第5話 初めての給与明細
水門迷宮の本体復旧作業を終えた翌日。開始から六日目を迎えていた。
霞浜市内の少し外れにある雑居ビル。その一室に構えられた『合同会社 継路』の小さな事務所に、霞浜迷宮管理公社の水野詩織が訪れていた。
「支管の応急処置、作業員二名の救助、ならびに本体水門の完全閉鎖。すべての作業工程と安全基準の遵守を確認しました。こちらが本案件の正式な検収書になります」
水野は分厚いファイルから一枚の書類を取り出し、テーブルの向かいに座る朔へ丁寧に差し出した。
「確認した」
朔は書類の記載内容と金額を一瞥し、自社の印を素早く押下する。
「正直に言えば、期限内に復旧できるとは期待していませんでした」
書類を受け取りながら、水野は感心したような息を吐いた。
「Sランククランが討伐を終えた直後とはいえ、魔力圧の異常で危険度は跳ね上がっていた。力押しで解決しようとすれば、必ずどこかで事故が起きていたはずです。戦闘ではなく、安全な手順と知恵でインフラを復旧させたあなた方の手腕は、公社としても高く評価しています」
「俺たちは現場の設備復旧が仕事ですから。それに、優秀な人員が揃っていただけの話です」
朔は部屋の隅の長机で作業着の整理をしている澪と慧へ、ちらりと視線を向けた。
水野は微笑み、カバンを持ち上げて立ち上がった。
「これからも頼りにしていますよ、梶谷さん。……ただ、最近は公社も予算の制約が厳しくて。古い迷宮インフラの保守が先送りになりがちなのが頭の痛いところです。例えば、沿岸部にある『潮見環坑』なんかは特に老朽化が進んでいて心配なんですけれどね。まあ、それは公社側の愚痴です」
「設備は嘘をつきませんからね。限界が来る前に予算が下りることを祈ります」
朔が短く応じると、水野は一礼して事務所を後にした。
扉が閉まったのを確認し、朔は長机の前にいる二人を呼んだ。
「澪、早瀬。こっちへ来い」
二人がテーブルの前に立つと、朔はタブレットを操作し、公社から送られてきたばかりの支払明細と、自社の経費計算シートを画面に並べて表示した。
「水門の一件で、着手金と成果報酬が確定した。だが、勘違いしないでほしいことがある」
朔は画面上の大きな数字――売上の総額を指でタップし、そこから次々と項目を差し引いていく。
「いいか。この額面がそのまま会社の儲けになるわけじゃない。まずは本体水門で手配した独立護衛業者への外注費だ。命を張ってもらった分、当然高くつく。次に、破損した防護服や計測器の校正といった安全機器の損耗費。そして会社として掛けている損害保険料。最後に、お前たち二人に払う臨時賃金だ」
朔の指が止まった時、画面の一番下に残った『純利益』の数字は、驚くほどささやかなものになっていた。
澪が目を丸くする。
「えっ……こ、これだけですか? あんなに危険な思いをして、大きな水門を直したのに?」
「これが現場の実態だ。売上が大きいからといって、代表が丸儲けできるわけじゃない。安全費や外注費、そして働く人間の賃金を先に確保すれば、手元に残る利益は薄い」
朔はタブレットの画面を消し、真っ直ぐに二人を見上げた。
「だが、お前たちが現場で示した時刻管理や測位の技術は、その経費を払ってでも俺の会社に必要なものだ」
朔は傍らに置いてあったクリアファイルから、二通の真新しい書類を取り出した。
「今回は臨時契約だったが、正式な継続契約を結びたい。給与のベースはそこに書いてある。現場での安全停止権についても明記してある。確認してくれ」
慧は両手で書類を受け取り、給与の額を確かめてから、現場条件の欄へ戻った。
「……朔さん。測位の前に、護衛か安全区画の確認を。そこまで、この契約の条件にしてもらえますか」
「この欄に入れてある。先に現場の安全を確保する。できなければ、お前が止めていい」
慧は示された条項を指でなぞった。水門で引き返した時、朔はそれを失敗とは言わなかった。
彼はペンを取り、署名した。
「分かりました。次の現場も、よろしくお願いします」
隣では、澪がすでに契約書にサインを書き終えていた。
「私もです! 前のクランでは足手まといでしたけど、ここでは私の能力が意味を持っているって、実感できましたから」
「期待している。ただし、無理な自己犠牲はするな。それは契約違反だからな」
朔が二人の契約書をファイルに収めた時、デスクに置かれた朔の通信端末が短い着信音を鳴らした。
画面には『探索ギルド・業務連絡』の文字。発信元は、白稜の現場指揮者・高峰峻だった。
朔が通話ボタンを押すと、スピーカーから高峰の低く落ち着いた声が響いた。
『梶谷。水門の件、公社から正式な報告が上がってきたぞ』
「討伐の実績はそちらについたはずだが。何か不服か?」
『いや、成果を横取りされたと文句を言うつもりはない。ボスの討伐そのものは俺たちが完了させたからな。だが……あの魔力圧が乱高下する環境下で、魔物を無理に討伐することなく水門だけを閉鎖したと聞いて驚いた』
高峰の声には、嫌味ではなく純粋な感嘆が混じっていた。彼は朔がかつて白稜の現場管理責任者だった頃の事故を知っているが、だからといって朔の技術を不当に貶めるような男ではない。
『あそこに設備の作業員を送り直す手配は、こちらでは間に合わなかった。閉めてくれて助かった。……いい仕事をしたな』
「安全手順と、優秀な補助職がいただけだ。そっちも、次の討伐依頼で怪我をしないようにな」
『ああ。失礼する』
短い通話が切れる。澪が少しだけ複雑そうな顔で端末を見つめていた。
「高峰さん……別に、怒ってませんでしたね」
「戦闘のプロは、自分にできない専門技術を理解している。それだけのことだ。さて、感傷に浸っている暇はないぞ。次の仕事だ」
朔はオフィスのモニターに、新たな依頼の概要を表示した。
「発注元は『北浜資源工業』という民間企業だ。場所は郊外の旧昇降坑。先行した高ランクの探索隊が魔物の討伐を済ませているが、肝心の昇降機が故障していて、地下にある高価な貨物が回収できずにいる」
「昇降機を直せばいいんですか?」
慧の問いに、朔は首を横に振った。
「昇降機そのものは大掛かりな修理が必要だ。俺たちの仕事は、損傷したレール案内部を直し、使用可能な荷重を確かめた上で、貨物を引き上げることだ。だが、問題がある」
朔は現場の写真をモニターに拡大した。
「部品の交換位置が空中にあり、大掛かりな重機やクレーンは搬入できない。人間が手作業で数十キロの部品を合わせ、ボルトで固定しなければならない。不安定な足場では、部品を保持しながらボルトを締めるのは不可能に近い」
「じゃあ、どうするんですか……?」
「専門家に頼る」
朔は手元のタブレットを開き、昨晩のうちに見積もりと相談のメールを投げていた、ある設備技師からの返信画面を二人に向けた。
そこには、簡潔な一文だけが記されていた。
『現場で部品を交換するなら、三十キロまでの物なら、八秒だけ空中で位置を保持できます』
「八秒……?」
「そうだ。たった八秒。だが、その八秒間、空中に部品が固定されれば、俺の手でボルトを恒久的に締めることができる」
朔はニヤリと笑い、タブレットを閉じた。
「面白くなってきたな。専門技師との面談を取り付ける。準備しろ」




