第2話 音を出すと魔物が来る
翌日。水門管理所に隣接した安全な点検区画のプレハブ小屋で、朔は折り畳み机の上に数枚の書類を並べていた。
向かいのパイプ椅子に座っているのは、昨日から合同会社『継路』の臨時協力者となった羽鳥澪だ。
「朔さん、本当にありがとうございました」
澪は深く頭を下げ、真剣な眼差しを朔へ向けた。
「私、白稜との契約が終わって、もうダンジョン関係の仕事はないと思ってました。でも昨日、あの狭い場所で私の能力を使ってもらって、働ける場所があると分かって……」
彼女はぐっと両手を握りしめる。
「だから、恩返しのためなら何でもします。お給料なんていりません。タダでもいいので、ずっと朔さんの会社で働かせてください」
「却下だ」
朔は手元のタブレットから目を離さず、即座に切り捨てた。
「えっ……」
「一つ勘違いしているようだが、昨日俺が救ったのは公社の作業員だ。君の命の危機を救ったわけじゃない」
朔は顔を上げ、困惑する澪を真っ直ぐに見据えた。
「俺は君の技術を評価して、適正な労働の対価を払った。それだけだ。仕事の報酬を恩義や私情で安売りするな。そんなことをすれば、いずれ必ず安全基準が疎かになる」
「あ……」
「うちは危険区域の現場を請け負う会社だ。無償の奉仕なんて不健全な契約を結ぶつもりはない。昨日の仕事ぶりなら、十分に金を払う価値がある」
朔は机の上の書類を一葉、澪の方へ滑らせた。
「だから、改めて有償の臨時契約を結ぶ。時給と業務範囲はそこに書いてある通りだ。それから、ここが一番重要だが……君には、現場で『中止権』を与える」
「ちゅうしけん、ですか?」
「そうだ。俺の計画に無理があると感じたり、君自身が設定された安全基準を超えたと判断した場合、君の権限で作業を止めていい。俺に逆らう形になっても構わない」
澪は目を丸くして書類の条項を見つめた。
白稜の高速戦闘では、異常を指揮者へ報告しても、返答を待つ間に前衛が次の敵へ移っていた。自分の判断で全体の手順を止める役目は、経験していない。
「……私の判断で、止めてもいい」
「現場の現認が最優先だ。計画書より目の前の危険を信じろ。それがうちのルールだ」
「……はいっ。よろしくお願いします!」
澪は姿勢を正し、力強く書類にサインを書き込んだ。
朔がそれを受け取ったちょうどその時、プレハブ小屋のドアが控えめにノックされた。
「あ、あの……合同会社『継路』さんでしょうか。面接に伺いました、早瀬、です」
入り口に立っていたのは、くせのある短い茶髪の青年だった。年齢は朔より少し下の二十代半ば。作業着の首元には、ごつい聴覚保護具を下げている。
「早瀬慧だな。入ってくれ。水門本体の調査で、索敵や測位ができる人員を探していた」
朔がパイプ椅子を勧めると、慧は落ち着かない様子で腰を下ろし、チラチラと朔と澪の顔を交互に見た。
「あの、最初にお伝えしておかないといけないんですが……俺の能力、戦闘系のクランでは全く役に立たないって言われてまして。索敵としては、致命的な欠陥があるんです」
「構わない。能力の仕様を正確に教えてくれ」
朔が促すと、慧は申し訳なさそうに視線を落とした。
「俺の能力は《反響測位》です。音の反響を使って、同じ空間にある二十メートル以内の『硬い物体』の位置が分かります」
「音波探知のようなものか」
「はい。でも、欠陥だらけなんです。まず、自分が声を出したり、物を叩いたりして音を発生させないと測位できません。だから、ダンジョンの中で使うと魔物を呼び寄せてしまいます」
慧は自分の膝をぎゅっと掴んだ。
「それに、壁の向こう側までは音が届かないから透視はできませんし、肉体や生き物の位置を測る能力ではありません。音を出して敵を誘き寄せるくせに、敵の姿は正確に分からない……だから、いつも怒られてばかりで」
慧の声は尻すぼみになっていく。だが、朔の表情は全く変わらなかった。
彼はタブレットに慧の能力の制限事項を淡々と入力していく。
「なるほど。発声音や打音による誘敵リスク。同室の連続空間、二十メートル以内。対象は硬質物体限定。壁越しの透視不可。……仕様は理解した。試してみよう」
