第25話 閉鎖区域、開放
突如として通路の奥から押し寄せてきた灰色の粉塵の壁を前に、塚原千紗の持つ環境測定器がけたたましい警告音を鳴らし続けた。
「この先の通路は、装備の使用条件を外れる濃度へ近づいています! 予定していたルートへの進入を直ちに中止、全員、手前の安全区画まで退避してください!」
千紗の鋭い声が、防護マスク越しに管理ブース内に響き渡った。
換気機が正常に稼働し始めたことで生じた強力な気流が、未踏区画に長期間沈殿していた有害粉塵を巻き上げ、こちらへ向かって一気に押し流してきたのだ。風量を上げた時の変化が、事前に認めた範囲を超えていた。
「……」
梶谷朔は、粉塵の壁と手元のタブレットの工程表を交互に見つめた。ここで作業を止めて引き返せば、今日の工程には大幅な遅れが生じる。
朔は工程表を閉じ、千紗が示した退出側へ仲間を送った。
「了解した。全作業を中止し、第一安全区画まで後退する! 霧島さんは俺の前を走れ、澪は最後尾で点呼だ!」
朔は一切の迷いを見せず、千紗の『停止権』を全面的に受諾した。
「はいっ! 全員、現在時刻をもって後退します!」
澪は中止時刻を残して端末を固定し、仲間たちの後ろを追った。
四人は押し寄せる粉塵の波に飲み込まれる直前で身を翻し、防護扉で隔てられた安全区画へと転がり込んだ。
分厚い扉が閉ざされた直後、ガラス窓の向こう側が完全に灰色の粉塵で塗りつぶされるのが見えた。あの中へ入ってから引き返すより、手前で止められた意味は大きかった。
「……はぁ、はぁっ……」
隔離と空気質の確認を終えた安全区画で、マスクを外した冬佳が、荒い息を吐きながらガラス窓を睨んだ。
「危ないところでしたね。換気機が直ったのに、どうしてあんなに……」
「換気能力が高すぎたんです」
千紗が測定器のログを確認しながら、冷静に答えた。
「汚染された区画の空気を一気に吸い上げようとした結果、気流が乱れて粉塵が舞い上がり、意図しない逆流を引き起こしました。魔法で部屋全体の空気を一瞬で綺麗にできないのと同じです。力任せの換気は、かえって危険を生みます」
千紗はタブレットを開き、第三換気区全体の図面に次々と赤い線を引いていった。
「再汚染を防ぐためには、風量調節弁を操作して、換気するルートを細かく区切る必要があります。汚染度の高い一番奥のエリアから順番に、段階的に空気を入れ替えていく『測定計画』を組み直します。この区画の粒子濃度が安全基準を下回るまで、次の区画のダンパーは開きません」
千紗の提案は、魔法による一発逆転ではない。時間と手間のかかる、極めて地道な物理的解決策だった。
「その手順でいこう。予定日数は延びるが、命には代えられない」
朔が即座に承認し、チームの新たな方針が確定した。
そこからの作業は、忍耐の連続だった。
千紗が指定した順番に従い、冬佳が防護服姿で各区画のダンパーを手動で開閉しに行く。換気機が指定されたエリアの粉塵を吸い出し、千紗の環境測定器が「安全基準値のクリア」を示すまで、全員が扉の前でじっと待機する。
「第三エリア、粒子濃度低下。規定値クリアしました」
「よし。澪、時刻を記録。霧島さん、次の第四エリアのダンパーを開けてくれ」
澪がタイムスケジュールを細かく管理し、冬佳が物理的な気流の制御を行い、千紗が目に見えない空気の質を数値化し、朔がその全てを統括する。
一歩、また一歩と、彼らは黄色と黒の警戒テープを外し、閉鎖区域を『人間の呼吸できる空間』へと塗り替えていった。
そして、作業開始から十数日が経過した、D67。
第三換気区のメインロビーに、公社の検収責任者である水野詩織が立っていた。
彼女は防護服もマスクも着けていない。ごく普通の事務服姿で、地下の空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
「……素晴らしいですね」
水野は手元のバインダーに目を落とし、それから満足げに朔たちを見上げた。
