第41話 潮見環坑の異常
東谷昇降廊での仕事を終え、公社から正式な依頼通知を受け取ってから数日後の、D123。
梶谷朔と霧島冬佳は、霞浜市の地下深くに広がる巨大なインフラ施設『潮見環坑』の診断区域に足を踏み入れていた。
彼らの傍らには、防護服に身を包んだ公社の検収責任者、水野詩織の姿があった。
「……梶谷さん。先日、あなたが提出してくれた遠見中継所の摩耗データと、潮見の旧保守記録の類似性を指摘した報告書。あれがなければ、公社の上層部がこの『限定診断』の予算を割くことはありませんでした」
水野は、轟音を立てて稼働する巨大な油圧配管を見上げながら、重々しい声で言った。
「現場の責任者として、警告に感謝します。……で、実際のところはどうなんです。本当に、過去の記録通りに摩耗が進行しているんですか」
「今、霧島さんが現物を確認しています」
朔が視線を向けた先では、冬佳が巨大なバルブとレバーが複雑に絡み合う三系統の操作盤の奥に潜り込み、点検口からライトを当てていた。
やがて、冬佳が工具箱を提げて足場から降りてきた。その顔色は、防護マスク越しでも分かるほど青ざめていた。
「……水野さん。最悪です」
冬佳は手元のタブレットに計測データを表示させ、水野に突きつけた。
「記録にあった通り、三系統の連結部すべてのジョイントで、極めて深刻な摩耗が進行しています。遠見中継所の比じゃありません。長年放置された金属疲労に加えて、断続的な圧力変動の負荷がかかり続けているせいで、いつ破断して自動制御が死んでもおかしくない状態です」
水野は画面の数値を見て、ギリッと奥歯を噛み締めた。
数年前、「当面の稼働に支障なし」として予算の都合で先送りにされた修理。そのツケが今、限界となってインフラの心臓部に牙を剥いていたのだ。
「自動制御が死ねば、どうなる」
朔が尋ねると、水野は重い声で答えた。
「潮見環坑は、都市の取水設備と連動して水圧をコントロールしています。もし制御が失われれば、配管内に致死的な過圧が発生し、最終的には下流の設備を破壊して住宅地の基盤を傷めかねません。設備全体の破裂を避けるための非常放流経路はありますが、下流は事前に避難させる必要があります」
「それを防ぐには?」
「自動制御が完全に壊れる前に、公社の権限で段階的にシステムを停止させ、安全に圧力を抜いてから部品を交換するしかありません」
水野の言葉に、朔は頷いた。
「水野さん、すぐに上層部へ掛け合って、予防停止の承認を取ってきてくれ」
「ええ。このデータがあれば、すぐにでも停止手順の稟議を通せます」
「梶谷さん。もう一つ、気になることがあります」
水野が足早に地上へ向かうのを見送った後、冬佳が操作盤の横にある古びた機械式の圧力計を指差した。
「万が一、自動制御が死んだ場合、この三系統のバルブは手動で封鎖操作を行わなければなりません。ですが、ここの手動系統は『北・東・南』の三つの区画に物理的に分かれて配置されています」
「俺たちが今いるのが北区画、東と南はそれぞれ別の通路の先か」
「はい。そして、この三つの区画の操作は、共通の油圧基準管の圧力変動に合わせて、厳密なタイミングで『同期』させないと、主封鎖装置が起動しない安全機構になっています。……ただ、これだけ配管が老朽化していると、中央の基準管からの圧力が、三つの区画の計器に『同時に』伝わっているかどうかが怪しいんです。ラグ(遅延)があるかもしれません」
冬佳の指摘は、技術者としての的確な懸念だった。
もし計器の表示にズレがあれば、いくら同時に操作しようとしても失敗する。
「確認しよう。中央の通信系と電子時計が正常に生きている今のうちに、実測データを取っておく」
朔は即座に通信機を取り出し、東区画と南区画にそれぞれ待機させているメンバーに指示を飛ばした。
「こちら梶谷。羽鳥、聞こえるか。お前は東区画の手動操作盤の前へ行け。早瀬は南区画だ。それぞれの区画にある機械式圧力計の前に立て」
『こちら羽鳥。東区画の計器前に到着しました』
『早瀬です。南区画、到着しました』
通信機から二人の声が返ってくる。
「各班、同じ時計を写し込んで、針が予告線を通る前後を撮ってくれ。声の届いた時刻ではなく、各地点で記録した時刻を比べる」
出発前に同期を確かめた時計と、計器の針を一緒に映す。朔の号令へ反応してもらうのではなく、自然に来る圧力変化を数周期記録した。
戻った映像と現地の記録器を冬佳が照合する。北を基準に東はおよそ〇・四秒、南はおよそ〇・八秒遅れた。読み取りの不確かさを含めても、最大の差は一秒以内だった。
「差はゼロではありません。でも、同期の許容幅と比べられる数字にはなりました」
冬佳の言葉に、朔が頷く。
朔はその数値をタブレットに明確に記録した。
共通の油圧信号に対し、三区画の機械式計器の読みが示す位相差は最大でも一秒。
この『一秒のズレ』という実測データは、もし万が一、通信が途絶した暗闇の中で手動操作を強いられた場合、彼らが命を繋ぐための唯一無二の「校正根拠」となる。
「よし、記録完了だ。これで最悪の事態になっても、計器のラグを計算に入れて同期できる」
朔がタブレットを仕舞い、機材の撤収を指示しようとした、その時だった。
ピーーーーッ! ピーーーーッ!
突如、朔の腰に下げていた通信機から、緊急を知らせるけたたましいアラームが鳴り響いた。
「梶谷代表! 聞こえますか!」
安全境界で待機していた環境安全監督の千紗からの、切羽詰まった声だった。
「どうした、塚原さん」
『環坑の深部から、異常な数値を検知しました! 今まで観測したことのない規模の、魔力活動の急激な上昇です!』
「なんだと?」
朔と冬佳は顔を見合わせた。
魔力圧の変動は、ダンジョン内にある物理的な設備に直接的な負荷をかける。ただでさえ限界を迎えている連結機構に、これ以上の圧力変動が加わればどうなるか。
『梶谷代表! 早く外へ! このままでは――』
千紗の叫びをかき消すように、ズゴォォォォンッ!! と、足元の岩盤を底から突き上げるような重く暴力的な地鳴りが、潮見環坑の全域に轟き渡った。
水野が予防停止の承認を得るための猶予など、もう残されていなかった。
都市の生命線とも言える巨大インフラの心臓部が、今まさに悲鳴を上げて崩壊を始めようとしていた。




