第32話 その工期では受けられません
遠見中継所の設備管理会社から「安全費を削れば受注させてやる」というメールを受け取ってから数日後の、D86。
梶谷朔は、南野深雪、塚原千紗、そして羽鳥澪の三人を伴い、依頼主である管理会社の会議室に座っていた。
「梶谷代表。メールでもお伝えした通り、御社の代替案では予算をオーバーしてしまいます。段階検収という形も社内の稟議を通しにくい」
長机の向かいに座る初老の担当者は、しかめっ面で手元の書類をトントンと揃えた。
「聞けば、御社には優秀な魔法の使い手が何人も揃っているそうじゃないですか。摩擦をなくしたり、空気を綺麗にしたりできるのなら、大げさな予備の制動機材や、高価な環境測定器の費用は削れるでしょう。護衛の数も最低限で済むはずだ。そうして見積もりを絞ってくれれば、すぐにでも全作業一括で発注できるのですがね」
担当者の言葉には、「魔法を使えばタダで解決できるだろう」という、現場を知らない人間特有の甘えと侮りが透けて見えた。
朔は腕を組み、冷ややかな視線で担当者を見据えた。
「お断りします。安全設備と保険料、護衛費を削るという提案には、一切応じられません」
「……梶谷さん、それでは交渉になりませんよ」
「交渉以前の問題です。魔法を、安価で都合の良い万能労働力として扱うような現場は、必ず事故を起こす」
朔が言い切ると、彼の隣に座っていた深雪が、穏やかだが刃のように鋭いトーンで言葉を継いだ。
「担当者様。搬送において、予備の制動器や巻き上げ機のワイヤー交換費用を削るということは、万が一斜面で台車が暴走した際の『撤退余力』を捨てるということです」
物流のプロフェッショナルである深雪は、一切の妥協を許さない目で担当者を見た。
「私の《摩擦調整》は、あくまで発進時の三秒間だけ床を滑りやすくする補助にすぎません。重力を消すわけでも、慣性を止めるわけでもない。物理的なブレーキの予備を持たずに重量物を運ばせようとするのは、命綱なしで崖を登れと言うのと同じです」
「い、いや、しかし過去の記録を見れば、そんな事故は滅多に……」
「『滅多に起きない』から備えを削れと言うのなら、環境安全の観点からも絶対に同意できません」
今度は、環境安全監督の千紗が凛とした声で反論した。
「古い設備の中には、どんな有毒ガスや粉塵が滞留しているか分かりません。目に見えない危険から作業員を守るための高機能な保護具と、それを可視化する測定器は必須です。この予算を削れば、現場で危険基準を超えた際の『退避判断』が遅れます。人命に関わる備えを削る契約書に、私はサインできません」
現場の第一線で命を預かる専門家二人の正論に、担当者は言葉を詰まらせた。
だが、彼も会社から予算を死守するよう命じられている身だ。顔を赤くして、苛立たしげにテーブルを叩いた。
「……そこまで頑なに譲らないと言うなら、他社に頼むしかありませんな。御社の実績は評価していますが、この条件で受けてくれる業者は他にもいるはずだ」
それは、明確な失注をチラつかせた圧力だった。
報酬額は桁違いに大きい。ここで席を立てば、会社にとって莫大な利益を取り逃がすことになる。
重苦しい沈黙が会議室に落ちかけた、その時だった。
「他社の方法は分かりません。でも、私たちがこの方法で受けるなら、削れる時間はここにはありません」
静かな、だが確かな響きを持った声が上がった。
声の主は、今まで朔たちの後ろで黙々と記録を取っていた羽鳥澪だった。
彼女は立ち上がり、手元のタブレットを担当者の前に滑らせた。
「なんだ、これは」
「私たちがこれまで担当してきた、全現場の『時刻、計器読取値、人員の点呼』の記録データです」
澪は、画面に表示されたグラフやタイムラインを指差した。
「魔法には、再使用までのクールダウンや、発動前後の安全な待機時間が必要です。人間の集中力にも限界があります。この記録を見ていただければ、一つの作業を安全に行うために、どれだけの『確実な時間』と『労務費』がかかるか、一目瞭然のはずです」
かつて、白稜で「役に立たない」と切り捨てられ、自分の技能の価値を見失っていた少女。
