第33話 値下げしない勝ち方
遠見中継所の設備管理会社との見積交渉が決裂してから、数日が経過したD93。
梶谷朔、早瀬慧、相沢朱里の三人は、霞浜市郊外に位置する遠見中継所の地下排水・搬送設備へと足を踏み入れていた。
薄暗いコンクリートの通路には、カビと鉄錆の匂いが立ち込めている。先行した護衛隊によって危険魔物は排除されているが、長年まともな保守がされていなかった空間は、それ自体が人間を拒絶するような不気味な静けさを保っていた。
「……梶谷さん。本当にこれで良かったんですか?」
ヘルメットのライトで前方を照らしながら、朱里が小声で尋ねた。
「何がだ」
「いえ、その……前の部署の人たちは『全作業を一括で、しかも安全費を削って安くやれ』って言ってましたよね。それを断ったのに、同じ会社の別の事業部から『先行踏査だけ』をお願いされるなんて。なんだか、会社の中で意見が割れているみたいで」
「割れているんだろうな。現場を知らないで数字だけを見ている連中と、現場が動かなくて本当に困っている連中で」
朔は手元のタブレットで図面を開いたまま、淡々と答えた。
「丸抱えの博打は打たないと言ったはずだ。俺たちは今回、この遠見中継所の『先行踏査と安全設備の設置』だけを分割で請け負っている。俺たちの見積もった安全基準と費用が正しいことを、この調査で証明してやるだけだ」
もしあの時、目先の利益に目が眩んで安値の丸抱え契約にサインしていれば、今頃は限られた工期に追われ、碌な事前調査もできないまま重量資材の搬入を強行させられていただろう。
それは現場の人間の命を、ロシアンルーレットに賭けるようなものだ。
「早瀬、図面ではこの先がメインの搬送路だ。音はどうだ」
「やってみます」
慧が立ち止まり、聴覚保護具をずらしてレンチで手すりを短く叩いた。
カンッ、カンッ、という澄んだ打音が地下通路に響き、反射して戻ってくる。慧はその音の反響を拾い、同空間内の二十メートル以内にある硬質物体の配置を脳内で再構築していく。
「……おかしいですね」
数回の打音の後、慧が首を傾げた。
「先の床に、欠けて開いている点検格子があります。その下から金属の反響が返っています。床が塞がっている所までは、俺には分かりません」
慧は進入限界の手前から、露出した硬い縁と支持材の位置を示した。
朔は荷を入れずに止まり、照明と点検用の鏡で、開いた格子から見える範囲を確認した。支持材の一つが腐食して外れ、通路の下へ垂れている。
「見えている損傷だけで、通行を止める理由になる。残りの床は、所有者の設備担当と別の測定で調べよう」
格子の手前に柵を置き、未確認の床を含めて通行禁止にする。図面上では搬入資材を通す予定の場所だった。
朱里が青ざめた顔でそのマーキングを見つめた。
「相沢、退避ルートの確認はどうなっている」
「あ、はい! 今見てきます!」
朱里は通行止めの柵より手前の足場を確かめ、図面上で『緊急時の退避用枝道』として指定されている横穴を、通れる範囲から目視で確認していった。
だが、すぐに彼女の切羽詰まった声が響いた。
「梶谷さん! ダメです、この枝道、使えません!」
朔と慧が駆けつけると、朱里の立つ枝道の入り口は、過去の小規模な崩落によって生じた瓦礫の山で完全に塞がっていた。
「これも図面と違う……。逃げ道だと思っていた場所が、ただの行き止まりになっています」
朱里は手元のマップに大きくバツ印を書き込み、現在自分が立って安全を現認した通れる通路にだけ、《路標》の青白い光を置いた。
「最大三個しか置けませんが、これで迷い込むことは防げます」
「よくやった。だが……ゾッとするな」
朔は、塞がった退避路と、先ほどマーキングした陥没の危険がある床を交互に見やった。
「あの会議室で、安全費と護衛費を削る条件を呑んでいたら……俺たちはこの塞がった退避路を背にして、いつ床が抜けるか分からない通路で、ろくな装備もなく重量物を運ばされていたことになる」
それは、間違いなく死亡事故に直結する現場だ。
朔の「段階検収に分け、安全費を削らない」という経営的な判断は、単なる強がりや利益の追求ではなく、現場の命を救うための絶対の防衛線であったことが、この調査によって強烈に可視化されたのだ。
