第11話 地図どおりに進めない
霞浜市郊外の山林を切り拓いて作られた、巨大な物流中継拠点。
その最奥部から口を開けている地下迷宮『動態回廊』の入り口前で、梶谷朔は一枚の古い図面を広げていた。
作業日報のタイムスタンプはD22。前回の旧昇降坑の案件から数日が経過している。
「今回、霞浜物流協議会から受注した案件の目的は、『恒久的な安全通行経路の調査および開通』だ」
朔の言葉に、傍らに立つ早瀬慧が静かに頷いた。そしてもう一人、首から防水仕様の地図ケースを下げた栗色短髪の女性が、緊張した面持ちで朔を見つめていた。
今回から案内委託としてチームに加わった、相沢朱里だ。
「あの、梶谷さん。確認したいんですけど……」
朱里は手元のメモパッドを指先でなぞりながら、おずおずと口を開いた。
「先行した探索隊の記録では、二日前にこの回廊の最奥部までの『走破』には成功しているんですよね。魔物も粗方駆除されている。それなのに、どうして後続の物資輸送隊が迷子になって、私たちが呼ばれたんですか?」
「道が動くからだ」
朔は古い図面のあちこちに引かれた、赤い修正線を指でなぞった。
「この動態回廊は、日ごとに迷宮内の地形が部分的に変位する。概ね夜間から数時間かけて、通路の接続先がすり替わるんだ。昨日まっすぐ通れた道が、今日には行き止まりの壁になっているかもしれない」
「道が、すり替わる……」
「そうだ。戦闘特化の探索隊は、どんな地形に変わっていようが、自力で道を切り拓いてその日一回だけ奥へたどり着ければ『走破』になる。だが、毎日大量の資材を運ぶ荷車や一般の作業員に、その真似はできない。必要なのはその日限りの走破力じゃない」
朔は図面から顔を上げ、朱里を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちが納品すべき成果は、『明日以降も、誰でも安全に再現できる経路』だ。そのためには、変動する迷宮の中で『動く道』と『絶対に動かない地形』を峻別し、現況を正確に把握して案内できる専門家が必要になる。だから君を呼んだ」
朱里は息を呑み、自身の地図ケースをぎゅっと握りしめた。
彼女は過去に、自分の判断ミスと古い地図への過信でパーティを誤誘導し、危険区域で深刻な事態を招きかけたトラウマがある。それ以来、彼女の案内人としての評価は落ち、大きな仕事からは遠ざかっていた。
「私で、本当にいいんですか……? 私の能力、そんなに便利じゃないですよ」
朱里は俯き加減で、自身の能力の仕様を告げた。
「私の能力《路標》は、私が実際に立って目視確認した場所に、仲間にだけ見える光の目印を設置できるというものです。でも、壁の向こうや遠く離れた未踏地点には置けません。それに……」
朱里は悔しそうに唇を噛む。
「同時に置ける標識は、最大で『三個』までなんです。たった三個の目印じゃ、入り組んだ迷宮のすべての曲がり角を案内することなんてできません。また人を迷わせてしまうかもしれない」
彼女の吐露を聞いていた慧が、かつて自分自身の能力を「欠陥だらけだ」と卑下していた頃の自分を重ねたのか、励ますように口を開きかけた。
だが、それよりも早く朔が口を挟んだ。
「その三個の目印は、不要になったら離れた場所からでも即座に消去できるか?」
「え? は、はい。私が念じれば、設置した路標は一瞬で無効化して消せます。それがどうかしたんですか?」
「なら、この現場に最適な能力だ」
朔はきっぱりと断言した。
「いいか。この動態回廊で一番やってはいけないのは、ペンキやロープで『古い目印』を残すことだ。通路が変位した後にそんなものが残っていれば、後続の人間を確実に死地へと誤誘導する」
朱里はハッとして顔を上げた。
「君の《路標》は、現況が変化した時に即座に消せる。危険な過去の目印を残さず、常に最新の『現認した安全』だけを示せる。三個しか置けないなら、全ての道に置く必要はない。迷宮内で絶対に動かない『基準点』にだけ標を置き、現在地を確証するためのアンカーとして使えばいい」
「……アンカー」
「そうだ。図面通りに進めない場所で一番信じられるのは、現場に立って現物をその目で見ている人間の判断だ。君の案内能力を頼りにしている」
朔の言葉に、朱里の瞳に宿っていた不安の影が少しだけ薄れた。
「……分かりました。私、やります。絶対に誰も迷わせません」
「よし。俺は計測と記録を行う。早瀬は反響測位で前方の壁の接続状況と硬質物体を確認。相沢は目視による経路確認と《路標》の設置だ。行くぞ」
三人はヘルメットのライトを点灯させ、動態回廊の入り口ゲートをくぐった。
迷宮の内部は、コンクリートで補強された近代的なトンネルと、ダンジョン特有の土と岩の壁がモザイク状に入り組んでいた。
少し進むごとに、通路の幅が微妙に広がったり狭まったりしているのが分かる。
朔は入り口から十メートルほど進んだ場所で立ち止まり、古い図面を開いた。
「いいか。測量と地図作りにおいて最も重要なのは、不動の『基準点』だ。そこからどれだけ進んだかを計測しなければ、正確な地図は作れない」
朔は図面の入り口付近に記された、赤いバツ印を指差した。
「事前の記録によれば、この入り口から直進して十五メートル地点の右壁に、過去の探索隊が打ち込んだ『第一固定杭』があるはずだ。こいつは分厚い岩盤の基部に直接打ち込まれていて、これまでの観測でも一度も動いていないとされている。まずはこの杭を最初の基準点とし、相沢の《路標》を置く」
「分かりました。十五メートル先ですね」
朱里が地図ケースを抱え直し、慧が先導するように前へ出る。
慧は聴覚保護具を耳に当て、手すりの代わりになっている鉄パイプをレンチで叩いた。
カンッ。
鋭い打音が通路の奥へ響き、反響が返ってくる。
慧は目を閉じ、二十メートル以内の硬質物体の位置を脳内で処理した。しかし、すぐに彼の手が止まり、怪訝そうな顔で目を開けた。
「……朔さん。右壁に、杭のような硬い突起物の反響はありません」
「なんだと?」
朔がライトの光量を上げ、前方を照らす。
朱里も駆け寄り、壁面を直接目視で確認した。コンクリートと岩の境目を指でなぞりながら、彼女は緊迫した声で報告した。
「梶谷さん、図面の通り十五メートルの位置まで来ました。でも……固定杭はありません。それどころか、杭が打ち込まれていたような岩盤の基部ごと、壁の形状がのっぺりとした土壁に変わっています」
朔は図面と、目の前ののっぺりとした土壁を交互に見比べた。
図面には、明確に『不動の第一固定杭』と記されている。だが、現物には存在しない。
「……入り口の第一基準点からして、すでに図面が破綻しているか」
迷宮は生きているように形を変える。
拠り所となるはずの最初の杭が見当たらない。それは、この暗闇の回廊の中で、現在地を示す座標の原点すら失われていることを意味していた。




