墜落
茨城県石岡市。
初夏の熱気を置き去りにするように、高度八百メートルの空を滑空している。
ハーネスに全身を預け、派手なナイロン生地の翼が空を駆ける。コントロールバーをぐっと引き込むと、機体がふわりと浮き、目に見えない空気の壁を滑るように進んでいく。
眼下には、緑豊かな八郷の盆地がミニチュアのように広がっている。果樹園の濃い緑、縫うように走るアスファルト、田植えの終わった田園、四方全てを山々に囲まれた特徴的な地形、遠くに見えるそれらは空と混ざり青に見える。
「はーっ!やっぱ最高だ……!」
ヘルメットのシールド越しに、笑みが溢れる。
『蒼也、聞こえるか? 今日のサーマル(上昇気流)、かなりイイ感じだぞ。ランディング地点に車回しとくか?』
胸元に付けた無線から、ノイズ混じりの声が響く。
「ありがとう!確かに今日は最高だ!でも、もう少し高度を稼いでから降りるよ」
コントロールバーをぐっと引き込み、機体のバランスを微調整する。
足尾山の稜線をなぞるように吹き上がる気流を捕まえようと、体重を右へシフトした、その瞬間だった。
「……え?」
あり得ない方向から、あり得ない角度で突風が機体を殴った。
右翼が急激に跳ね上がり、コントロールバーが俺の手から弾け飛ぶ。
「うおっ、ちょ!?」
自然の猛威の前にどうすることもできなかった。
『おい蒼也!? どうした、機体がブレてるぞ! 蒼也!蒼也!!』
無線の向こうで叫ぶ声が聞こえるが、返事をする余裕なんてなかった。
機体は完全に揚力を失い、木の葉のようにクルクルときりもみ状態に陥る。迫りくる巨大な杉の木。死の恐怖が全身を包んだその時。
俺の脳内に、バチンッ! と何かが弾ける音が響き——走馬灯のように『別の誰かの人生』が溢れ出した。
消毒液と湿布の匂い。
患者からは「先生」と慕われる『施術家』としての記憶。
なんだこれ……膨大な記憶の奔流に意識が飲み込まれる。何万人も施術してきた手の感覚。まるで治療家としての技術が今の肉体にインストールされたような……
その直後、下から突き上げるような「突風」がブワァッと俺の身体を持ち上げた。
落下スピードが不自然なほど急激に殺される。
しかし、勢いは完全には消えず、メキバキバキッ! という破壊音と共に、俺の意識は途切れた。
「……っ、痛っ……」
森の青臭さと土の匂いが鼻につく。
ゆっくりと瞼を開けると、俺はうつ伏せで地面に這いつくばっていた。
頭部、頸椎、痺れ……身体へのダメージは大丈夫そう……。まさか生きてるだけじゃなく、殆ど怪我もないなんて。
それよりと、憑き物が落ちたように視界がクリアだ。
『——や! 蒼也!! 応答しろ!! 生きてるか!? 今すぐ救助の手配を——』
胸元の無線から叫び声が聞こえた。
「……ストップ!待って!生きてる。大丈夫だから、身体の痛みはあるけど、無傷だから」
俺は慌てて無線の送信ボタンを押し込んだ。ここで大騒ぎになれば、今後のフライトライセンスに関わる。
「少し風に煽られて、森の奥にツリーランしただけ、自力で機材下ろして戻れるよ、絶対に救助は呼ばないで!」
『お、お前……無事なのか? あんな落ち方して、頭は打ってないのか?』
「大丈夫、本当に大丈夫、マジで打撲くらいだから。後で連絡するから、ちょっとまってて」
通信を切り、ゆっくりと立ち上がって土埃を払う。
さて、どうしたものかな……」
俺の目の前には、白木で造られた荘厳な「お社」……だったものが、ハンググライダーの直撃を受けて無惨に壊れていた。
とりあえず機体を回収して……
真夏特有の、むせ返るような青臭い匂いが消えた。
代わりに鼻が、ひんやりとした『雨の匂い』を嗅ぎ取る。
やかましかった蝉の鳴き声がピタリと止み、無音がが煩くなる。
「何百年ぶりの目覚めかと思えば。随分と無作法な挨拶をしてくれるではないか、人間」
背後から、いきなり冷たい女の声がした。
「はぁ??」
背筋が凍った。余りの不意打ちに、ガラの悪い声が出る。
振り返ると、そこには理を無視した存在がいた。
狸の面を被った和装の女が立っている。しかし、その周囲だけ、細かい水滴が重力を失ったようにフワフワと浮遊している。
