第3話 引き返す判断
「計画修正だ。内部に入る前に、安全線を設定し直す」
水門本体へと続く薄暗い通路の入り口で、梶谷朔はタブレットに表示していた白稜の作業図面を容赦なくスワイプして消した。
「いいんですか? それ、Sランククランが残していった公式の図面ですよ」
羽鳥澪が目を丸くするが、朔は腰のポーチからアナログの巻尺とチョークを取り出しながら首を振った。
「現場において、現物と合わない図面ほど危険なものはない。早瀬が手前で反発音を聞いたというなら、そこに『何か』がある。図面上の三十メートル先ではなく、入り口から十五メートルを当面の進入限界とする。そこまでの通路も、一段ずつ確かめる」
朔は通路の床にチョークで太い白線を引いた。
「これより先は魔力ノイズが濃くなる。撤退の合図は俺の肩叩きか、音声による明確な『引け』の一言だ。いいな?」
「はい」
「分かりました」
慧と澪が真剣な顔で頷くのを確認し、朔は先頭に立って霧の中へ足を踏み入れた。
本体水門の内部は、先日作業した支管とは比べ物にならないほど魔力圧が高かった。
乳白色の霧のような魔力ノイズが立ち込め、携帯照明の光を乱反射させる。朔が持っている電子式のレーザー測距儀も、数メートル先からエラー値を吐き出し始めた。だが朔は慌てることなく、壁面に沿って敷設されている手動の機械式圧力計を一つずつ目視で確認し、手書きのメモパッドに数値を書き込んでいく。
「……朔さん。この先です」
十五メートルほど進んだところで、慧が立ち止まった。聴覚保護具をずらし、前方の霧をじっと見つめている。
「よし。安全線をここに再設定する」
朔は足元に再びチョークで線を引いた。
「俺と澪で周囲の警戒に当たる。早瀬、一度だけだ。《反響測位》で前方の構造を割り出してくれ」
「了解です」
慧は小さく深呼吸をし、腰から取り出した金属製のレンチを、傍らの太いパイプに打ち付けた。
カーンッ。
高く澄んだ打音が、霧の奥へ向かって波紋のように広がっていく。
数秒の静寂。慧は目を閉じ、返ってくる微細な残響音を脳内で三次元の構造に組み上げていく。
「……分かりました。十五メートル先ではなく、ここからわずか五メートル先です。巨大な金属の塊が、通路を斜めに塞ぐように引っかかっています」
「形は? 壁の崩落か、それとも設備そのものか」
「設備です。図面に描かれていた『連結部』の形状と一致します。それが本来の位置まで降りきらず、案内部のレールに食い込んで止まっています。……レールとの接点に、歪んだピンのような硬い突起の反響がありました。それがストッパーになって、全体が固着しているんだと思います」
「連結部が止まっている位置は分かった。ピンかどうかは、拡大写真と設備票で確かめよう」
朔は安全線を越えず、携帯照明を連結部へ向けた。照明の角度を変えると、レールとの接点が霧越しに見えた。カメラの望遠で停止箇所を撮り、保存した画像にその接点が写っていることを確かめる。
朔が慧の報告をメモパッドに書き留めた、その時だった。
グルルルゥゥ……ッ。
霧の奥、通路を塞ぐ連結部の向こう側から、獣のような低い唸り声が響いた。
慧のレンチの打音に反応したのだ。這いずるような複数の足音が、徐々にこちらへ近づいてくるのが分かる。
「っ、来ます!」
澪が反射的に身構え、朔との距離を測る。彼女の《遅延強化》を使えば、朔の打撃力を底上げし、接近してくる魔物を強行突破できるかもしれない。澪の目には、戦う意志が宿っていた。
だが、朔の表情は違った。
霧の奥から迫る見えない脅威。そして、目の前にある「予定と違う現場」。
その二つが重なった瞬間、朔の端正な顔に、一瞬だけぞっとするような暗い翳りが落ちた。
手袋の中で、指が強張った。別の現場で聞いた、短い制止の声が耳に残っている。朔は記憶を追わず、目の前の二人の退路を確認した。
朔は小さく息を吐き出し、すぐに冷徹な現場監督の顔に戻った。
