第28話 迂回路を守れ
D74、退避命令の直後。北支柱迷宮の奥深くで繰り広げられていた死闘は、想定外の事態によって大きく盤面を狂わされていた。
手負いとなった巨大な四足歩行のボス魔物が、白稜の誘導網を強引に突破し、梶谷朔たちが待機する西側の避難路――そして、致命的な亀裂を抱えた主柱の方角へと猛然と突進を開始したのだ。
ズシン、ズシンと岩盤を揺らす重い足音が、土煙とともに急速に迫ってくる。
「共同中止条件を満たした! 全員、直ちに退避しろ!!」
朔の怒号が、通信機越しに迷宮全体へ響き渡った。
彼は白稜の部隊に「足止めしろ」とは言わなかった。あの巨体の突進を無理に止めようとすれば、後衛の魔法使いたちは巨大な火力を放たざるを得なくなり、結果として亀裂の入った主柱に致命的な衝撃波を叩き込むことになるからだ。
最適解は、魔法の余波が届かない安全圏まで、一人の脱落者も出さずに全員で撤退すること。
「行くぞ! 後方の物資班と負傷者を先に行かせろ!」
朔が指示を飛ばす中、白稜の後方支援要員たちの間に一瞬の動揺が走った。前衛が突破されるという事態に慣れていない彼らは、暗く入り組んだ迂回路を前に足並みを乱しかけていた。
「こちらです! 慌てずに、私の光を追ってください!」
パニックを切り裂くように、澄んだ声が響いた。
地図ケースを提げた相沢朱里が、最後尾の集団の先頭に立っていた。彼女は声を少し張り、最後尾が自分を見つけられる位置へ立った。
「《路標》!」
朱里が短く唱えると、薄暗い迂回路の最初の分岐点の壁に、青白く発光する幾何学模様が浮かび上がった。
「あっちだ! 光の印を追え!」
白稜の隊員たちが、その明確な目印に向かって一斉に駆け出す。
朱里の《路標》は、同時に三個までしか設置できない。そして、壁越しや未踏の地には置けない。だが、彼女は戦闘前の事前偵察で、この迂回路の構造と危険な分岐を全て自らの足と目で現認し、記憶に刻み込んでいた。
「第二分岐、右です! 次の目印を出します!」
朱里は隊列の動きに合わせ、最後尾が通過した不要な標識を即座に消去し、前方の新たな分岐点に次の光を設置していく。
古いペンキやロープと違い、彼女の魔法は現況の変化に合わせてリアルタイムに更新される。暗闇の中で恐怖に駆られた人間にとって、常に視界の先にある『絶対に安全な道しるべ』の存在は、どんな強力な防壁よりも心を落ち着かせる効果があった。
「凄い……誰も迷わず、最短距離で退避できている」
隊列の横を並走しながら、冬佳が感嘆の声を漏らした。
朔もタブレットで人員の現在地を把握しながら、短く頷く。
「ああ。案内人としての彼女の真骨頂だ」
だが、ダンジョンという環境は、常に人間の都合通りにはいかない。
迂回路の中盤。地下水脈からの染み出しによって、コンクリートと岩肌の入り交じる床が極端に濡れ、急な下り勾配になっている難所があった。
魔物の接近を告げる地鳴りが背後に迫り、焦った白稜の若い魔法使いが、その濡れた傾斜に不用意に足を踏み入れてしまった。
「うわっ……!」
靴底が滑り、若い隊員の体勢が大きく崩れる。
重い杖を持ったまま背中から転倒すれば、後ろに続く他の隊員たちを巻き込んで玉突き事故を引き起こす。退避行動において、一箇所の停滞は即座に全滅へと繋がる致命傷だ。
朔が手を伸ばすよりも早く。
スッと、しなやかな影がその傾斜に滑り込んだ。
南野深雪だ。
「《摩擦調整》」
深雪は穏やかな声で唱えると同時に、手袋越しに濡れた床面へ掌をピタリと押し当てた。
魔法が発動した範囲は、転倒しかけた隊員の足元、わずか一平方メートルの面積。そして有効時間は、たったの三秒間。
だが、その三秒間だけ、氷のように滑るはずだった床面の摩擦係数が極端に引き上げられた。
「おっ……!?」
空回りしかけていた若い隊員の靴底が、まるで強力な接着剤を踏んだかのように、ギュッと床面を噛み締めた。
