第34話 先送りにされた修理
遠見中継所での先行調査と契約の分割合意から、十日が経過したD103。
季節はすっかり秋も深まり、地下の迷宮内には冷たい隙間風が吹き込むようになっていた。
合同会社継路の面々は、管理会社と正式に契約を結んだ「段階更新」の第二フェーズにあたる、現場の補修作業に取り掛かっていた。
「梶谷さん、こっちのラインの点検が終わりました」
排水・搬送用の軽設備の前にしゃがみ込んでいた霧島冬佳が、工具を置いて立ち上がった。
「状態はどうだ」
朔がタブレットを持って近づくと、冬佳は取り外したばかりの小型の連結機構を指差した。
「あまり良くありませんね。図面上の耐用年数にはまだ余裕があるはずなんですが、実際の地下の湿気と粉塵による環境負荷のせいで、金属のジョイント部分が想定以上に削れています」
冬佳はノギス(精密測定器)を当てて、摩耗した数値を朔に見せた。
「目視でもわかるレベルの摩耗です。そのせいで、動力を伝達する際にコンマ数秒の作動遅延が発生しています。今はまだギリギリ動いていますが、このまま放置すれば、いずれ確実に噛み込んで設備全体が停止します」
「……なるほど。やはり古い設備は開けてみないと分からないな」
朔は冬佳の実測データをタブレットに打ち込みながら、ふと、以前の調査の際に資料室で見つけた一つの記録を思い出した。
「霧島さん、ちょっとこれを見てくれ」
朔はタブレットの画面を切り替え、スキャンしておいた古い資料の画像を表示させた。
それは、先行調査の日に朱里と一緒に見つけた、地域共同の安全管理資料に紛れ込んでいた『潮見環坑』の旧保守記録だった。
「潮見環坑……公社が管理している、あの巨大なインフラ施設ですか?」
「ああ。そこの過去の点検データだ」
二人は、モニターに映し出された数年前の記録と、目の前にある遠見中継所の摩耗した部品を交互に見比べた。
「……これは」
冬佳の表情が、スッと険しくなった。
「潮見環坑で使われているのは、ここよりも遥かに巨大な油圧式の設備です。全く同じ機械ではありません。ですが……この保守記録に記載されている『連結機構の摩耗による作動遅延の兆候』は、今ここで私が計測した不具合と、全く同じ傾向を示しています」
「俺もそう思う。違う法人が管理する別の設備だが、同じ霞浜の地下という過酷な環境が、同種の経年劣化を引き起こしている」
朔は画面をスクロールし、潮見環坑の記録の末尾、担当者による決裁印が押された欄を拡大した。
「問題はここだ」
そこには、『当面の稼働に支障なし』『予算の都合により、当該連結部の部品交換は次期以降へ延期とする』という、行政特有の先送りの文言が記されていた。
「……保守の延期。数年前の時点で摩耗の兆候が出ていたのに、放置されているということですか」
「そういうことだ。もしあの摩耗が、今のこの中継所と同じ傾向で進行しているとしたら……」
朔は言葉を切った。
潮見環坑は、都市全体の排水を担う巨大インフラだ。もしあそこの設備が完全に停止すれば、霞浜市にどれほどの被害が出るか想像もつかない。
だが、朔は「潮見環坑が今すぐ爆発する」といった根拠のない事故予知で大騒ぎするつもりはなかった。魔法使いの予言ではなく、現場の事実だけが彼らの武器だ。
「……公社の水野さんに連絡を入れる」
朔は決断した。
かつて朔は、部下が上げた「計画と違う異常」の申告を、確率の低い例外だとして切り捨て、取り返しのつかない事故を起こした。彼は二度と、現場の小さな悲鳴を無視するつもりはなかった。
「潮見環坑の旧保守記録だけでは、ただの過去の書類だ。だが、霧島さんが今ここで実測した『同種の設備における摩耗と遅延のデータ』、そしてこの削れた現物の写真があれば、それは立派な実証データになる。これを根拠として添え、公社へ潮見環坑の追加点検を正式に要請する」
「賛成です。技術的な所見なら私が書きます」
冬佳も迷いなく頷き、二人は手分けして水野への報告書を作成し、送信した。
「よし、警告は出した。あとは公社の判断だ。俺たちは俺たちの目の前の仕事を終わらせるぞ」
「了解です」
報告を終えた二人は、すぐに遠見中継所の補修作業へと戻った。
冬佳は摩耗した古い連結機構を取り外し、持ち込んでいた新品の部品へと交換していく。今回は魔法の出番はない。冬佳の《仮固定》を使うまでもなく、彼女は確かな職人の手つきでボルトを締め込み、恒久的な締結を完了させた。
「交換完了。グリスアップも規定量入れました」
「通電する。試運転を開始しろ」
朔の合図で、電源が入れられる。
ガチャン、と小気味よい金属音とともに、排水・搬送用の軽設備が稼働を始めた。
先ほどまで発生していたコンマ数秒の作動遅延は完全に消滅し、モーターの力をロスすることなく、スムーズに、そして力強く機構が回転している。
「……作動状況、極めて良好です。異音もガタつきもありません」
冬佳が計測器の数値を読み上げ、ホッと息を吐く。
「検収条件クリアだな。段階更新の第一歩としては完璧だ」
朔も満足げに頷いた。
試運転を終え、工具の片付けに入ろうとしたその時。
朔の胸元で、通信端末が震えた。
「水野さんからか」
朔が画面を開くと、冬佳も作業の手を止めて近づいてきた。
そこに記されていたのは、霞浜迷宮管理公社の検収責任者である水野詩織からの、端的な返答だった。
『梶谷代表、ならびに霧島技師。詳細なデータと写真の提供、感謝します。提出された実測値を拝見しました。確かに、潮見環坑の該当設備においても、ご指摘の通り深刻な摩耗が進行している可能性が高いと判断します』
「……公社も、危険性を認めたんですね」
冬佳の顔が少し明るくなる。
だが、朔の視線は、その後に続く文章に釘付けになっていた。
「いや……喜ぶのは早いぞ」
朔は渋い声で、メールの後半を読み上げた。
『しかしながら、潮見環坑は霞浜市の基幹インフラであり、調査のために設備を一時停止させるだけでも、多大な影響が出ます。現在、大規模な予算調整と各所への根回しを進めておりますが……本格検査は停止日程と予算の調整後となります。先に既存の観測値を再確認し、変動が拡大した場合は負荷を制限します。限定診断を前倒しできるかも協議します』
「しばらく先……? これだけ具体的な証拠を提示したのに、すぐには止められないんですか?」
冬佳が信じられないというように眉をひそめた。
「それが行政という巨大なシステムだ。一個人の判断で、都市のインフラのスイッチを簡単に切ることはできない。水野さんも現場の人間として危機感は持っているだろうが、予算とスケジュールの壁には勝てないってことだ」
朔は端末の画面を消し、深く息を吐き出した。
朔は受付番号と次の回答予定日を記録した。警告を送っただけで済ませず、観測値の変化があれば更新してもらう。危険の大きさを断定できないことが、かえって気にかかった。
遠見中継所の静かな地下通路で、安全に稼働し始めた軽設備の駆動音を聞きながら、朔は数キロ先に眠る巨大な環坑の沈黙に、得体の知れない不気味さを感じていた。




