第42話 止めたいのに止まらない
突発的な地鳴りと異常な魔力活動の上昇を受け、朔たちが潮見環坑の診断区域から緊急退避を余儀なくされた翌日、D124。
事態の深刻さをようやく理解した霞浜迷宮管理公社は、環坑の地上施設である『中央制御室』に対策本部を立ち上げた。
ずらりと並んだ電子モニターと、絶え間なく鳴り響く通信機器のコール音。数十名の職員たちが青ざめた顔でキーボードを叩き、現場のデータを収集し続けている。
「……よく来てくれました、梶谷さん。それに、高峰さんも」
中央制御室の奥にある円卓で、公社の検収責任者である水野詩織が二人を出迎えた。彼女の目の下には濃い隈が刻まれており、事態の切迫感を如実に物語っていた。
朔の隣には、Sランククラン『白稜』の現場指揮官である高峰峻が立っている。魔物の異常活性化に伴い、ギルド経由で緊急の護衛任務を受諾して駆けつけたのだ。
「水野さん。挨拶はいい、単刀直入に言うぞ」
朔は円卓のモニターに映し出された、真っ赤な警告色に染まる圧力グラフを指差した。
「昨日の地鳴り以降、環坑内の圧力変動が異常な数値を叩き出している。霧島さんが現認した通り、ただでさえ三系統の連結部は深刻な摩耗を抱えて限界を迎えているんだ。このまま負荷をかけ続ければ、確実に配管が破断する。段階停止を今すぐ始め、現場の負荷を下げるべきだ」
それは、現場の設備を知り尽くした技術者としての、真っ当で冷徹な進言だった。
だが、水野は苦渋に満ちた表情で首を横に振った。
「……それができれば、どれほど楽だったか」
「通常停止が使えないのか。昨日、順序を確認したはずだ」
「潮見環坑は、単なる地下の排水設備ではないからです」
水野は手元のキーボードを操作し、モニターの表示を霞浜市全体のインフラ・マップへと切り替えた。
そこには、潮見環坑から延びる太い管が、都市の巨大な取水施設や浄水場、そして無数の住宅地の水道管網へと血管のように繋がっている図が示されていた。
「環坑のシステムは、都市全体の水圧コントロールと完全に連動しています。もしこの状況で、緊急停止ボタンを押して瞬時にバルブを全閉すればどうなるか……強烈な水撃作用が発生し、逆流した圧力が都市側の配管網を連鎖的に破裂させます」
水野の言葉に、朔は奥歯を噛み締めた。
現場の配管を守るために急停止させれば、その代償として地上の都市インフラが物理的に崩壊する。行政の管理責任者として、水野が絶対に選べない選択肢だった。
「では、どうする。指をくわえて破断を待つわけにはいかないだろう」
高峰が低い声で尋ねると、水野は手元の分厚いマニュアルを広げた。
「都市機能へのダメージを防ぐためには、『段階的な停止』を行うしかありません。メインポンプの出力を数パーセントずつ下げ、バイパス管を開いて少しずつ圧力を逃がしながら、数時間かけてシステム全体を『通常停止』の状態へと移行させる必要があります」
「数時間……。今のあの設備の状態で、そんな悠長な手順が保つのか?」
朔の問いに、水野は目を伏せた。
「保たせるしかありません。公社は現在、各所の取水制限や避難準備のための根回しに奔走しています。取水制限と段階停止の準備は、昨日から進めています。今日中の停止へ、許可と実作業を並行させています」
朔はタブレットを取り出し、水野の提示したマニュアルと照らし合わせながら、現場で必要となる手順を構築し始めた。
「……わかった。段階停止の手順は理解した。だが、システムを安全に落としていく過程で、各区画のバルブ周りに直接人間を配置し、計器の目視確認と手動での微調整を行う必要がある。俺たち継路の班を三つに分け、北、東、南の各区画に配置する」
朔は必要な機材と人員のリストを素早く書き出していく。
「だが、問題は魔物だ。昨日の異常な魔力活動のせいで、危険区域の魔物どもは完全に凶暴化している。各区画の設備にたどり着くまでのルート確保と、作業中の護衛が絶対に必要だ」
