彼女は氏神様
日の暮れ始めた峠道、俺は大破した機体を折り畳み、引き摺りながら歩いていた。
隣には、カラフルな布で腕を吊りながら、一定の距離をキープしてついてくる女性の姿がある。
「あのな、人間……いや、蒼也だったか」
「はい、痛みますか?」
「痛むのは痛むのだが……そうではなくてだな、その、人間というのは、随分とせっかちなのだな」
モジモジとしながら、夜空色の髪を指で弄る。
狸の面を頭の横にずらしたその顔は、相変わらず美しい。しかし、透き通るような肌は、今は耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「いきなり『身体を任せろ』だの『家に連れ込む』だの。私とて、心の準備というものがだな……神と人が結ばれるには、しかるべき儀式と手順が……ブツブツ……」
顔が赤い……やはり炎症の熱が全身に回って発熱し始めているのか、急がないと。
「儀式なんか後回しです。とにかく今は一刻も早く家に帰らないと、取り返しのつかないことになります!」
「と、取り返しのつかないこと!?」
ゴクリっと喉が鳴る。
真夏の茹だるような空気が、急に冷えてきた。
カエルや虫の鳴き声が、何かに怯えるようにピタリと鳴り止む。鼻腔をつく「雨の匂い」が周囲の空間を支配し始めた。
「……蒼也よ」
彼女の纏う空気が変わる。先ほどまで赤面して戸惑う少女のような態度は消え去り、威圧感が背景に憑る。
青白い光が彼女の足元から立ち上り、周囲の空間に、重力を無視した無数の水滴がフワフワと浮かび上がった。
「これより先、私を其方の住処へ招き入れ、あまつさえ『責任を負う』とまで申すのであれば……まずはお互いの魂の形を知らねばなるまい。私が何者であるか、其方はまだ、正しく理解しておらぬであろう?」
凄まじい圧だ。
しかし俺の脳内に根付いた『施術家』としての観察眼は、威圧感よりも先に彼女の身体の異常を的確に捉える。
……無理に背筋を伸ばしているせいで、痛めている上僧帽筋や三角筋、ローテータ・カフ、脊柱起立筋まで過緊張している。それは症状を悪化させるだけだ。
「私は、この八郷の地を古より統べる土地神」
彼女は、夜の闇よりも深い蒼色の瞳で俺を見つめる。
「名を、茜半夏雨の尊。日照りに喘ぐ地に恵みの雨を降らせ、時には荒れ狂う水害で人の命を奪い、長きにわたり畏れられてきたこの地の代行者、『氏神』である。……さあ、蒼也。其方も名を名乗るがよい」
張り詰めた空気感、有無を言わせない圧があった。
「えっと……桜咲、蒼也です」
俺はゆっくりと口を開き、彼女の目を見据えた。
「年は十八歳。ハンググライダーで世界を目指しています。そして——」
俺は一歩、彼女の領域へと踏み込んだ。周囲に浮かぶ水滴が、俺の熱気でわずかに揺れる。
「——あなたを苦しめるその『炎症』を、この手で癒すことができる専門家です」
「なっ……へ?専門……?」
「茜さん、あなたがどれほど偉大な神様なのは分かりました。でも、俺にとってあなたは、今すぐ適切な処置を施さなければならない『患者』です。これ以上無理に肩に力を入れないでください!」
「ひぅっ!?」
俺が茜さんの華奢な肩を掴むと、先ほどまでの重苦しく厳格な威圧感はポンッと音を立てて散った、周囲の水滴もボトボトと情けない音を立ててアスファルトに落下する。
「お、お前という人間は! 神の威光を前にして、なぜそうも筋のことばかりっ!」
「患者の痛みを取り除くこと。それが俺の仕事だったからです。それに、俺が貴方に怪我させてしまったのであればなおさらです。さあ、急ぎましょう」
「あ、待て、引っ張るな! あいたたたっ!」
圧は何処かに吹っ飛び、茜さんの手を引いて歩き出そうとした、その時だった。
キキィィィッ!!
