第36話 指示が届かない日
遠見中継所で最初の段階更新を終え、自主判断を制度化する方針を決めてから数日。
作業日報のタイムスタンプがD112を示す朝、継路の事務所には、いつになく引き締まった空気が漂っていた。
「これが、今回依頼を受けた『東谷昇降廊』の作業図面だ」
梶谷朔がホワイトボードに図面を貼り出し、集まったメンバー全員を見渡した。
「依頼主は、先日世話になった遠見管理会社の別事業部。先行隊による魔物排除と通路進入は成功しているが、安全な資材搬送が未完了となっている」
朔は図面の一箇所を赤いマーカーで囲んだ。
「搬送経路は入り組んでおり、作業は複数の区画にまたがる。だが、この現場には一つ、極めて厄介な特記事項がある。……この一帯は強い魔力干渉が発生しており、区画を隔てる壁を一枚挟むだけで、無線通信が断続的に途切れる」
その言葉に、羽鳥澪が少し不安そうに息を呑んだ。
通信が途切れるということは、離れた場所でトラブルが起きた際、現場監督である朔からの指示が一切届かなくなることを意味する。
「通信障害はスキルでどうにかなるものじゃない。相沢の《路標》も、壁の向こう側へのメッセージ代わりには使えないからな」
「はい。私の標識は、視界が通っている範囲にしか置けません」
相沢朱里が頷く。
「だからこそ、先日決めた方針を実行に移す」
朔はホワイトボードの図面を、青い線で二つのグループに分けた。
「この広大な搬送作業を時間内に終わらせるため、現場を二つの班に分割する。一つは、俺と南野さんの重量搬送班。もう一つは、隔壁の向こう側で機材の搬入とルート確保を行う、五人の別働班だ。……そして、通信が途切れる別働班の『班長』には、羽鳥澪、お前を指名する」
「……えっ?」
突然名前を呼ばれた澪は、目を丸くして自分を指差した。
「わ、私ですか!? でも、私には強い魔法もありませんし、設備の詳しい知識も……霧島さんや、塚原さんの方が適任じゃありませんか?」
慌てる澪に対し、朔は静かに首を横に振った。
「現場の責任者に必要なのは、腕力でも魔法の強さでもない。正確な『情報管理能力』だ」
朔は、澪がいつも抱えている記録用のタブレットを指差した。
「お前は、うちに来てから今日まで、全現場の時刻、計器の読取値、人員の点呼を、ただの一度も欠かすことなく正確に記録し続けてきた。現場において、時間がどれだけ経過したか、計器がどう変化したか、仲間が全員揃っているか……それらのデータは、撤退や作業継続の判断を下すための最も重要な土台だ。その情報を一番正確に把握しているお前が、班長に最もふさわしい」
朔の明確な理由付けに、霧島冬佳も塚原千紗も深く頷いた。
「梶谷さんの言う通りです。私は設備の技術判断を受け持ちます。手を離せない間も、全体の時計と人数を見ていてほしい」
冬佳が言い、千紗も微笑む。
「停止基準の判定は私が受け持ちます。退避先の選択や人数の照合は、羽鳥さんに取りまとめてほしいんです」
専門家たちからの信頼を受け、澪はタブレットを胸に抱きしめ、ギュッと唇を結んでから、力強く頷いた。
「……分かりました。私、やります」
「よし。だが、誤解しないように言っておく」
朔はホワイトボードに、班長としての権限の範囲を書き出し始めた。
「班長の役割は、何でもかんでも一人で決定して部下を従わせることじゃない。俺の指示が届かない間、現場の状況に合わせて『単独判断してよい軽微な作業変更の範囲』と、危険を察知した際に『即座に作業を中止・退避すべき条件』を、事前に決めておく」
朔は書き出した項目を、順番に指で叩いた。
「さらに、権限の切り分けだ。霧島さんが持つ『設備の技術責任』や、塚原さんが持つ『環境安全の独立停止権』は、それぞれが持つ絶対の専門領域だ。班長だからといって、お前が彼女たちの専門的な判断を上書きして無理を強いることはできない。お前の仕事は、彼女たちの上げる専門的な情報と、早瀬や相沢の空間情報を統合し、最も安全な選択肢を選ぶことだ」
「権限は混同しない。情報は統合する……ですね。分かりました」
澪が真剣な表情でメモを取る。
しかし、冬佳が腕を組んで少し難しい顔をした。
「梶谷さん。事前に作業変更の範囲や中止条件をマニュアル化しておくのは賛成ですが……現場では、マニュアルに載っていない想定外の事態が必ず起きますよね。通信が繋がらず、マニュアルにも答えがない時、羽鳥さんは何を基準に判断すればいいんですか?」
冬佳の指摘は、極めて現実的で実務的な懸念だった。
「その通りだ。だからこそ、機械ではなく人間が班長をやる意味がある」
朔は冬佳の疑問を肯定し、澪に向き直った。
「マニュアルにない例外が起きた時のための班長だ。だが、闇雲に決断しろとは言わない。判断に迷った時に何を基準にするべきか、その『優先順位』をすり合わせておく」
朔は三本の指を立てた。
「第一に、命と退路の安全。第二に、計器と現物の確証。第三に、当初の作業予定だ。……例えば、マニュアルにはない異音が響いたが、計器の数値は正常で、作業はあと十分で終わるとする。通信は繋がらない。澪、お前ならどうする?」
不意の質問に、澪は少し口ごもったが、すぐに真剣な目をして答えた。
「……異音の原因が特定できないなら、第一の『退路の安全』が保証できません。私なら、作業がすぐ終わりそうでも、一度全員を安全地帯まで退避させてから、計器と現物を再確認します」
「正解だ。俺もそうする」
朔は満足げに頷いた。
「予定を守るために不確定な危険に突っ込むな。俺たちの会社は、無事に戻ってくることだけが絶対の正義だ。その基準さえブレなければ、お前の下すどんな決断も、俺は現場責任者として全面的に支持する」
その後も、朔は過去の現場で起きた様々なイレギュラーを想定したシチュエーションを提示し、「俺ならこうする。お前ならどうする?」と、澪との間で判断基準の差を徹底的にすり合わせていった。
澪は真剣な表情で朔の言葉を吸収していく。
かつて、指示を待つことしかできなかった彼女の背筋は、今や一つの班を率いるリーダーとしての自覚を帯び、凛と伸びていた。
訓練の最後、澪は自分の記録票に「指示待ち」の欄を作った。
そこへ斜線を引き、「自班の確認」と書き直す。
冬佳が覗き込み、空いた余白へ、設備担当へ聞くべき確認事項を書き足した。
「一人で抱えないで。分からない時は、まず私たちに聞いてください」
澪はその紙を折らず、作業票の一番上へ挟んだ。




