第38話 止める勇気
東谷昇降廊の分厚い隔壁の向こう側で、ズンッ、と腹の底に響くような重い衝撃音が鳴り響いた。
作業日報のタイムスタンプはD114の昼。
機材の一部搬入を進めていた分断班の五人は、その想定外の地鳴りにピタリと動きを止めた。
「……今の音、隔壁の外からですか?」
冬佳が手にしていたボルト回しを下ろし、天井を仰ぎ見た。
「わかりません。ですが、ただ事じゃありませんよ」
朱里が地図ケースを握りしめ、身を縮める。
環境安全監督である塚原千紗は、誰よりも早く手元の環境測定器の画面に目を落とした。そして、その表情をスッと険しいものに変えた。
「……羽鳥班長」
千紗の静かだが切羽詰まった声に、澪はハッとしてタブレットを抱え直した。
「測定値に異常です。区画内の粉塵濃度が急激に上昇中。さらに、微気圧の変動を検知しました。奥からこちらへ向かって、通常ではない気流が押し寄せています」
「気流の乱れ……」
「はい。おそらく、どこかの通路で崩落か空洞の陥没が起き、押し出された空気が逆流してきています。退路側の安全が不透明です」
千紗の報告を裏付けるように、慧が同じ区画の露出した手すりを叩き、返る音へ注意を向けた。
「今いる側の通路は、頭上の固定具の位置が変わっています。隔壁の外側までは分かりません。元の道へ戻る前に、点検が必要です」
目に見えない空気の質と、耳で捉える空間の構造。
二人の専門家が同時に示したデータは、現場の安全条件が足元から崩れ去ろうとしていることを明確に告げていた。
「……梶谷さん! 応答してください、朔さん!」
澪は襟元の通信機のボタンを押し込み、必死に呼びかけた。
だが、返ってくるのはザザァッという無機質な砂嵐の音だけだ。強い魔力干渉と、先ほどの衝撃による何らかの影響で、隔壁の向こう側にいる朔とは完全に連絡が絶たれていた。
指示は届かない。
現場の責任者は、自分しかいない。
澪の掌に、じわっと冷たい汗が滲んだ。
(どうしよう……。作業は、あと少しでこの区画の搬入が終わるのに)
澪の脳裏に、会社の帳簿の数字がフラッシュバックした。
継路は、小さな会社だ。朔は常に「無理をしない」と言うが、ここで作業を途中で投げ出せば、予定していた完了報酬は確実に減額される。ペナルティを食らうかもしれない。
自分や仲間の給与が未払いになるわけではない。朔はそういう契約は結んでいない。だが、会社の利益が減れば、設備投資が遅れ、長期的には仲間たちの生活を不安定にさせてしまう。
何より、自分がここで『逃げる』という判断を下して、もしそれがただの取り越し苦労だったら?
ただの音の反響のせいで、何の問題もなかったら?
