014-■. 瑠璃唐草の陰にて
四月――それは、万事において始まりの季節である。
「――今送付したものが、今期分の履歴書を格納したフォルダのパスとなります。期間内応募総数三万二千四百六件のうち、人事部の選考による書類審査通過者数は二百十八件でした」
「ああ、ご苦労さま。夕下くんは相変わらず仕事が的確で助かるよ」
株式会社serp'、社長室。
副社長兼社長室長の夕下が銀色のタブレットをスッと撫でると、間もなくして白長のノートパソコンに通知のポップアップが表示される。
「いやはや……便利な世の中になったものだね。我々の時代は、紙の履歴書に証明写真を貼り付けて送るのが普通だったというのに」
私自身は書いたことがないけれど。
冗談めかして呟きながら、白長がワイヤレスマウスをカチカチと操作する。
間もなく開かれたフォルダの中はさらなる階層構造になっており、各フォルダに二十人ずつ履歴書データが配置されているようだった。
「二次選考はいつ?」
「来月下旬の日曜で調整中です」
「ふうん。セオリー通りであれば遅すぎるくらいだが……今回は慎重に吟味したほうが、君としては『やりやすい』んだろう? それで構わないよ」
「ご高配にあずかり、恐れ入ります」
しゃんと伸びた背筋をそのままに一礼する夕下の流麗な動作は、ある種で人間味のない機械のような雰囲気さえ感じさせる。
一切の感情や私情を切り離し、的確で残酷な判断を無表情に下す仕事人。
古狸共からは「愛想がない」と嫌厭され、旧体制においてはスタッフ部門の片隅でコピー機と向き合い続けていた彼女だが――そんな彼女を再編前の一年で腹心へと育て上げた人物こそ、他でもない白長本人だ。
「……ときに、社長。少しお耳に入れておきたいお話が」
だからこそ、白長は夕下に絶大な信頼を置いており……夕下もまた、この手のロジカルな人材としては少し珍しく、「範囲外の仕事」にまで熱心だった。
「おや、なんだい?」
「消息筋からの情報によると――週明け、御鍵瑠璃が帰国するようです」
「……いいね、それは実に興味深い」
白長の手がふっと止まり、パソコンの画面から視線が離れる。
その口元は、先ほどまでの薄い微笑とは僅かに異なる形の弧を描いていた。
「一時帰国って訳じゃないのかい? 彼、まだあっちの学校に通っているだろう」
「卒業は来年の六月ですが、既に日本の芸能高校への編入手続きを済ませているとのことで。既にあちらのアパートメントも引き払っているようです」
「へえ……せっかくあと一年だっていうのに、思い切ったものだ」
白長の脳裏に浮かぶのは、かつて幼い彼と対面した際の不安げな表情。
……まあ、あれは不安や緊張というより、警戒する気持ちのほうが強かったのかもしれないけれど。
「さて……行き先は根古又か、はたまた尾崎か」
「弊社はいかがしますか?」
「個人的にはあちらでの話を聞きたいところだが……今回は遠慮しておこう。蓮と違って、私は昔から彼に好かれていないらしいから」
大袈裟に肩を竦めて悲しんでみせるも、夕下の鉄面皮が崩れることはなく。
淡々と「かしこまりました」と返され、白長もただただ苦笑を浮かべる。
「何にせよ、彼は生まれながらにして紛うことなき逸材だ。停滞しつつある我々の業界全体にとって、非常に喜ばしいニュースであることには違いない」
特別な対応は不要だよ、ご苦労さま。
夕下にそう告げて、白長が再びパソコンと向き合う。
普段であれば、ここで夕下は一礼して部屋を去るのだが――
「……ひょっとして、本題はこれからかい?」
――彫像のようにスッと立ち続ける懐刀の様子に、白長は薄い笑みを浮かべて再度視線を上げた。
「いいよ、続けよう」
仕切り直しと言わんばかりに伸びをしてから、ノートパソコンの画面を閉じ、脇に置かれていたスマートフォンを袖机の中へ滑り込ませる。
その間に、夕下が社長室の分厚いドアに取り付けられたサムターンを回し、密室を完成させた。
夕下真夏、三十二歳。
仕事中に決して無表情を崩すことなく、相手が誰であろうとプライベートに踏み入ることを許さない鉄の女。
目立つことのない事務方に埋もれていた彼女を白長が取り立てたのは、「とある才能」を見込んでのことだ。
「情報の出処は聞かないでおこうか。信憑性は?」
「『確度A』です」
「……八割、慎重派の君にしては強気な数字だ」
期待してしまうな、という白長の冗談めかした言葉にも眉ひとつ動かさず、夕下がパンツスーツのポケットからスマートフォンを取り出す。
白色のケースを装着したそれは、serp'社員全員に支給されている社用電話とは機種が異なる、完全な私用端末だった。
「…………へえ」
無言で差し出された画面を一瞥し、白長が口角を上げる。
「これ、いつの話だい?」
「背後に写っている店舗の装飾から、昨日以降に撮影されたものかと」
「なるほどね……この手の写真にしてはよく撮れている」
発色のいいディスプレイに映っているのは――金色の短髪と日焼けした肌が目を引く、がっしりとした体躯の美丈夫の姿。
そして……こちらを向いていない被写体、そしてプロの作品とは程遠い手ブレの痕跡が、正規の方法で撮影された写真ではないことを物語っていた。
「続報として、本日昼頃に花永海大社付近での目撃情報も挙げられています」
「となると、御鍵くんと一緒に尾崎というわけだ。どちらもロスからの帰国だろう?」
参ったなぁ、と呟く白長だが、その声に焦燥の色は一切ない。
それどころか、どこか他人事のような雰囲気さえ滲ませながら……受け取ったスマートフォンの『とある一点』をピンチアウトし、その状態で夕下に返却する。
「……では、私は『何も見ていない』から」
「心得ております」
「ああ、そうだ。昨年末に使った天麩羅屋、とてもよかったよ。じき春も終わって季節が変わるから、今のうちにもう一度伺いたいね」
「かしこまりました。すぐにセッティングいたします」
「……頼りにしているよ、夕下くん」
今度こそ、夕下が二歩下がって一礼する。
その手に握られた画面の中には――画像の拡大によってざらついた質感と化した、長髪の人影が映し出されていた。