朔が視線を向けると、高峰は迷うことなく頷いた。
「俺たち白稜の出番というわけだな」
高峰は、腰に佩いた剣の柄に手を当て、力強く宣言した。
「段階停止に数時間かかるなら、その数時間、魔物どもを設備と作業員に一歩も近づけさせない。危険区域の魔物排除と外周の防衛は、我々白稜が全軍で引き受ける。梶谷、お前たちは背後を気にせず、設備の息の根を安全に止めることだけを考えろ」
「頼もしい言葉だ。背中は任せるぞ、高峰」
かつて対立していた二人の間に、迷いはなかった。
敵を圧倒する武力を持つ者と、複雑な現場の最適解を導き出す者。それぞれの責任者が、互いの職能を信頼して役割を分担する。
「水野さん。現場の護衛計画と、設備側の作業準備は整った」
朔がタブレットを差し出すと、水野は安堵と決意の入り交じった表情でそれを受け取った。
「ありがとうございます。……公社を代表し、合同会社継路、ならびにクラン白稜に対し、潮見環坑の緊急停止作業を正式に委任します」
水野が電子ペンで決裁のサインを書き込んだ。
「よし。俺たちはこれから各区画への進入準備に入る」
朔は通信機を手に取り、現場の外で待機している澪や冬佳たちに状況を伝達しようとした。
だが、その前に、彼は水野に向かって一つの重要な確認事項を口にした。
「水野さん。作業に入る前に、一つだけ再確認させてくれ。……もし、昨日のような急激な魔力圧の変動が起きて、この中央制御室と地下を結ぶ『電子通信』がノイズで死んだ場合。各区画の設備を同期させている『油圧基準管』の動作に影響は出るか?」
「電子通信の停止だけなら、出ません。ただし、基準管そのものに損傷がないかは再確認が必要です」
水野は明確に首を横に振った。
「中央の電子通信網と、物理的な油圧を伝達する基準管は、設計上完全に独立した別系統になっています。たとえここのモニターがすべてブラックアウトしても、油圧の波は各区画の機械式圧力計へ伝わる設計です。現物がその通りかを、そちらで確認してください」
「分かった。前の計測と照合し直す。自動系統と一緒に壊れていないと分かれば、非常手順の基準にできる」
水野は非常時の構造図も開いた。主封鎖の重りには、閉鎖速度を抑える既設の制動機構がある。圧力を逃がす弁を含めた三入力が揃わなければ、重りは解放されない。通常の弁を無理に一斉閉鎖する方法とは違っていた。
「では、作業員の配置と資材の――」
朔が振り返り、高峰と最終の打ち合わせに入ろうとした、まさにその瞬間だった。
ブツッ、という不快なノイズとともに、中央制御室の壁面に並んでいた巨大なメインモニターの一つが、突如として真っ暗にブラックアウトした。
「なっ……!?」
水野が声を上げる。
次の瞬間。
ウゥゥゥゥーーーッ!!
部屋中に、鼓膜を劈くようなけたたましい警報音が鳴り響いた。ブラックアウトしたモニターの隣にある画面が、毒々しい赤色に点滅を始める。
「何事だ!」
高峰が叫ぶ。
「水野責任者! 第三セクターの自動制御システムが、突如としてダウンしました!」
計器盤に張り付いていたオペレーターの一人が、顔面を蒼白にして振り返った。
「メインバルブの開度が制御不能! 放流経路に、想定外の圧力がかかっています!」
「なんですって……!?」
水野が弾かれたようにコンソールへ駆け寄り、キーボードを叩く。だが、画面には『ERROR』の文字が無情に羅列されるだけだった。
「ダメです、制御を受け付けません! 老朽化した連結部が、想定よりも早く耐えきれずに破綻したんだわ……!」
朔は、赤く染まったモニターの数値を睨みつけた。
段階的に、数時間かけて安全に止めるはずだった計画。
だが、長年先送りされてきた機械の限界は、彼らの立てた理路整然としたスケジュールなど待ってはくれなかった。
コントロールを失った巨大な設備が、都市への牙を剥き出しにして暴走を始める。
「……最悪のシナリオが始まったか」
朔の低い呟きは、けたたましい警報音の中へ吸い込まれていった。