彼女は今、自分が積み上げてきた地道な『記録』を武器にして、堂々と大企業の担当者と渡り合っていた。
「例えば前の現場では、換気の停止判断から再測定までに一勤務分かかっています。その待機費用を抜いて契約すれば、同じことが一度起きるだけで、次の現場へ回す給与原資を削ることになります」
澪は受注した場合と見送った場合の資金表を並べた。
「見送れば売上は増えません。でも、今の継続契約と賃金の原資は残ります。受けた後の追加勤務まで無償になる方が、会社を長く続けられません」
澪は真っ直ぐに担当者の目を見た。
「私たちは、自分たちの仕事の対価を不当に値切られるいわれはありません。正当な安全待機時間と労務費が支払われない契約は、受けるべきではないと思います」
「……よく言った、澪」
朔は小さく口角を上げ、立ち上がった。
「彼女の言う通りだ。うちの会社は、利益のために仲間の安全と生活を天秤にかけるような真似は絶対にしない」
朔は、自分が作成した代替提案書(段階検収案)を担当者の前に突きつけた。
「俺たちの提案はこれだけだ。全作業を一括で抱える危険な博打は打たない。作業範囲と不確定な追加工事のリスクを分割し、適正な安全費を含めた『段階検収』。さらに……」
朔は提案書の一項目を指先で強く叩いた。
「遠見中継所のように通信が不安定になる現場を想定し、『現場で遠隔通信が不能になった場合でも、環境安全監督や現場の班長が独立して作業の中止・退避を決定できる権限』を契約に明記する。……これが呑めないなら、喜んで辞退させてもらう」
通信不能時にも適用される強力な現場停止権。それは、利益を最優先する発注者にとっては極めて都合の悪い条項だ。
担当者は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「……こんな非常識な要求が通るわけがない! 交渉は決裂だ。帰っていただこう!」
「ええ。失礼します」
朔は一切の未練を見せず、部下たちを連れて会議室を後にした。
「……やっちまったな」
依頼主の建物を背にして、朔がため息混じりに頭を掻いた。
「過去最大の案件を、見事に蹴り飛ばしちまった。当分、事務所の茶菓子は安物になるぞ」
「構いませんよ。命より高い茶菓子なんてありませんから」
深雪が穏やかに笑い、千紗も「梶谷代表が私たちの要求を通してくれたこと、感謝します」と深く頭を下げた。
「朔さん、私……少し出過ぎた真似をしてしまったでしょうか」
澪が不安そうに見上げてくる。
「いや、完璧だった。お前のあの記録データがなければ、ただの感情論で終わっていた。よくやってくれた」
朔は澪の資料を返さず、次の提出書類の先頭へ入れた。彼女はそれを見て、小さく息を吐いた。
四人が探索ギルド霞浜支部の前まで戻ってきた時のことだった。
「あ! 継路の梶谷代表! お待ちしておりました!」
ギルドの入り口から、窓口担当の職員が小走りで駆け寄ってきた。
「どうした。またどこかで水漏れか?」
「いえ、違うんです。実は先ほど、ある依頼主から御社を名指しで『急ぎの打診』がありまして」
職員が差し出した書類の依頼主名を見て、朔は思わず目を丸くした。
「……遠見中継所の、設備管理会社?」
「はい。ですが、先ほどまで交渉されていた部署とは別の、調査・分析を専門とする別事業部のようです」
職員は興奮気味に説明を続けた。
「先方曰く、『安全第一を掲げ、不当な工期短縮を突っぱねる御社のスタンスを高く評価している』とのことです。つきましては、全工程を一括で任せるのではなく、まずは危険範囲を限定した『先行踏査』のみを、御社の希望する安全条件と分割発注で依頼できないか、と」
朔と部下たちは、顔を見合わせた。
無茶な条件を断り、自らの基準を守り抜いた結果が、巡り巡って別の形で「正当な契約」として返ってきたのだ。
「……段階検収への合意か。値下げしない勝ち方ってやつだな」
朔は口元にニヤリと笑みを浮かべ、その書類を受け取った。
「受けて立つ。俺たちの現場攻略を見せてやろう」