「これが、安値工事の実態だ。保護具と退避時間を削れば、しわ寄せは全て作業員の命に向かう」
朔はタブレットのカメラ機能を起動し、塞がった枝道と陥没した床の写真をフラッシュを焚いて何枚も撮影した。
「この証拠を持ち帰る。俺たちの出した見積もりが『過剰』だったか『必要最低限』だったか、発注者に思い知らせてやる」
数時間後。遠見中継所の地上に設けられた管理会社のプレハブ事務所。
朔たちから提出された写真と環境測定のデータ、そして修正された現況マップを見せられた別事業部の担当者は、顔面を蒼白にして口をパクパクとさせていた。
「こ、これは……。図面と全く違うじゃないか。開いた格子の下で支持材が脱落? 退避路が塞がっている? こんな状態で、もし前の部署の計画通りに一括発注して、無理に工事を進めていたら……」
「この状態を見ずに搬入していたら、床の損傷や転落の危険を見落としていました。工程を作り直す必要があります」
朔は腕を組み、冷徹な声で事実を突きつけた。
「古い設備を開けてみれば、図面通りにいかないイレギュラーが必ずある。だから俺たちは、現場の不確定要素を分割し、安全を担保するための『先行踏査』を要求したんだ」
担当者はハンカチで額の冷や汗を拭い、深く頭を下げた。
「……梶谷代表。おっしゃる通りです。御社の主張する安全費用と、段階を踏むことの重要性が、痛いほど理解できました。前の部署の無理な要求は、私が責任を持って社内で差し戻します」
担当者は、朔が以前提示していた「段階検収案」の契約書を改めて机の上に広げた。
「今日確認済みの先行踏査分は、部分検収として承認します。続く『現場補修』および『段階試験と更新』につきましても、御社の提示した安全基準と労務費を全額承認し、正式に契約を結ばせていただきます。……どうか、引き続きよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。適正な対価と安全が保証されるなら、俺たちは最高の仕事を提供する」
朔は迷いなく契約書にサインを書き込んだ。
その日の夕方。
先行踏査の残りの作業として、朔と朱里は中継所の地下にある小さな設備資料室で、今後の更新工事に必要な古い配管図や保守記録の束を探し出して整理していた。
カビ臭い棚の中から引っ張り出した紙の束は、湿気で張り付き、文字が読みにくくなっているものも多い。
「梶谷さん、この束はどうしますか? 遠見中継所のものじゃなくて、別の施設の名前が書いてありますが」
朱里が埃を払いながら、一つの分厚いバインダーを差し出した。
「別の施設? なぜこんなところに」
「ここら一帯の地下インフラを管理するための、地域共同の安全管理資料として一緒に保管されていたみたいです。名前は……『潮見環坑』って書いてあります」
その名を聞いて、朔の手がピタリと止まった。
潮見環坑。霞浜市の都市機能に直結する、巨大な公的インフラ設備。
以前、水門迷宮の復旧を終えた際、公社の検収責任者である水野が「潮見環坑の保守が先送りになっている」と懸念をこぼしていたのを思い出した。
「……貸してみろ」
朔はバインダーを受け取り、パラパラとページをめくった。
そこには、遠見中継所と同じように数十年前の古い設計思想で作られた巨大な設備の図面と、過去に行われた保守点検の記録がびっしりと綴じられていた。
だが、最新の数年分の点検記録を追っていた朔の目が、ある一箇所でスッと細められた。
「梶谷さん? 何かおかしなことでも……」
「……いや。まだ断定はできないが」
朔は、遠見中継所で冬佳が直す予定になっている、摩耗した連結機構の図面と、潮見環坑の保守記録のページを見比べた。
二つは規模も用途も違う全く別の機械だ。しかし、そこに記載されている「経年劣化の傾向」と「保守が延期された理由」の記述に、ひどく嫌な共通点を感じ取っていた。
「この古い記録……少しだけ、持ち帰って調べ直す必要があるな」
朔はバインダーを小脇に抱え、薄暗い資料室を後にした。
勝利の余韻の裏側で、都市の地下に眠る巨大な危機が、書類の束の中から静かに目を覚まそうとしていた。




