第22話 マスクなしで入らない
第三換気区の入り口に引かれた、黄色と黒の警戒ライン。
作業日報のタイムスタンプがD57を示すその日、梶谷朔、霧島冬佳、そして塚原千紗の三人は、再びその安全境界の手前に立っていた。
二日前の事前調査で、分厚い観察窓越しに『記録と異なる旧型フィルター』の存在を発見した朔は、即座に公社へ事実関係の照会を行った。公社は交換票と納品記録の照合を進めていたが、カセットの現物を確認しなければ特定できないと回答してきた。今日はその確認も含めて許可を受けている。
「……やはり、現場の現物を調べ直すしかないな」
朔が薄暗い通路を見据えて呟く。
「はい。本日は初期測定を行い、作業員が安全に内部で活動できる限界時間を割り出します」
環境安全監督である千紗は、自前の環境測定器のキャリブレーション(校正)を終えると、朔と冬佳に向き直った。
「お二人の防護装備の最終チェックを行います。腕を上げてください」
千紗のチェックは、驚くほど徹底していた。
防護服の継ぎ目に隙間はないか。手袋と袖口のテーピングは密着しているか。そして何より、顔の半分を覆う高機能呼吸保護具の密閉性に異常はないか。彼女は一切の妥協を許さず、二人の装備を指差呼称で確認していく。
「梶谷代表。マスクの右側の締め紐が、規定のテンションよりわずかに緩いです。締め直してください」
「……了解した。これでいいか」
「はい、問題ありません」
千紗は自分のタブレットにチェック済みのサインを書き込んだ。
魔法で空間を浄化できる彼女が、誰よりも物理的な防護装備の不備に目を光らせている。朔も冬佳も、指摘された箇所を直してから、次の確認へ移った。
だが、装備のチェックを終えた直後。
千紗はタブレットの画面をスワイプし、一つ深呼吸をしてから、真っ直ぐに朔の目を見た。
「梶谷代表。内部の初期測定に入る前に、一つだけ、あなたに確認しておかなければならないことがあります」
「なんだ。測定の手順に変更か?」
「いいえ。……あなた自身の『過去』についてです」
その言葉に、冬佳がピクリと眉を動かした。
千紗はタブレットの画面を朔に向けたまま、淡々とした、だが氷のように冷たい声で言葉を紡いだ。
「照会していた、あなたの過去の公的な業務記録の回答が、契約後に届きました。……数年前、あなたはSランククラン『白稜』の現場管理責任者を務めていた際、公的な『現場管理業務の一時停止処分』を受けていますね」
薄暗い通路の空気が、一瞬にして凍りついた。
「記録によれば、あなたは危険区域での作業中、部下からの異常申告……つまり現場からの警告を軽視し、当初の作業計画を強行した。結果として、その部下に重傷を負わせるという重大な労災事故を引き起こしています。間違いありませんね?」
「ちょ、ちょっと塚原さん」
あまりにもストレートな追及に、たまらず冬佳が割って入ろうとする。
だが、朔は片手で冬佳を制止した。
呼吸保護具越しの朔の顔には、怒りも、動揺も浮かんでいなかった。ただ、薄い疲労感の張り付いた瞳が、静かに過去の罪と向き合っているだけだった。
「……否定はしない」
朔の低い声が、静寂の通路に響いた。
「記録にある通りだ。あの時の俺は、自分の立てた計画を過信しすぎた。現場で起きたイレギュラーを『確率の低い例外』だと決めつけ、部下が上げた安全への懸念を切り捨てた。その判断ミスが、彼に一生残る怪我を負わせた。……俺の責任だ」
言い訳は一切なかった。
自分は悪くない、当時の状況では仕方がなかったなどと保身に走ることは、現場の責任者として最も恥ずべき行為だと、彼自身が誰よりも理解していたからだ。
その率直な自白を聞いても、千紗の表情は少しも緩まなかった。
彼女は安易に同情したり、「反省しているならいいです」と感心したりするような甘い環境安全監督ではなかった。
「私が知りたいのは、あなたの反省の深さではありません」