「先ほど、公社の環境調査チームによる最終測定も終了しました。第三換気区内の全エリアにおいて、有害粉塵の濃度は規定の基準以下。対象の有毒ガスも開放基準以内。通常設備の換気機のみで、極めて安定した空気質が維持されています」
水野はペンを取り出し、正式な検収書に力強くサインを書き込んだ。
「本日をもって、第三換気区の安全条件クリアを認定し、閉鎖を解除します。梶谷さん、そして合同会社継路の皆様、本当にお疲れ様でした。これでようやく、作業員たちが安心して現場に戻れます」
水野の言葉とともに、ロビーの奥から、待機していた公社の作業員たちがわらわらと入ってきた。
「おおっ、本当に空気が綺麗になってる!」
「マスクなしでここに入れる日が来るとはな。あんたたち、本当にありがとうよ!」
作業員たちが朔や冬佳たちに次々と労いの言葉をかけ、笑顔で自分たちの職場へと散っていく。
それは、魔物を派手にぶち殺した時の歓声とは違う。
止まっていたインフラが動き出し、人々の『当たり前の日常』が静かに戻ってきたことに対する、深く温かい達成感だった。
「……魔法で一瞬で空気を綺麗にすることはできませんでしたが」
千紗が、手元の測定器を見つめながらぽつりと呟いた。
「こうして安全な手順を踏めば、ちゃんと結果は出るんですね」
「ああ。君の測定と停止判断がなければ、今頃俺たちはあの粉塵の中で全滅していたさ。見事な仕事だった」
朔が労うと、千紗は少しだけ誇らしげに目を細めた。
その日の夕方。
霞浜市内にある継路の事務所で、朔は千紗の前に一枚の書類を差し出した。
「今回の依頼の成果報酬だ。受け取ってくれ。……それと」
朔はもう一枚、見慣れた形式の書類をテーブルに置いた。
「君の環境安全に対するシビアな基準と、妥協のない停止判断は、うちの会社に絶対に必要だ。単発の依頼ではなく、正式な継続契約を結んでほしい」
千紗は置かれた雇用契約書を見つめ、それから朔の目を見た。
「……梶谷代表。あなたは現場で、私の停止権を一度も疑わず、計画の遅れを厭わずに即座に退避の決断を下しました。口約束だけでなく、行動で私の専門性を尊重してくださった」
千紗は迷いなくペンを取り、契約書にサインを書き入れた。
「私も、あなたの現場判断を信頼します。これからも環境安全監督として、皆さんの命を守らせてください」
千紗が微笑むと、隣で見ていた澪がパァッと顔を輝かせた。
「止まっても、お給料のために急いで戻らなくていい。そこまで決まっていると、次も止められますね」
澪が言うと、千紗は契約書を閉じた。
「次も、必要なら止めます」
冬佳が笑って、自分のカップを持ち上げた。朔はその言葉に頷き、入室記録を保管用の棚へ戻した。
だが、その和やかな空気を切り裂くように、事務所の端末から鋭い着信音が鳴り響いた。
「ギルドから、新規の依頼打診です」
澪がモニターを確認し、少し戸惑ったような声を上げた。
「どうした。またどこかのインフラ設備が止まったか?」
「いえ……発注元が、いつもと違います。公社でも民間企業でもありません」
澪は画面に表示された文字を読み上げながら、信じられないというように朔を見た。
「ギルドを窓口にした共同契約です。参加を打診しているのは、Sランク戦闘クラン『白稜』の高峰峻さん」
「……なに?」
朔の目つきが、一瞬にして鋭く冷たいものに変わった。
国内上位に君臨する最強の戦闘集団であり、朔と澪の古巣でもある白稜。
そこからの直接の依頼内容は、モニターに端的に記されていた。
『対象:北支柱迷宮。目的:ボス魔物討伐、および後方退路の安全確保。当クランとの合同任務を要請する』
ただの設備復旧ではない。戦闘力が不可欠な危険地帯での、直接的な協力要請。
朔は、画面に映るかつての同僚の名前をじっと見つめた。
戦闘を専門とする彼らが、なぜ補助職の寄せ集めである継路に合同任務を持ちかけてきたのか。
インフラ復旧から一転、継路のチームは、戦闘と安全という二つの目的が激しく衝突する、かつてない難題へと巻き込まれようとしていた。