自分が会社の信用と利益を不当に損なった『無能な班長』になってしまうのではないか。
その恐怖が、澪の喉を締め付け、決断を激しく鈍らせていた。
「羽鳥班長」
硬直する澪の前に、千紗が一歩進み出た。
千紗は測定器を澪へ示しながら、既に工具を置く合図を全員へ出していた。
「現在の粉塵濃度および微気圧の変動幅は、事前の取り決めにあった『作業中止条件』の数値を明確に超えました」
千紗の目は、冷徹なまでに事実だけを捉えていた。
「環境安全監督として、作業停止を宣言します。退避基準にも該当します。班長、退避先の取りまとめを」
数値を根拠とした、停止と退避の宣言。
それを受けた瞬間、澪の頭に、五日前に聞いた朔の告白が蘇った。
『俺は数年前、部下が上げた現場の異常申告を例外として切り捨て、計画を優先してその部下に重傷を負わせた』
二日前、班長に指名された時の言葉が続く。
『予定を守るために不確定な危険に突っ込むな。俺たちの会社は、無事に戻ってくることだけが絶対の正義だ』
朔は、過去の自分の過ちを繰り返さないために、自分に班長の権限を与えてくれたのだ。
会社の利益や、自分の評価なんてどうでもいい。
もしここで自分が判断を渋って仲間が瓦礫の下敷きになれば、それこそ朔が最も恐れていた悲劇の再生産ではないか。
朔が過去にできなかった『現場の声の尊重』を、自分がここで体現しなければならない。
澪は、ギュッと唇を噛み締め、恐怖を腹の底へと飲み込んだ。
タブレットの画面を消し、顔を上げる。
「……残る搬入は、すべて打ち切ります」
震えを抑え込んだ、はっきりとした声だった。澪は置かれた資材から目を離し、退避先を指した。
「霧島さんは資材をその場に留めて置いてください! 早瀬さんと塚原さんの情報を元に、全員、直ちに事前の取り決めにあった『一時安全帯』へ後退します! 相沢さん、ルートの案内を!」
元の通路を戻れば、朔たちには近い。だが、頭上の固定具が動いた道へは戻らない。澪は、確認済みの一時安全帯へ続く方を選んだ。
「はいっ!」
澪の班長としての明確な決断に、四人の専門家たちは一切の異論を挟まず、即座に行動を開始した。
冬佳が軽資材を架台へ戻し、通路へ転がらないよう留めた。
朱里が、最も地盤が安定している一時安全帯(強固な岩盤の下)へと向かう最短ルートを現認し、迷いのない足取りで駆け出す。
魔法で天井を支えることも、崩落そのものを止めることもできない彼女たちにとって、唯一の正解は『自分の足で安全な場所へ逃げること』だ。
「急いで! 足元に気をつけてください!」
澪は最後尾に立ち、仲間たちの背中を押すようにして走った。
五人が指定された一時安全帯の岩陰へと飛び込み、身を寄せ合った、まさにその直後だった。
ゴゴゴゴゴォォォォンッ!!
耳をつんざくような轟音とともに、強烈な爆風と土煙が安全帯の中まで吹き込んできた。
パラパラと小石が降り注ぐ中、澪たちが身を固くして目を閉じていると、やがて激しい地響きはゆっくりと収まっていった。
「……け、ゲホッ、ゴホッ!」
舞い散る土煙の中で、澪はむせながらも立ち上がり、即座に手元のタブレットを掲げた。
「点呼! 早瀬さん、相沢さん、塚原さん、霧島さん!」
「無事です!」
「怪我はありません!」
「ここにいます!」
「問題なし」
全員の返事を聞き、澪は自分を含む五名の欄を確認した。
五人とも、ここにいる。
もし停止を告げられた後も、資材の回収に固執して足を止めていれば。
千紗が作業を止め、澪が退避を指揮した。誰も資材のために足を止めなかった。その数十秒が、五人の命を救った。
「……羽鳥班長。見事な判断でした」
千紗が、防護マスク越しにホッとしたような目を向けた。
「塚原さんが止めてくれたからです。早瀬さんの報告で、戻ってはいけない道も分かりました。皆さんも、すぐ動いてくれて……」
澪が安堵の笑みを浮かべかけた、その時だった。
「羽鳥さん……」
少し前に出て、土煙の向こう側をライトで照らしていた冬佳の顔が、絶望に青ざめていた。
「どうしたんですか、霧島さん」
「……通路が」
澪たちが冬佳の横に並び、ライトの光の先を見た。
そこには、絶望的な光景が広がっていた。
先ほどまで自分たちが作業をし、通ってきた元の通路。隔壁の向こうにいる朔たちの元へと繋がる唯一の帰路が。
局所崩落によって生じた、見上げるほどの巨大な岩の山と瓦礫によって、完全に塞がれてしまっていたのだ。
「嘘……」
朱里がへたり込む。
帰るべき道が断たれた。
通信機からは、相変わらず無機質なノイズだけが流れ続けている。
朔からの指示は待てない。助けがいつ来るかも分からない。
孤立無援となった地下の迷宮で、分断班の五人は、自らの力で『別の安全経路(代替退路)』を探し出さなければならないという、新たな死活問題に直面していた。




