第31話 売上が増えても苦しい
白稜との合同任務による実績が公開され、ギルドを通じて継路に多数の依頼が舞い込むようになって数日が経過した、D82。
霞浜市内にある継路の事務所では、テーブルの上に広げられた巨大な図面と分厚い契約書を囲み、朔、冬佳、深雪の三人が真剣な顔つきで向き合っていた。
「これが、高峰から相談を受けた『遠見中継所』の旧式排水・搬送設備の更新案件だ」
朔は手元のタブレットを操作し、自身が作成した見積もりのスプレッドシートをモニターに表示させた。
「依頼主は、遠見中継所の設備を管轄している民間管理会社。すでに白稜をはじめとした護衛隊が危険魔物の排除を完了しているが、その後の設備更新を引き受ける業者がおらず、宙に浮いている。……見ての通り、提示されている報酬額は、うちが今まで受けてきたどの依頼よりも桁違いに大きい」
モニターに映し出された最終的な金額を見て、冬佳と深雪が小さく息を呑んだ。
「すごい額ですね……。これが成功すれば、うちの会社の設備投資や皆の給与基盤が一気に安定します」
「一括成功報酬のままでは受けない。その点は高峰にも伝えた。問題は、条件を変えた後の金額だ」
朔は自信ありげに頷き、シートの数値をペン先で指し示した。
「先方が提示している工期はかなり短いが、俺が組み直したこの工程表通りに無駄なく作業を進めれば、十分に間に合う。予定通りに最短で抜けられれば、外注の護衛費や機材のレンタル期間も最小限で済む。各種経費を差し引いても、これまでの案件より厚く利益を残せる計算だ」
朔の立てた計画は、時間と人員の配置がパズルのように完璧に噛み合わされていた。無駄な待機時間は一切なく、最短ルートで全ての更新作業を終えられるように組まれている。
彼の中では、すでに遠見中継所の攻略は机上で完了していた。
しかし。
「……梶谷さん。少し待ってください」
図面と見積もりをじっくりと見比べていた冬佳が、眉をひそめて顔を上げた。
「この見積もり、あまりにも楽観的すぎませんか」
「楽観的? 俺の工程表に隙はないはずだが」
「工程表が完璧でも、現場は図面通りにはいきません。梶谷さんも分かっているはずです」
冬佳は、図面に描かれた古い配管のジョイント部分をトントンと叩いた。
「これは三十年前の旧式設備です。いざ開けてみたら、図面と現物の寸法が違っているなんて日常茶飯事です。交換部品がそのまま収まらず、現場でアルミ材を削ってアタッチメントを作らなければならないかもしれない。そのための『追加部材の費用』と『加工にかかる時間』が、この見積もりには一切計上されていません」
「……」
「それに」
今度は、物流担当の深雪が穏やかだが厳しいトーンで言葉を継いだ。
「搬送の観点からも、バッファが足りません。遠見中継所は道が入り組んでいて、重量資材の搬入に予想以上の時間がかかる可能性があります。もし荷運びで半日遅れが出た場合、予定していた外注の護衛隊には『待機費』や『延長費』を払わなければならない。その予備費がゼロというのは、危険すぎます」
二人の専門家からの鋭い指摘が、朔の胸にグサリと突き刺さった。
朔は、ハッとして自分の作った見積もりを見直した。
現場での安全確認においては、俺は「例外」を軽視しないよう徹底してきたはずだ。朱里の道案内の時も、千紗の停止権の時も、現場の声を優先した。
だが、経営者として机の上で数字を弾き出す段になった途端、俺はまた「自分の立てた完璧な計画」を過信し、現場で起こりうる不確定要素(例外)を無意識のうちに切り捨てていたのだ。
計画通りに進めば上手くいく。そう思い込むのは、部下に重傷を負わせた過去の俺の悪い癖そのものだった。
「……すまん」
朔は素直に頭を下げ、モニターの数値を複製し、当初案として保存した。
「二人の言う通りだ。俺は報酬の額に目が眩んで、現場の例外費用を無視していた。……霧島さん、南野さん。現物と図面が食い違った場合の追加部材費、加工時間、そして搬送の遅れによる護衛の延長費を算出してみてくれ」
「わかりました。過去の旧型設備の傾向から、必要な追加パーツの概算を出します」
「私は、搬送の遅延パターンを三つほど作成して、護衛費の最大延長コストを割り出しますね」
二人がそれぞれの専門知識を元に、現場で起こりうる追加作業を想定したコストを次々と挙げていく。
朔はそれらの例外費用を、全て見積もりに上乗せして再計算を行った。
「……出たな」
数十分後。再計算されたスプレッドシートを見た三人の間に、重い沈黙が落ちた。
莫大だと思われていた利益は、現場の現実的な例外費用と、確実な安全を担保するための保険料によって相殺され、ほとんど吹き飛んでいた。
「……手元に残る金は、ごくわずかですね」
深雪がため息をつく。
「これでも、無事に終わればの話だ」
朔は画面を睨みつけた。
「さらに厄介なのは、先方の要求している『短納期』だ。この現実的な作業工程で納期に間に合わせようとすれば、単純に作業員と護衛の数を倍にしなければならない。そうなれば、確実に赤字になる。安全と速度を両立させることは、この金額では不可能だ」
「だから、他の業者も次々と辞退していったんですね……」
冬佳が納得したように呟く。
「この工期と『全作業完了後の一括成功報酬』のままでは、うちの会社が潰れるか、利益を出すために安全費を切り捨てるしかなくなる」
朔はタブレットを手に取り、見積書のフォーマットを大幅に書き換え始めた。
「梶谷さん、どうする気ですか? 依頼を辞退しますか?」
「いや。仕事自体はうちの専門だ。だが、丸抱えの博打は打たない」
朔は、全作業を一括で引き受ける契約条項を削除した。
「作業を三つの段階に分割する。『先行踏査による現況確認』、『安全設備の設置と現場補修』、そして『設備の段階更新と試運転』だ。不確定な追加工事のリスクを減らすため、それぞれに着手金と段階検収を設定する」
「なるほど。これなら、最初の踏査で図面との決定的な違いが見つかっても、その分の対価は確実に支払われますし、その後の契約を修正することもできますね」
「そうだ。短納期は約束できない。だが、合意した範囲を検証しながら進めることは約束する。これがうちの『値下げしない勝ち方』だ」
朔は完成した代替見積もりと条件変更案を、遠見中継所の設備管理会社宛てに送信した。
それから数時間後。
夕暮れ時の事務所で、返信を待っていた朔の端末が鳴った。
「……先方から回答が来た」
朔が画面を開くと、冬佳と深雪も後ろからモニターを覗き込んだ。
そこに書かれていた文面を見て、三人の顔が一斉に険しくなった。
「……段階検収は認めない。工期も一括成功報酬も、当初の条件通りでなければ発注はできない、か」
冬佳がギリッと歯噛みする。
そして、メールの末尾には、信じがたい一文が添えられていた。
『ただし、御社が提出した見積もりの中にある、過剰な「安全設備費」および「予備の護衛費・保険料」を削って当初の額面に収めるのであれば、このまま御社に受注させてやってもよい』
「……ふざけてる」
深雪が、いつも穏やかな声を冷たく尖らせた。
それは、利益と引き換えに、現場で働く人間たちの命綱を売り渡せという露骨な圧力だった。
売上が増えても、現場が危険に晒されるのであれば、それは会社としての死を意味する。経営という新しい戦場において、朔たちは次なる困難な交渉の壁の前に立たされていた。