「えっ? 試すって、ここでですか?」
「ここは入り口の安全区画だ。魔物は入ってこない」
朔は立ち上がり、プレハブ小屋の奥にある金属扉を開けた。そこは水門の管理通路に繋がっており、本体から漏れ出した魔力ノイズが薄い霧のように立ち込めている。肉眼では十メートル先も見通せない。
「この霧の向こう、通路の突き当たりにある配管の配置を測位してくれ」
慧は戸惑いながらも立ち上がり、首にかけていた聴覚保護具を耳に当てた。そして、腰のポーチから金属製の小さなレンチを取り出し、近くの手すりを軽く叩いた。
カンッ、という高い音が通路に響く。
慧は目を閉じ、音が空間に広がって跳ね返ってくるわずかな残響に意識を集中させた。
「……通路は十五メートル先で右に曲がっています。その角の手前、床から一メートルの高さに、太い金属管が三本。一番上の管には、大きなハンドル式のバルブがついています」
朔は無言で霧の中へ歩き出し、十数秒後に戻ってきた。
「完璧だ」
朔の口角がわずかに上がる。
「目視できないバルブの位置と高さを正確に当てた。十分使える」
「でも……本番のダンジョンで音を出したら、さっきも言った通り魔物が寄ってきます。戦闘になったら俺は足手まといに……」
「なら、安全な状況でしか使わせない」
朔はきっぱりと言い切った。
「君の能力を、戦闘中の索敵や隠れた敵を探すためのものだと考えるから欠陥に見えるんだ。測位は、魔物がいないと確認できた安全な状況下か、護衛が確保された状態でだけ行う。君の仕事は魔物を探すことじゃない」
「魔物を探さない?」
「ああ。君の役割は、図面に描かれている硬い構造物が『今、実際にどこにあるか』を測ることだ。それから、退路となる通路が崩落で塞がっていないかの現況確認だ。それなら、音を出しても安全に対処できる」
慧は呆然と朔を見つめた。
「俺の、この能力で……いいんですか?」
「分かる範囲を正確に言ってくれる方が、任せられる。見えていない場所は、別の方法で確かめればいい」
朔は新しい雇用契約書を慧へ差し出した。
「君のその慎重さは、うちの会社では安全のための立派な武器になる。時給と業務範囲はそこに書いてある。危険なら作業を止める権利も同様だ。どうする?」
「……やらせてください。よろしくお願いします!」
慧は躊躇うことなく契約書にサインをした。澪も隣で嬉しそうに微笑んでいる。
「よし。人員は揃った。さっそく本体水門の入り口へ向かうぞ」
三人は装備を整え、水門迷宮の奥深く、本体水門へと続く太い通路の入り口に立った。
ここから先は魔力ノイズが濃くなり、視界はさらに悪化する。電子式のレーザー測距儀も数値が乱れて使い物にならない。
朔は安全線の手前で立ち止まり、白稜から引き継いだ分厚い作業図面を広げた。
「いいか。図面によれば、この通路を三十メートル進んだ先に巨大な連結部がある。本体水門を動かすための要だ。まずはそこまで進んで、部品がどう壊れているのかを確認する」
朔がライトで図面を照らしていると、慧がふと顔を上げ、耳を澄ませた。
水門の奥からは、常にゴーッという重低音と、時折ガン、ガンという金属が打ち付けられるような音が響いてきている。
「……朔さん」
慧が、手元にある図面と、霧の向こうを交互に見比べながら口を開いた。
「どうかしたか」
「この図面、奥の構造と『現物』が違います」
朔の指が図面の上でピタリと止まった。
「どういうことだ?」
「奥で金属がぶつかる音がするたび、すぐ手前から別の響きが返るんです。まだ測位はしていないので、位置は断定できません。図面だけを頼りに進むのは、待ってください」
澪が不安そうに朔を見た。
「白稜が置いていった図面ですよ? 間違ってるなんてこと……」
「図面が古かったか、魔力圧の変動で構造自体が歪んだか。どちらにせよ、違うという申告がある。近づいて確かめるまで、図面を正しいとは扱わない」
朔はタブレットを操作し、当初の進入計画のファイルを閉じた。現場管理責任者としての冷徹な顔つきに変わる。
「計画修正だ。内部に入る前に、安全線を設定し直す」




