第13話 進んだはずなのに戻っている
基準広間での仮測量から数日が経過した、次回作業日のD28。
合同会社継路の三人は、動態回廊の内部で完全に足を止めていた。
「……梶谷さん。道が、ありません」
先頭を歩いていた朱里が、ライトの光を前方の土壁に向けたまま、力なく振り返った。
朔が設定した『石柱』を仮基準点とした進入ルート。その計画に従って歩を進めてきたはずだったが、行く手は分厚い岩盤によって完全に塞がれていた。迂回しようにも、横穴はどれも図面にはない不自然な方向へねじ曲がっている。
「……行き止まりか。引き返そう」
朔は手元のタブレットに目を落とした。画面に表示された本日の作業工程表は、すでに予定時刻を大幅に超過している。
数日前、朔は朱里の「基準点が動くかもしれない」という警告を、「頻度が低い例外だ」として切り捨てた。計画の効率を優先し、目視で安定しているように見えた石柱を起点とした最短ルートを信じたのだ。
だが、現実は残酷だった。
安全を確かめた範囲で迂回したが、予定の測量地点へは進めない。追加の資材班は入り口で待機させた。結果として、この日の調査のために確保していた時間と労力を丸ごとドブに捨てることになった。「一日分の作業損失」という、現場において最も避けるべき実害を発生させてしまったのだ。
「一旦戻ろう。これ以上の前進は無意味だ」
朔の短く重い指示に、慧と朱里は無言で頷いた。
来た時の記録と照合しながら、三人は数日前の『基準広間』の入り口付近まで戻ってきた。
そこで、朱里が息を呑んだ。
「梶谷さん、見てください」
彼女が指差した先。薄暗い広間の外周に、青白く発光する《路標》が三つ残っていた。
光は三つとも、外周の岩壁に残っていた。朱里はその位置から、前回と同じ順で巻尺を延ばした。
三地点の相互の距離は変わっていない。だが、そこから石柱までの距離と角度は、記録と合わなかった。
D25に数メートルだった箇所が、十メートル以上離れている。柱の欠けた縁を目で照合し、別の柱を取り違えていないことも確かめる。
「……石柱が、移動している」
朔の呟きに、朱里は自分の手書きの測量メモと観測時刻の記録を開いて見せた。
「はい。この数日の夜間のうちに、通路の変位が起きました。そしてあの石柱は、広間の地盤ではなく、変位する『連絡路』側の地盤に乗っていたんです。だから、連絡路がスライドした時に、石柱ごと移動してしまった」
朱里はメモを閉じ、真っ直ぐに朔を見た。
「基準点そのものが動いていたんです。だから、そこを起点にした今日のルートは、すべてデタラメな方向を向いていました。私たちが進んだはずなのに戻っていたのは、地図の原点がズレていたからです」
それは、案内人としての専門的な見地からの、完全な証明だった。
もし朔が、最初の時点で彼女の警告を真摯に受け止め、石柱ではなく岩壁を基準に測量計画を立て直していれば、今日の一日の損失は防げたはずだった。
沈黙が落ちる。
慧が、気まずそうに朔と朱里の顔を交互に見た。元Sランククランの現場監督が、部下の補助職に明確な判断ミスを突きつけられている。普通のクランなら、激怒するか、言い訳をして責任をなすりつける場面だ。
だが、朔は言い訳を一つもしなかった。
彼はタブレットに表示していた暫定経路案のデータを、一切の躊躇なく消去した。
「……俺の判断ミスだ」
朔はヘルメットを脱ぎ、朱里に向かって深く頭を下げた。
「現場からの正当な警告を、発生確率が低いというだけの理由で切り捨て、計画を過信した。その結果、一日の作業を無駄にし、お前たちを危険な迷走に巻き込んだ。すまなかった」
「か、梶谷さん……!」
朱里は慌てて手を振った。
「頭を上げてください! 私だって、自分の意見をもっと強く主張できていれば……」
「いや、責任は現場の最終判断を下した俺にある。君の専門知識は完璧だった」
朔は顔を上げ、技術者に向ける絶対の信頼を込めた目で朱里を見た。
「君の能力がなければ、俺たちは今も『地図が間違っている』のか『自分たちが道を間違えた』のかすら証明できず、永遠に迷走を繰り返していただろう。三個しか置けない不便な能力だなんて、二度と言うな。君の目印と測量記録が、俺の間違いを残してくれていた」
朱里の胸の奥で、何かが熱く弾けた。
過去のトラウマに縛られ、案内ミスを恐れて萎縮していた自分。その自分の言葉を、目の前の男は「専門家の正しい警告」として受け入れ、自らの非を認めたのだ。
「これより、君の測量方針を全面的に採用する」
朔は新しい白紙のマップデータを画面に展開した。
「早瀬の測位で確認された『二回の夜間観測でも動かなかった岩壁』。ここを基準として採用し、もう一度ゼロから測量をやり直す。相沢、指示を頼む」
「……はいっ!」
朱里の声には、もう一切の迷いがなかった。
「まず、古い連絡路へ誘導してしまう位置の目印を消します。基準壁の確認は、残す二点と測量記録を使います」
朱里が念じると、旧経路に面した壁の光が消えた。戻って目印を削り取ることなく、危険な経路の案内を止められた。
「次に、早瀬さん。不動の岩壁の目印を起点にして、そこから繋がっている連絡路の『境界』……つまり、どこから先がスライドしているのか、反響音で探ってもらえますか?」
「分かった。やってみる」
慧が手すりを打ち鳴らし、音の反響から地盤の継ぎ目を割り出していく。
朱里はその情報をもとに、自分自身が安全を確認しながら境界線まで歩み寄り、そこに新たな《路標》を設置した。
動かない広間と、動く連絡路。その変位の法則性が、慧の測位と朱里の目印によって次々と可視化されていく。
「……見えました。連絡路がスライドする範囲は、この岩壁から半径約十メートルの扇状のエリア内に収まっています」
朱里の報告を受け、朔がタブレットの図面に変位の許容範囲を書き込んでいく。
「よし。これで『動く道』のパターンが特定できた。あとはこの法則性を元に、明日以降も再現可能な経路を組み立てるだけだ」
朔は一息つき、通信用のシステムを開いた。
「俺たちの迷走のおかげで、旧図面が完全に使い物にならないことは実証された。急いでギルドと発注元に、旧図面での進入を禁止する警告データを送信する」
朔が手早く報告を打ち込み、送信ボタンを押す。ダンジョン内でも、出入り口に近いこの基準広間なら、微弱ながら外部との通信は可能だった。
その日の終わり、進入禁止の警告と差し替え図面は協議会へ届いた。
「本日の分は、俺の再測量にかかった一日として記録する。追加人員の待機も含め、費用は会社で負担する」
朔は朱里が残した懸念事項を、報告書の先頭へ移した。
「私の意見、消さないんですね」
「消したら、なぜやり直したのか分からなくなる」
朱里はようやくペンを持ち直した。自分が正しかったと認められるよりも、次の計画の起点が変わったことに、少しだけ息がしやすくなった。
後続班の作業再開には、差し替え図面の受領を条件として付けた。ところが、協議会の窓口に届いた連絡は、登録上の元請け業者までで止まっていた。
三日後に来る別便の運送班が、古い図面を印刷して持っていることを、朔たちはまだ知らなかった。