ギリギリのところで体勢を立て直した隊員は、そのまま勢いを殺して踏みとどまり、前傾姿勢を取り戻した。
「大丈夫ですか? 焦らず、歩幅を狭めて下りてください」
深雪がスッと立ち上がり、穏やかに声をかける。
「あ、ありがとうございます……!」
「後続の方も、ここからは減速を。床の摩擦を一時的に強くしますから、しっかりと靴底を押し付けて踏ん張ってくださいね」
深雪は迫り来る隊員たちの歩調に合わせ、次々と足元の摩擦を調整し、彼らの『制動動作』をピンポイントで補助していった。
彼女の魔法は、五百キロの魔鉱石を止めることはできないし、背後から迫る巨大な魔物の突進を物理的に押し留めることもできない。だが、パニックに陥った人間の足元を安定させ、二次災害を防ぐための「見えない手すり」としては、これ以上ないほど完璧に機能していた。
「……退避組、全員が安全圏の広間へ到達しました! 人員欠損なし!」
最後尾でタイムキーパーを務めていた澪が、タブレットの画面を確認して通信機に向かって叫んだ。
その報告を聞いた瞬間、最後尾で退路を守るように立ち塞がっていた朔は、深く息を吐き出した。
「よし。避難者は出た。白稜の帰還用の通路へ移るぞ」
朔が視線を上げた先。
退避の最中、前線では白稜が魔物と支柱の間に割って入っていた。
「そこまでだ、化け物!!」
後方から、鼓膜を劈くような高峰の怒号が響いた。
彼は白稜の精鋭部隊を引き連れ、魔物の背後へと完全に追いついていた。
だが、高峰は愛用の剣に強大な魔力を纏わせなかった。広範囲を吹き飛ばす殲滅魔法も部下に命じない。
彼が選んだのは、極限まで火力を絞り込んだ、鋭く精密な『牽制』だった。
シャアァァッ!
高峰の放った真空の刃が、魔物の後脚の腱を正確に切り裂く。決して周囲の支柱に衝撃を波及させない、洗練されたSランクの技。
「ギィヤァァァァッ!!」
痛覚を刺激された魔物が、狂乱して振り返る。
前衛部隊がすかさず盾を構え、挑発のスキルを使って魔物のヘイトを完全に固定した。
高峰は、朔たちが誰も逃げ遅れることなく退路を確保したからこそ、後方の安全を一切気にする必要がなかった。退避者の通路が開いたことで、彼は純粋な戦闘指揮官として、己の部隊の立ち回りのみに集中できたのだ。
「陣形を再構築! 奴を壁際に寄せろ! 衝撃波を東へ逃がすぞ!」
高峰の緻密な指揮により、魔物は再びジリジリと、元々指定されていた東の広場へと押し戻されていく。
互いの職能が最高の形で噛み合い、最悪の全滅シナリオは完全に回避されたかに見えた。
「……見事な連携だ。これで、討伐までは時間の問題だな」
安全な広間からその光景を見守っていた朔が、額の汗を拭って呟いた。
だが、彼の隣で露出した手すりへ短く打音を響かせた慧の顔色は、蒼白に染まっていた。
「梶谷さん……」
慧が、震える手で聴覚保護具をずらし、朔の袖を強く引いた。
「どうした、早瀬」
「ダメです……。魔物は東へ押し戻されましたが、さっきの突進と、地響きの余波が……」
慧は、少し離れた位置にある、あの亀裂の入った主柱の方角を指差した。
「聞こえるのは、こちらの通路に露出した支持材からです。前の測位と位置が違う。柱の内部で何が起きたかは分かりませんが、この接合部は確認が要ります」
冬佳が弾かれたように照明を向ける。退避路の支持材、その締結部に付けた合いマークがずれていた。
「退避路の支持材に変位が出ています。西の柱側へは戻れません。こちらの仮設部を確認しましょう!」
ドゴォォォォンッ!
その直後、東の広場から凄まじい爆発音が響き、迷宮全体が激しく揺さぶられた。
追い詰められたボス魔物が、自らの命を削って放つ最終攻撃。その致死の魔力波が空間を叩き、強烈な共振となって迷宮の天井へ伝わっていく。
「くそっ……!」
朔が舌打ちをする。
白稜の討伐は近い。だが、崩壊へのカウントダウンは、それよりも早くゼロへ向かおうとしていた。




