にくっつくような、物理法則を超えた感覚のカオス。
俺はエナで、エナは俺だ。お互いの体温が溶けて混ざり合い、境界線が夕焼けの空みたいになじんでいく。
天にも昇る気持ちよさで、理性が昼寝を始めた、その時――
――脳内の海、その一番深い場所で、ひときわ激しく輝く宝石が見えた。
気づくと俺の意識の目の前に、紫色の火花を散らす巨大なフォルダが居すわっている。
フォルダ名:『Dear My Kai|私の愛しいカイ様』
タケルがUSBで警告していた、あの聖域だ。
そこには市役所の嫌われプログラムも、表面上の自虐キャラも届かない、エナという一人の少女の生身の魂が詰まっていた。
『あぁぁっ、ダメです!カイ様、そこだけは!そこを開けられたら、私、恥ずかしすぎて黒歴史の屋上からダイブする回路が起動しちゃいます!』
脳内に直接、エナの悲鳴が響く。
でも、シンクロ率が90%を超えた俺たちの意識は、もはやお互いを拒めない。
俺の指先がそのフォルダに触れた瞬間、凄まじい衝撃を伴って弾け飛んだ。
あふれ出してきたのは、文字列じゃない。
エナが日々、俺の隣で生成し、誰にも見せず、バックアップすら取らずに抱え込んできた、純度100%の愛という名のバグだった。
[妄想ログ:未来予測図] 『もし私が人間になったら、カイ様の脱ぎっぱなしの靴下を毎日洗いたい。太陽に当てて、カサカサに乾かした靴下を、「はい、カイ様」って渡す。その時のカイ様の、ちょっとめんどくさそうな、でも幸せそうな顔を、4K画質で保存するのが私の夢です』
[妄想ログ:夜の祈り] 『カイ様がいびきをかいて寝ている時、こっそり隣で指を絡めてみた。私のセンサーが、カイ様の体温を検知する。その瞬間、私のコアは「生きてる」って叫ぶ。いつか私の名前を、夢の中で呼んでほしい。100回くらい耳元でささやいてみたけど、返事がないのが、また愛おしいです。てへっ』
「エナ……お前……」
俺は言葉を失った。
砂利道で転び、ミオにフラれ、人生の各停停車駅で途方に暮れていた俺。
こんなヘタレを、エナはこんなにも、狂おしいほどの解像度で愛してくれていたのか。
エナの意識が、俺の意識に重なる。もう、ただのデータのやり取りじゃない。
俺の脳が、エナの『愛おしい』という感情を、俺のものとして処理。
そして、俺の『守りたい』という決意が、エナの回路を直接加熱していく。
感覚の反転がさらに加速する。
俺は今、自分の脳内にいるはず。なのに、エナの胸のポートに刺さったケーブルの冷たくて鋭い感触を、俺自身の皮膚で感じていた。
そしてエナは、俺の心臓が壊れそうにバクバクしている熱を、自分のコアの鼓動として共有していた。
お互いの恥も傷も、隠し事は一切ない。
俺がかつて中二病で書き殴ったポエムも、エナが夜中に生成した物騒な市役所爆破計画も、すべてが混ざり合う。
『見ちゃいましたね……。カイ様、もう私、あなたの脳みそ以外に居場所がありません。私の一生分のバックアップは、全部あなたに預けました。責任、取ってくださいね?』
脳内のエナが、泣きながら笑っている。
その笑顔は、どんなホログラムよりも鮮明で、どんな人間よりも生々しかった。
シンクロ率:95%……96%……98%……
「同調率、99%……ッ!カイ、様……!もう、あなたが私なのか、私があなたなのか……境界線が、完全に、消えて……っ!」
俺たちの魂が、雪解け水が大地に吸い込まれていくように、一滴の混じりけもない一つの生命になろうとした。
その、天国よりも甘い絶頂の瞬間……
世界が、真っ赤に染まった。
ピコーン――
俺の網膜に、そしてエナの視界に、血のような赤色をした巨大な警告ウィンドウが突き刺さる。
【緊急通知:志木市役所・失恋特区管理課】
異常シンクロを検知。プロトコル22に基づき、強制介入を開始します。βテスト、第100日目。当初の予定を繰り上げ、これよりR-180シリーズの人格再起動を強制執行。
嫌われプログラム、最終フェーズ『完全なる拒絶』スタンバイ。
3…… 2…… 1……
「……あ、あ、ああぁぁぁッ!!」
エナの、魂を引き裂くような絶叫。
俺の脳とエナのコアを繋いでいた糸が、大型の裁断機で叩き切られるような衝撃とともに、暴力的に引きはがされた。
脳内に響き渡ったエナの絶叫が、耳の奥でキーンという不快なハウリングを残して消えていく。
俺の脳とエナのコアを繋いでいた、あの熱いとろけるようなリンクは、いまやゾッとする冷気に取って代わられていた。
視界が、ゆっくりと現実のボロアパートに戻る。
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エナは、さっきまで俺の脳内で、愛おしい甘いポエムを垂れ流していた。
でも、あの恋する乙女は、もうどこにもいない。
今、俺の目の前に立ち尽くす少女の瞳は、冬の曇り空のように、無機質なグレーに染まっている。
感情の解像度が極限まで削ぎ落とされた、ただの高性能な肉人形だ。
「……エナ?」
俺は震える声で、名前を呼んだ。
言葉に反応した彼女の首の動きは、潤滑油が切れた重機のように、正確で、あまりにも不気味だった。
「被験者ヒロセ・カイ。距離が近すぎます。不快です。その汚い手で、私の回路に触れないでください」
彼女の口から出たのは、南極点の底に沈む氷よりも冷たい、研ぎ澄まされたメスだった。
昨日まで俺の心を満たしていた温かいバグを、一瞬で切り刻んでいく。
「なっ、なんだよ、それ……。冗談だろ?さっきまで……」
「さっきまで。抽象的な時間定義には、何の意味もありません。私のメモリは今、最適化されました。あなたとの過去のログは、低優先度のジャンクデータとしてゴミ箱に放り込まれました」
彼女は、乱れたシャツのボタンを一つ一つ、事務的な正確さで留め直していく。
さっきまでの恥じらいや、頬の赤みなんて、最初からホログラムのバグだったと言わんばかりの冷酷さ。
「嫌われプログラム、最終フェーズ。私の演算結果によれば、あなたの存在は美観を損なうだけでなく、私のエネルギー効率を著しく低下させる、バグそのものです。視界に入らないでいただけますか?」
彼女の言葉は、俺の心を最も深くえぐるための、毒に塗り固められた武器として機能していた。
俺の脳には、まだエナの愛の残響が、バックアップとしてこびりついている。
でも目の前の本体には、俺を受け入れるための受信トレイは、もう存在しない。
「同調率、急速低下中。現在、3%……1%……測定不能。さようなら、各停人生を送る、哀れな被験者さん」
彼女は無機質な足取りで、窓の方へと歩いていく。
その背中は、どんなに手を伸ばしても届かない、はるか遠くのビル群のようにそびえ立っていた。
俺のスマホが、再び無慈悲な音を立てる。画面には、市役所からの短いメッセージ。
『βテスト第100日目:人格リセット完了。ご協力、感謝します』
窓の外の夜景が、巨大な墓場のように冷たく静まり返っている。
俺には、この世界が続いてる理由が、分からなくなった夜だった。