千紗はタブレットを胸に抱き、朔を見据えた。
「私が問いたいのは、この現場で、私が危険基準を超えたと判断し『作業を止めろ』と指示した場合……あなたはまた、工期や自分の計画を優先して、私の言葉を無視しませんか、ということです」
「……」
「私は環境安全の専門家として、この区画の空気が人の命を奪う瞬間を数値で読み取ります。その時、私の持つ『停止権』は、現場責任者であるあなたに本当に尊重されますか。それが担保されない限り、私はあなたたちをこの防護扉の向こうへ行かせるわけにはいきません」
指揮官の判断と、安全担当の判断。現場において、この二つが対立した時、どちらが優先されるのか。過去に警告を無視した男に対し、千紗は言葉による保証ではなく、明確な態度を求めていた。
朔は数秒の沈黙の後、防護服のポケットから通信用の電子ペンを取り出した。
「口約束はしない。俺の言葉より、確実なもので保証する」
朔は千紗の持つタブレットに手を伸ばし、今回結んだ業務委託契約書の画面を開いた。
既にある停止権の条項に、現場での実施手順を追記した。千紗が中止を告げたら、朔の返答を待たずに全員が退避を開始する。再開には環境担当と設備担当、両方の確認を要する。
「俺に止めるなと言われた時も、その手順で動いてくれ。記録を外へ出す役は、俺以外にする」
冬佳が自分の端末で同じ項目を開いた。
「確認しました。停止の時は私も手を止めます」
朔は署名し、千紗へ返した。
「これを守れるかどうかは、現場で見てくれ」
朔の決意の籠もった条文と署名を見て、千紗の肩から初めてふっと力が抜けた。
彼女が求めていたのは、反省の言葉ではなく、権限の文書化による『安全の確約』だった。
「手順は確認しました。実際に止める必要が生じた時、従ってもらえるかを見ます」
千紗はタブレットをしまい、プロフェッショナルとしての冷徹な顔から、ほんの少しだけ柔らかい表情を覗かせた。
「危険基準を超えれば、迷わずあなたたちの作業を止めて外へ放り出しますから。覚悟しておいてくださいね、梶谷代表」
「それでいい。頼りにしている」
朔が短く頷く。
「よし。安全権限の確認は済んだ。初期測定を開始するぞ」
三人は警戒ラインを越え、分厚い観察窓がはめ込まれた二重扉の前へと進み出た。
千紗は環境測定器の細いプローブ(探針)を、観察窓の端に設けられている測定用の小さなバルブ穴から慎重に内部へと差し込んだ。
シューッという微かな吸気音とともに、区画内の有害な空気が測定器のセンサーへと吸い込まれていく。
「……パーティクルカウンター(微粒子計)、起動。一酸化炭素、硫化水素の反応をチェックします」
千紗の目が、手元の小さな液晶画面の数値を素早く追っていく。
その間、冬佳は高輝度ライトを観察窓のガラスにぴったりと押し当て、粉塵が猛烈に舞い狂う区画内の設備の様子を、食い入るように観察していた。
「梶谷さん」
ライトの光の先、換気機の巨大な筐体を見つめていた冬佳が、眉をひそめて声を上げた。
「どうかしたか、霧島さん」
「……おかしいですね。先日私たちが確認した、あのフィルターケースの型番。旧式の『EX―402』が付いていたところですが」
冬佳はガラス越しに、光の角度を微調整しながら言った。
「型番が古いだけじゃありません。あのフィルターの『配列』……吸気側と排気側のユニットが、正規の図面と逆に取り付けられています」
「なんだと?」
朔が驚いて窓を覗き込む。
「配置が違って見えるだけかもしれません。装着方向と識別番号は、中へ入って確認しましょう」
冬佳は写真へ印を付けた。
「書類通りに部品を取り替えても、ここが合っていなければ空気は流れません」
千紗はその印を確認し、外から採った空気の測定記録を閉じた。
図面と現物のどちらを直すべきか。それを決める材料は、まだ観察窓の向こう側にあった。




