第21話 空気は作れない
南斜坑での運搬依頼を終えてから数日後の、D55。
合同会社継路の事務所で、梶谷朔は霞浜迷宮管理公社から送られてきた資料をモニターに表示させていた。
「次の現場はここだ。公社の管轄下にある『第三換気区』」
朔が画面を指差すと、隣で資料を覗き込んでいた霧島冬佳が顔をしかめた。
「……かなり厄介な状態ですね」
「ああ。先行した戦闘部隊が内部の魔物駆除を完了させたところまでは良かった。だが、その戦闘の余波か設備の経年劣化か、メインの換気機が故障して停止している。結果として、区画全体に正体不明の有害粉塵が充満し、設備復旧に入るはずだった協力業者が立ち入れずに撤退した」
朔は公社からの要望リストをスクロールした。
「全作業員の退避は済んでいる。まず健康確認の記録と残置物の一覧を引き継ぎ、必要な記録器を回収する。それから、停止した換気機の復旧だ。魔物はいないが、環境そのものが人間を殺しに来ている現場だ」
「普通のマスクじゃ入れませんね。専用の呼吸保護具と、有毒ガスの測定器が要ります」
冬佳が設備技師としての見解を口にした直後、事務所の扉が控えめにノックされた。
「梶谷さん。お待ちしていた方が見えましたよ」
入り口のデスクで事務作業をしていた羽鳥澪が立ち上がり、一人の女性を招き入れた。
「初めまして。本日お声掛けいただきました、塚原千紗と申します」
丁寧なお辞儀とともに現れたのは、肩ほどの長さの黒髪をきっちりと整えた、二十代半ばの女性だった。彼女の手には、カタログの挟まれたバインダーと、手入れの行き届いた金属製のケースが下げられている。
「塚原さんだな。よく来てくれた」
朔は立ち上がり、パイプ椅子を勧めた。
彼女は環境安全管理の専門資格を持つ技術者だ。有害な粉塵やガスが充満する危険区域の調査において、彼女のような専門家の知見は絶対に欠かせない。
「早速だが、君の能力の仕様を聞かせてほしい。事前の書類では《浄気》とあったが」
朔が真っ直ぐに尋ねると、千紗は膝の上に置いたバインダーを開き、静かで落ち着いたトーンで答えた。
「はい。私の《浄気》は、指定した空間の空気中から、有害な粒子や粉塵を一時的に除去する能力です。対象となる範囲は、最大で約一立方メートル。除去した後も外からの流入を止めることはできません。開放空間では、すぐ元の濃度へ戻ります」
「一立方メートルか。空間全体を綺麗にする魔法ではないんだな」
「ええ。それと、梶谷さん。ここからが一番重要な制約なのですが」
千紗は言葉を区切り、極めて真剣な眼差しで朔を見据えた。
「私の能力は、あくまで『粒子を取り除く』だけです。人間が呼吸するための『酸素』を生成することはできません。また、一酸化炭素などの目に見えない『有毒ガス』の成分を分解することも不可能です」
「……」
「ですから、もしこの現場を『私の魔法があるから、防護服やマスクなしでも安全に入れる』とお考えで呼ばれたのだとしたら、その期待にはお応えできません。魔法で空気は作れません。大部屋の空気を一瞬で安全に浄化するような奇跡を求めるなら、他を当たってください」
朔は用意していた契約書を開き、環境安全監督の欄へペンを置いた。
「装備と測定は通常の方法で行う。魔法で代用はしない。ほかに、契約前に確かめたい条件はあるか」
「停止の権限です」
千紗は膝のバインダーを閉じた。
「測定値が基準を超えた時、私の判断で作業を止め、退避を求められること。その場で代表の承認を取り直す形にはできません」
朔はその条件を書き込み、紙を千紗へ返した。
「君に停止権を委任する。作業予定との調整は俺が受け持つ。止める判断を遅らせる理由にはしない」
「再開についても書いてください。時間が経ったから、ではなく、再測定と安全確認をしてからです」
もう一行が加わった。千紗は文面を読み、保護具の一覧を契約書の横へ置いた。
