幼馴染
「ただいまー。氷、氷……って、あれ? カレーの匂いがする」
「なんだか心がワクワクする香りがするのぅ?」
玄関を開けた瞬間、スパイシーな香りが鼻をくすぐった。両親は共働きで帰りが遅いはずだ。
居間へ入った俺たちを待ち受けていたのは、黄色いエプロン姿の幼馴染だった。
「おかえり〜……忠継ちゃんから『ツリーランした』って連絡あって心配したんだよ?大丈夫って連絡が来たから良かったけど……」
遠藤夏菜。親同士も仲が良く、家もすぐ近所で、昔から何かと世話を焼いてくれる幼馴染だ。
夏菜の視線は、不安げに寄り添う茜の姿に固定される。
「ただいま」
「……蒼也。そのお姉さんは、どなた?」
「この人は茜さん。俺のせいで、怪我をさせちゃってさ。家も壊しちゃったから、しばらくこの家に住んでもらおうと思ってる」
夏菜はじっと茜を見つめている。茜さんは俺の背中に隠れるようにしながらも、意を決したように言った。
「わ、私は足尾山を統べる土地神、茜半夏雨の尊である……! 先程、この蒼也に『一生責任を取る』と言われたのだ。ゆえに今日からこの家で同棲することに決めたのじゃ!」
「ど、ど、同棲……!?」
夏菜の瞳が見開かれる。
「おいやめろ! その言い方だとめちゃくちゃ誤解を生むから!」
「誤解などではない! お前は私に身体を委ねろと言ったではないか!」
「だからそれはメンテナンスのっ!」
俺が声を上げていると、夏菜は静かにエプロンの紐を解いた。
「……私、帰るね!」
「な、夏菜? 」
夏菜は手で言葉を遮ると、茜をチラッと見た。そして、視線を足下に落とす。
「えっと……」
「……夏菜、とりあえず話は後だ。今は怪我人の治療を優先する」
帰ろうと背を向けた夏菜の足を止めたのは、俺の口から無意識に出た、低い声だった。
その音に、茜も夏菜もビクッとする。
「夏菜。悪いけど、冷凍庫の氷を全部出してくれ。あと綺麗なビニール袋を」
「えっ……? あ、うん」
俺の有無を言わさぬ指示に、夏菜は困惑しながらも氷と袋を手渡してくれた。
俺は受け取ったビニール袋に氷をたっぷりと入れ、少量の水を注ぎ込む。中の空気を完全に出すことで、患部の複雑な凹凸にも隙間なく張り付く氷嚢が完成する。
「茜さんはそこのソファで、肩を上して横になってくれ」
「う、うむ……」
大人しくソファに寝る。俺は素早く彼女の肩と腰の患部を露出し、キンキンに冷えた氷嚢をゆっくりと押し当てる。
「ひゃっ!? つ、冷たい! 拷問か!?」
「暴れないで。いいですか、怪我をした直後の『急性期』に一番やってはいけないのが、無理に動かすことです」
俺は、真面目な顔で説明を始めた。
「応急処置の基本は『RICE処置』。まずは安静にしてこれ以上の筋繊維の断裂を防ぐこと。そして氷で徹底的に冷やし、炎症という『熱』を消火する」
「ら、らいす……?」
「今は熱を持って腫れようとしている状態だから、収縮やストレッチなどの運動はNG。マッサージなんかやったら、火事にガソリンを注ぐようなものだからね。まずはこの氷で、痛覚神経を麻痺させ、血管を収縮させて腫れを抑え込む」
説明に、茜は涙目になりながらも大人しくアイシングを受け入れた。
さらに、彼女の右腕の下にクッションを挟み込む。
「これがElevation(挙上)。患部を心臓より少し高い位置に保つことで、内出血や腫れが下に溜まるのを防ぐ。なるべく寝る時はこの姿勢を取るように」
「わ、わかった……。そこまで言うのなら……」
茜はコクリと頷く。
「……」
その一連のやり取りを、少し離れたところから見ていた夏菜が、自分の腕をギュッと抱きしめていた。
ガチャっと玄関が開く音がする。
「お邪魔〜おろしといたぞー……って、何やってんだ?」
忠継が積み荷を下ろして居間に入ってきた。
「あ、忠継ちゃん、おかえりなさい」
「何?何?あれ」
「うん……治療してるんだって」
「はぁ……アイツどうしちゃったんだ?」
「……わからない」
二人の顔は困惑の色をしている。
十分後。
アイシングを終え、俺は茜さんの肩から氷嚢を外した。
「どうだ、少し動かしてみてくれ」
「こ、こうか……?」
茜はおそるおそる身体を起こし、腕を動かす。
「あ……肩が……楽になっているぞ……!」
「ゆっくりだって、無理はだめだ。一時的に炎症のピークを抑え込んだだけで、根本的な治療は、炎症期が過ぎてからやっていくから。今日はこのまま、とにかく安静に」
俺が微笑みを作ると、茜は顔を真っ赤にして両手で口元を覆った。
「……ありがとぅ」
きゅるるるるるる……
リビングに、何とも可愛らしい腹の虫の音が響いた。
「あ……」
夏菜が顔を真っ赤にしてお腹を押さえる。
その音を聞いた瞬間、俺の中から何かがスッと切り替わった。
「あー! 腹減った! 頭使ったら死ぬほどお腹空いた! 夏菜、カレー食おうぜカレー!」
「な?急に大きな声出さないでよー!……もう……しょうがないな。じゃあ、温め直すからちょっと待ってて。忠継ちゃんも食べてくでしょ?」
「おー食べる!食べる!なっちゃんのカレー美味いんだよな!」
夏菜は呆れたようにため息をつきながらも、どこかホッとしたような表情でキッチンへ向かった。
テーブルでは、俺、夏菜、忠継、そして神様がカレーライスを掬っている。
「美味しい! なんだこれは!? 人間の食べ物はこんなに美味いのか!」
「ふふん。お肉は玉ねぎと一緒に赤ワインで煮込んでるからね。ルーは市販だけど2種類混ぜて作るのがコツなんだ!お代わりありますよ?自称神様」
「自称ではない! お代わりを所望する!」
二人のやり取りを見ながら、俺は麦茶を飲む。
その後、三杯もおかわりをして茜はカレーに満足したようだ。
食後の片付けを終え、夏菜と忠継が玄関へ向かう。俺は二人を見送るために後を追った。
「……ねえ、蒼也」
玄関のドアに手をかけた夏菜が、振り返らずにぽつりと言った。
「さっきの……あんな難しい話、いつ勉強したの?」
「ん? ああ、世界目指すには身体のケアも必須だからな。独学だよ」
俺が笑って誤魔化すと、夏菜はドアノブをぎゅっと握りしめた。
「そっか。……なんか、急に難しいこと言い出したからビックリしたよ」
「確かにな、なぁ蒼也……何かあったら俺たちいつでも相談乗るからな?」
「ありがとう。その時は頼むよ」
二人は笑ってくれる。
「じゃあ、また明日ね。おやすみ」
二人はそれだけ言い、自分達の家へと帰っていった。
玄関の隙間から夜の空気が、少しだけ俺の頬を撫で、俺は茜のところに戻ることにした。