「引くぞ」
「えっ?」
「修理はしない。目的の情報は得た。澪は最後尾で警戒、早瀬は俺の背中を追え。走るぞ!」
朔の短く鋭い命令に、澪は一瞬呆気にとられたが、すぐに我に返って踵を返した。
無理な戦闘も、強行突破のスキル発動も一切行わない。三人は事前に確認していた撤退ルートを全速力で駆け戻り、魔物の追撃が届く前に安全な点検区画のプレハブ小屋まで退避を完了させた。
「はぁ……はぁ……」
プレハブ小屋の扉を閉め、重い鍵を下ろした慧が、膝に手をついて荒い息を吐いた。
「すみ、ません……俺が音を出したせいで、魔物を呼んでしまって」
「謝るな。打音による誘敵は事前の計画に織り込み済みのリスクだ」
朔は息一つ乱さず、ヘルメットを脱いで机に置いた。
「むしろ、完璧な仕事だった。あのまま古い図面を信じて十五メートル先まで無警戒に進んでいれば、通路を塞ぐ連結部と魔物に挟まれて全滅していたかもしれない。お前の慎重さと能力のおかげで、被害ゼロで戻ってこられたんだ」
「……」
慧は呆然と朔を見た。
何も成果を上げていない。魔物から逃げ帰ってきただけだ。それなのに、自分の測位が大成功だったと断言されている。自分の出した情報が、命を守るための正当な根拠として扱われたことに、慧の胸の奥で静かな熱が広がった。
「朔さん。でも、逃げ帰ってきちゃったら、本体水門の修理はできないんじゃ……」
澪が心配そうに尋ねると、朔は机の上にメモパッドを広げた。
「俺たちは成果ゼロで帰ってきたわけじゃない。最大の成果は『停止原因の特定』だ」
朔は慧が読み取った連結部の構造スケッチと、自分が内部で記録してきた機械式圧力計の数値記録を並べた。
「早瀬が示した停止箇所を、持ち帰った拡大写真で確認した。連結部を止めているのは固着したピンだ。そして俺が記録した圧力計の動きによれば、本体水門に流れる魔力圧は常に一定じゃない。大きなうねりのような周期がある。……つまり」
「支管の時と同じように、圧力が下がるタイミングなら、ピンを抜けるってことですか?」
澪の言葉に、朔は頷いた。
「そうだ。支管の十一秒とは別の、約十八秒周期だが、負荷が下がる短時間は必ず存在する。その一瞬を突けば、あの巨大な連結部を動かすことができる」
原因は分かった。攻略の糸口は見えた。
だが、朔が公社から支給されているタブレットを開き、本体水門全体の最新モニタリングデータを読み込んだ瞬間、彼の眉間が険しくなった。
「……まずいな」
「どうしたんですか?」
「水門本体の圧力が、予想をはるかに超える速度で上昇している。さっき魔物が活性化していたのも、この魔力圧の異常上昇が原因だろう」
朔はタブレットの画面を指で叩いた。
「このまま圧力が上がり続ければ、水門そのものが決壊する。本来なら次の定期停止期間を待って安全にピンを抜く計画を立てたかったが、そんな猶予はない」
朔は立ち上がり、工具帯を締め直した。
「こちらから仕掛けるしかない。圧力が限界を迎える前に、一時的に負荷が下がる波を見極めて、ピンを叩き抜く」
「それって、また私と朔さんで……でも、さっきみたいに魔物が出たらどうするんですか?」
「だから、追加の準備をする。危険基準を超えた状態で作業はさせない」
朔は連絡機を手に取り、迷宮管理公社の検収責任者である水野の回線を呼び出した。
「俺だ。本体水門の停止原因を特定した。これより緊急の作業許可を再申請する。合わせて、退路を確保するための独立した護衛業者の手配を急いでくれ。――攻略を終わらせるぞ」
公社からの折り返しで、上流の取水を制限し、圧力の上昇を抑えながら監視を続ける措置が決まった。異常が進めば周辺の退避を優先する。次の定期停止まで待てる対策ではないが、護衛と工具を揃える時間は確保できる。
朔は作業票に、再突入までに揃える条件を書き付けた。急ぐべきなのは、準備を飛ばすことではない。