彼女は、怒気を放ちながら腕を組んでいた。
「我が安寧の地を荒らした罪、それと……」
女が面を外す。
その瞬間、周囲を漂っていた水滴が、彼女の美しさを際立たせるようにキラキラと輝いた。
透き通るような白の肌と、夜空を溶かしたような青い髪を持つ、儚げな美貌。その雰囲気はこの世の物とは思えなかった。
「私の家をどうしてくれるんだ?」
「……家?」
思考が追いつかない。家って何だ?このお社?人が住んでたのか?いやいやいやいや、どうみても人が住めるサイズじゃない。
「何をアホな顔をしてるんだ?私の家を壊しておいて詫びも無いのか?と聞いてるんだ」
「家って……もしかしてこれのことですか?」
お社だったものを指差しながら聞く。
「それ以外に家などあるわけないだろ!この馬鹿者がぁ!」
ピキッと音がする程眉を吊り上げて牙を剥いてきた。
「わ、わ!?す、すみません!ごめんなさい」
「ごめんなさい、ではないわぁ!私の家が無くなってしまったではないか!!これから先、私はどうやって……いっ
……こ、壊したのはお前だ!このまま逃しは……いたたた……」
彼女はビシッと俺を指差そうとして、急に右肩を押さえて顔をしかめた。
「あの、大丈夫ですか?」
「お前のせいだぞ人間! 咄嗟に無理な力を使ったせいで、全身の筋が……あいたたた……少し、腕を伸ばして……」
彼女が右腕を回してストレッチしようとした瞬間、俺の思考が加速した。
「ストップ!! 伸ばしちゃダメだ!!」
「ひゃんっ!?」
俺は彼女との距離を詰め、その華奢な右肩をガシッと掴んだ。右肩下がり。上僧帽筋から上腕にかけて痛そうに反対の手で押さえている。
「今、あなたの筋肉は断裂を起こしている可能性がある!それにより『炎症』が起きているはずだ!痛いからといってマッサージのように揉んだり伸ばしたりすれば、傷口をさらに引き裂いてしまう!」
俺は捲し立てながら真剣に伝えた。事故によって怪我をさせてしまったのだろう。
「な、何を言っているのだお前は……! ……痛っ……」
「ほら!じっとして!」
辺りを見回す。
ダメだ、山の中じゃ氷がない。炎症は時間との勝負……とりあえずあれなら……
俺は持っていたナイフで、落ちた機体の破れたセールを切り取とった。
「俺、桜咲蒼也っていいます。家のことはすみませんでした。これは俺がキチンと弁償します」
俺は向き直り、深く頭を下げてから、バッと神様に詰め寄った。
「お、おい!?顔が近いぞ!」
セールで作った長めの三角巾。それで彼女の腕を首から吊るように的確な位置で簡易固定する。
「な……?き、気安く触るなッ!」
「こんなものしかなくてすみません。しかし無いよりは楽だと思します。それと、炎症を抑えるには氷が必要です! とりあえず家を直すまでは、ウチに来てください! このままじゃあなたの筋肉が壊れてしまう!」
「い、い、家だと!? 私を自分の家に連れ込むなど、そんなっ!その意味をわかっておるのか!??」
神様の顔が、一瞬で茹でダコのように真っ赤に染まった。
顔が赤い……発熱が全身に回ってる証拠か?急がないと!焦燥感が募る。
「当たり前じゃないですか! 責任くらいちゃんと取ります。あなたの身体のことは俺に任せてください。俺が最高の状態に戻してみせます!」
「か、か、か身体!? 私の身体を……!? そ、それに家に来いなど……それって、けっ、けっこんというものか!?」
「冗談を言ってる場合じゃありません!炎症は待ってくれないんです! ほら、行きますよ!」
俺は小さく艶やかな手を握り歩き出す。
「な!?!? お前!……そんな強引に……うぅぅ……えーい!わかった、それなら!責任は、取ってもらうからな!…………あとこれ、ありがとぅ」
最後の方はよく聞こえなかった。とりあえず機体を片付けて下山しなくては。
こうして俺は、顔を真っ赤にした彼女を、大急ぎで連れて帰ることにしたのだった。
初めまして。
水上 たくとと申します✨
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