第14話 一度の誤案内
動態回廊の入り口に設けられた安全待機所。
作業日報のタイムスタンプがD31を示すその日の朝、梶谷朔は眉間に深い皺を刻み、手元の通信端末をきつく握りしめていた。
「……どういうことだ。旧経路での進入禁止警告は、三日前にプロトコル通り発出しているはずだぞ」
『申し訳ありません、梶谷さん。データは確かに受け取っていたのですが、協議会から末端の下請け運送業者への通達フローに遅れが生じまして……』
通信機から響く霞浜物流協議会の担当者の声は、完全に狼狽していた。
『今朝早く、古い図面を持ったままの外部物資班五名が、動態回廊へ入ってしまいました。予定時刻を過ぎても連絡が取れません。おそらく、旧経路の奥で迷走しているものかと……!』
朔は無言で通信を切った。
迷宮の地形変位を甘く見て、朱里の警告を退けたD25の判断ミス。そこから生じた一日の作業損失と、図面更新の遅れ。朔が急いで訂正の警告を出したものの、巨大な物流組織の伝達のタイムラグを埋めるには至らなかった。
「……っ」
待機所のパイプ椅子に座っていた相沢朱里が、弾かれたように立ち上がった。
彼女の顔は蒼白になり、地図ケースを握る手は小刻みに震えている。
「私の……私のせいです。私がもっと強く主張していれば、もっと早く図面を差し替えられたのに。私の案内ミスで、また人が迷って……!」
過去、自身の判断ミスでパーティを深刻な危険に晒したトラウマ。それがフラッシュバックし、彼女の呼吸が浅くなる。パニックに陥りかけた朱里の肩を、朔の大きく分厚い手がガシリと掴んだ。
「落ち着け、相沢」
朔の声は、不思議なほど静かで、冷徹な現場監督の響きを保っていた。
「君のせいじゃない。君は最初から正しい警告を発していた。それを確率論で切り捨て、図面更新の遅れを招いたのは俺だ。今回の誤案内の原因は、俺の判断遅れと連絡運用の不備にある」
「梶谷、さん……」
「自分の責任を部下に押し付けるつもりはない。だが、今あの迷宮の中でパニックになっている連中を、最短ルートで安全な基準広間まで連れ戻せるのは、現況の道を一番正確に把握している君の道案内だけだ」
朔は朱里の目を真っ直ぐに見据えた。
「君の力が必要だ。頼めるか」
その言葉に、朱里の震えがぴたりと止まった。
「……はい。行きます。絶対に、連れ戻します」
「よし」
朔が頷き、傍らに立つ澪と慧を振り返った。
「救出作戦に移行する。だが、闇雲に飛び込むことは許さない。二次遭難を防ぐため、安全基準を厳格に守るぞ。澪」
「はいっ」
羽鳥澪はすでにタブレットを抱え、入力画面を開いて待機していた。
「現在時刻、〇八時一五分。救出に向かう人員、梶谷朔、早瀬慧さん、相沢朱里さん、私。以上四名。霧島冬佳さんは入り口で救援連絡を担当。対象の外部物資班は五名。……進入前の点呼および装備確認、完了しました!」
「上出来だ。行くぞ」
迷宮の内部は、数日前の夜間変位によってまた少しだけ接続の形を変えていた。
古い図面の通りに進めば、確実に行き止まりか、魔物の巣窟へと誘導される。
「早瀬、前方の反響はどうだ」
「待ってください……音、出します」
慧が慎重に護衛担当が安全を確かめた通路で、手すりをレンチで叩く。澄んだ音が薄暗い通路に吸い込まれ、数十秒後、彼は目を開いた。
「……この先、二十メートルは壁の崩落はありません。それと、右奥の分岐の先から、硬い車輪が岩にぶつかるような反響音と、複数の微かな声が聞こえます。あっちです」
「よし。相沢、ルートの確保を」
「了解です!」
朱里は慧の測位を頼りに、自らの目で通路の安全を現認していく。彼女は腰から誘導用のトラロープを引き出し、曲がり角のパイプに結びつけながら進んだ。
《路標》の魔法は最大三個しか置けない。そのため、帰りの誘導に備えて魔法は温存し、往路は確実な物理ロープを使って退路を構築していく。
十分後。
右奥の行き止まりの空間で、荷車を囲むようにして身を寄せ合っている五人の作業員を発見した。
「……おーい! 霞浜物流協議会からの救助だ! 怪我人はいるか!」