「では、全員分の呼吸保護具と防護服を、この仕様で揃えてください。装着確認と測定は私が行います。《浄気》を使う場所は、必要性と範囲を現場で確認します」
「分かった。調達の担当は俺だ。入る前に君の確認を受ける」
千紗はサインを済ませると、すぐに機材の貸出先へ連絡を取った。冬佳も工具表を引き寄せる。
朔は二人の予定を聞き、出発時刻を一度消して書き直した。
数時間後。
必要な機材と防護装備をバンに積み込んだ朔、冬佳、千紗の三人は、霞浜市の地下深く、第三換気区の入り口にあたる安全境界エリアに到着していた。
「ここから先は汚染区域です。全員、呼吸保護具の気密チェックを行ってください」
清潔な白い防護服に身を包んだ千紗が、手元のチェックリストを見ながら指示を出す。
朔と冬佳は手順通りにマスクの密着性を確認し、千紗からOKのサインを受け取った。
「梶谷さん。この先の二重扉の向こうが、目的の換気設備があるメインルームです。扉には分厚い観察窓がついていますから、まずはそこから内部の目視確認を行いましょう」
「了解した」
三人は重い足取りで通路を進み、黄色と黒の警戒帯が引かれた二重扉の前に立った。
扉には、大人が一人覗き込める程度の長方形のガラス窓がはめ込まれている。
朔が携帯照明の光を窓に押し当てて内部を照らすと、そこには異様な光景が広がっていた。
巨大な換気ダクトと機械群が鎮座する部屋の中は、灰色の濃い霧のような粉塵が猛烈な勢いで舞い狂っている。視界は数メートルも通らず、ライトの光が乱反射して奥まで届かない。
「……ひどい粉塵ですね。これでは数回呼吸しただけで肺がやられます」
窓越しに携帯用の環境測定器のセンサーを接続した千紗が、手元の数値を読み上げて顔をしかめた。
「測定値、危険水準を大きく超えています。やはり換気機が完全に沈黙しているのが原因です」
「換気機を直さなければ、この区画の開放は不可能だな」
朔は公社から受け取っていた、この施設の保守記録のファイルをタブレットで開いた。
「だが、おかしな話だ。公社の記録によれば、あのメイン換気機のフィルターは、たった一ヶ月前に定期保守で『新品に交換済み』となっている」
朔は画面の記録を二人に見せた。
「戦闘の余波で物理的に壊れたならともかく、一ヶ月前に交換されたばかりのフィルターが、こんなに急激に目詰まりを起こして換気不全に陥るものか?」
「普通ならあり得ません。よほど異常な質量の粉塵が発生したか、あるいは……」
冬佳が観察窓に顔を近づけ、自前の高輝度ライトで、粉塵の向こう側にうっすらと見える換気機の側面を照らし出した。
そこには、フィルターの交換用カセットが見え、その型式を示す識別プレートが打ち付けられていた。
「塚原さん。あのプレートの番号、読めますか?」
冬佳の言葉に、千紗が目を細めて窓枠に張り付く。
粉塵が舞う中、彼女は持ち前の視力と集中力で、ライトに照らされた刻印の文字を一つずつ読み取っていった。
「……AXの、7……いえ、違います。EXの、402……」
千紗の読み上げた番号を聞いた瞬間、朔の指がタブレットの上でピタリと止まった。
「梶谷さん、記録の型式番号は?」
「……記録上、一ヶ月前に交換されたはずの新品のフィルターは、『AX―700』シリーズだ」
朔の声が、防護マスク越しに低く響いた。
「今、塚原さんが読み取った『EX―402』は、五世代も前の旧型番だ」
三人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
書類上は新品に交換されているはずの設備。
しかし、目の前の現場にあるのは、記録と異なる型式のカセット。
本当に取り違えたのか、それとも記録側の誤りなのか。型式だけで、交換された日や作業者の意図までは分からない。
「……記録と現物が一致していない」
朔が低い声で呟く。
目に見えない有害な空気の向こう側に、ずさんな管理という人災の気配が、黒々と口を開けて彼らを待ち受けていた。