山道を走ってきた車が甲高いブレーキ音と共に、二つのヘッドライトで俺たちを照らした。
一台の四輪駆動車が猛スピードで近づき、すぐ横に乱暴に停車する。勢いよく運転席のドアが開き、血相を変えた青年が飛び出してきた。
「おい蒼也!! 無事か!! 無線の返事をしろ!バカ野郎!!」
俺の幼馴染兼、サポートをしてくている、真田忠継だ。
「忠継……」
「無線が途切れたから、GPSの反応があった場合へ迎えに来てみれば!お前、もし死んでたら俺はどうやってお前んちの親父さんたちに顔向けすれば……って、えっ?」
忠継は俺の胸ぐらを掴みかかろうとした両手を空中で止め、俺の後ろに隠れるように立っている彼女を見て完全にフリーズした。
暗闇の中、青白いオーラを微かに残した和装の美女。その異様な存在感に、先輩はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「お、おい蒼也。なんだその……綺麗なお姉さんは。お前、墜落したんだよな……?」
「お姉さんとな?私は茜半夏雨の尊、日照りに喘ぐ地に恵みの雨を——」
「俺の命の恩人だよ」
茜さんが再び名乗ろうとするのを遮り、俺は冷静に忠継に向き直った。
「突風で機体が制御不能になった時、彼女が身を挺して助けてくれたんだ。そのせいで、彼女は今、肩と腕の筋肉に重度の炎症を起こしてる」
「え? 炎症? いや、女の子が身を挺したって……え?どゆこと?それにお前、機体はどうなった!?」
混乱する忠継を宥める。後ろからは口上を遮られ、文句を言われているが気にしない。
「機体はとりあえずフレームが逝った。それとセールも破れたから修理に長引くかもしれない。ルーフに積みたいから、手伝って欲しい」
「お、おう……わかった、わかったけどよ……」
忠継は何やら言いたそうにしていたが、荷台から革手袋を取り出してくれる。
大破し折れ曲がったアルミフレームと、無惨に引き裂かれたナイロンの翼が載せるのを手間取らせたが、二人でなんとか積む事ができた。
「よし、固定完了!茜さんも乗ってください」
「あ、ああ……って、そのお姉さんも乗るのか!?」
後部座席のドアを開け、茜さんを慎重にエスコートする。
「さあ、茜さん」
「う、うむ……すまないな……」
茜はまたしても頬を赤らめながら、おずおずとシートに腰を下ろした。俺もその隣に乗り込み、ドアを閉める。
「出して大丈夫。俺の実家へお願い」
「お、おう……」
車が走り出す。
「な、な、な?は、はやい〜」
茜さんは車が初めてなのか、スピードにビクビクしながら俺の袖にしがみついている。
運転席の忠継先輩は、バックミラー越しに何度もチラチラと後部座席を盗み見ている。
「……蒼也。お前、本当に大丈夫か? なんか、雰囲気が……」
「大丈夫だよ。それより忠継、エアコンの温度少し上げてくれる? 汗で身体が冷える。筋肉は冷やすべきだけど、体全体は冷やし過ぎない方が良い」
「あぁそれは良いけど、お前……さっきから筋肉とか炎症のことしか言ってねえぞ……」
呆れたような忠継をシカトして、俺は茜さんの様子を観察した。
車の揺れに合わせて、彼女が僅かに顔をしかめる。その度に、心配と申し訳なさが胸を支配する。
「茜さん、痛むでしょ?」
優しく低い声で彼女の名前を呼んでいた。
「っ!? あ、いや……大丈夫だ。これくらい……」
「もう少しで家に着きます。そしたらちゃんとした施術をしましょうね」
「う、うむ。私は、お前に……後のことを委ねると決めたのだから……」
茜さんは俺の袖をさらに強く握りしめていた。
バックミラー越しに、忠継の目が限界まで見開かれていたが、俺はそれに気づかなかった。
やがて車は、フルーツラインを抜け、田舎道を通り、俺の実家の駐車場へと停車する。
「忠継、ありがとう。機体はとりあえず後で下ろすよ。もしこのまま帰るなら申し訳ないけど、また明日連絡するから」
「いや、まだ大丈夫だ。俺も一旦、お邪魔するよ」
忠継は荷物や機体は下ろしておくから先に行けと言ってくれた。
実家の前。俺は茜の身体を優しく支えながら、ガラッと引き戸を開けた。
「ただいまー! 氷、氷……って、カレーの匂い……」
玄関を開けた瞬間、スパイシーな食欲をそそる香りが漂ってきた。両親は共働きで帰りが遅い、となれば……
「おかえりー遅かったねー」
キッチンの方から女の子の声がする。
居間に足を踏み入れた俺たちを待ち受けていたのは、黄色いエプロン姿でお玉を片手に、満面の笑みを浮かべた幼馴染の姿だった。