朔が声を掛けると、作業員たちは幽鬼でも見たかのような顔でこちらを振り向き、やがて安堵でその場にへたり込んだ。
「助かった……! 怪我人はいません。でも、地図の通りに進んだのに道がなくて、どっちから来たのかも分からなくなっちまって……」
「旧図面で入っていると聞いた。怪我人がいないなら、一緒に帰ろう。荷車は通れる幅を確認してからだ」
朔が手短に告げ、作業員たちを立たせる。
だが、暗闇の中で方向感覚を失った彼らの顔には、依然として強い恐怖が張り付いていた。周囲の霧の向こうから、魔物の呻き声が聞こえるのではないかと怯えている。
「大丈夫ですよ。帰り道は、私が案内しますから」
朱里が、作業員たちの先頭に立って明るく声を掛けた。
彼女は自分が現認してきたばかりの、絶対に安全なルートの曲がり角に視線を向けた。
「《路標》」
短く唱えた瞬間、暗い通路の先にある岩壁に、青白く発光する幾何学模様が浮かび上がった。
「うおっ……光った?」
「私の目印です。あの光の通りに進めば、絶対に迷いません」
朱里は微笑みながら歩き出した。
三個しか置けない制約。だが、暗闇の中でパニックになっている人間にとって、遠くからでもはっきりと視認できる『絶対に安全な光の目印』が持つ安心感は絶大だった。
朱里は、分岐点の最も迷いやすい場所に一つ《路標》を置き、そこを通過すると後ろの目印を消去し、また次の分岐点に新たな目印を置くという手順を繰り返した。物理的なトラロープと、視覚的な《路標》の併用。誰もが進行方向を見失うことなく、足早に退避ルートを進むことができた。最後尾が通った区間のロープは回収し、次の夜に古い道しるべを残さないようにした。
「……光が見えました! 基準広場です!」
先頭を歩いていた朱里の声に、作業員たちから歓声が上がった。
不動の基準点として慧の測位で確定されている広間まで戻れば、そこから入り口までの確認済み経路を、誘導員が引き継げる。
全員が広間へなだれ込み、安全地帯の空気を深く吸い込む。
その直後、澪がすかさず動いた。
「点呼を取ります! 一、二、三……五名! 外部物資班五名、および救出班四名。全員、人員欠損なし! 現在時刻、〇九時四二分。無事に救出完了しました!」
澪の凛とした声が響き、朔が短く「ご苦労」と応えた。
朱里は、自分の足元を見つめ、それから安堵の表情を浮かべる作業員たちを見た。
かつては自分の案内で人を危険な目に遭わせた。だが今日は、自分の能力と判断で、確実に人の命を安全な場所へ導くことができた。
「……やりました、梶谷さん。誰も、迷わせませんでした」
朱里の瞳には、過去のトラウマを乗り越えた確かな光が宿っていた。
「ああ。完璧な道案内だった」
朔は朱里の働きを労うと、懐から通信機を取り出し、物流協議会の担当者へ直通回線を繋いだ。
「……俺だ。物資班五名、無事に回収した。怪我はない。だが、協議会から末端業者への連絡運用のフローは抜本的に改めてもらう。二度と同じ情報伝達のミスが起きないよう、受領確認のプロセスを必須項目として契約書に追記しろ」
朔は厳しい口調で要求を突きつけ、通信を切った。
「朔さん、これで一件落着ですね」
澪がタブレットを抱えながら言うと、朔は首を横に振った。
「いや、これで終わりじゃない。明日になれば、またこの連絡路は形を変える。その度に俺たちが付きっきりで案内するわけにはいかないし、そんな物流インフラは欠陥品だ」
朔は基準広間の中心に立ち、周囲の岩壁と、奥へ続く複数の通路を見回した。
「動く迷宮の気まぐれに、これ以上物流を振り回されるわけにはいかない。変動する道の中で、一つだけ、絶対に動かない安全な『恒久経路』を物理的に確立する」
「物理的に、ですか?」
「ああ。案内人が毎回つかなくても使えるように、不動区画を通る経路を選び、標識と点検手順を整える。……そのための工事を始めるぞ」
朔の言葉に、朱里と慧、そして澪の顔が引き締まった。
迷宮の法則を読み解く段階は終わった。ここからは、その法則の上に人間のための道を作り出す、現場攻略の本番だった。




