第4話 先頭集団
花咲や佐伯のレースを見る前に、飲み物を買おうと自販機へ向かうと、俺たちのレースを観戦していた舛谷先生と出くわした。
「おお、巽。初レースはどうだった?」
勢いよく話しかけてくる先生に、俺は正直に答えた。
「めちゃくちゃキツかったですけど、ギリギリ6分は切れたので良かったです」
「まあ、初戦はそんなもんだ。次のレースも期待してるぞ」
先生は笑顔でそう言ってくれた。
「ありがとうございます。失礼します」
立ち去ろうとすると、先生が呼び止めてきた。
「あと一つ、この後の1500mと3000mの試合は見て帰るように」
「佐伯や花咲の応援ですか?」
「まあそれもあるが、何よりお前と同級生のトップレベルを一度見ておいてほしいんだ。必ず何か学ぶことがあるはずだからな」
舛谷先生の言葉に、俺は「分かりました」と短く答え、その場を後にした。
ポカリスエットを片手に観戦席へ向かうと、ちょうど花咲のレースがスタートした直後だった。
花咲は2年生の中でもトップクラスの実力者だ。言葉通りC組の先頭を独走し、そのまま1位でゴールした。
タイムは4分31秒。大幅な自己ベスト更新だ。
花咲はいつものクールな表情を崩さなかったが、その瞳には微かな喜びが滲んでいるように見えた。
続いて佐伯が走るB組。
ここからレベルが一段階上がる。佐伯のベストは4分27秒。周囲も同等のタイムを持つ強者揃いだ。上位に食い込むのは容易ではない。
それでも、佐伯は序盤から集団の真ん中で冷静にレースを進めた。
結果は4分29秒のセカンドベスト。
自己ベストには届かなかったが、今シーズン最初の試合としては悪くない数字に、本人も納得の表情だった。
ついに最終組、1500m A組のスタートを待っていると、レースを終えた佐伯と花咲がやってきた。
「お疲れ、巽。タイムはともかく、レースの進め方は嫌いじゃなかったぞ」
佐伯が声をかけてくれる。
「ありがとう。でも、佐伯や花咲と比べると別格だな。俺もいつか、お前らみたいになりたいよ」
そう俺がこぼすと、珍しく花咲が口を開いた。
「次のレースに出るやつらに比べたら、僕らは大したことありません。あいつらこそ『別格』ですよ」
また大げさな……と思っていると、佐伯が続けた。
「俺たちの県の同級生には、突出した『バケモノ』が四人いるんだ。そのうちの二人が、次のレースを走る」
一人は浅葱凪沙。4月だというのに全国大会の参加標準記録を突破している怪物だ。1500mは4分01秒、3000mは8分52秒。県内では負けなしの絶対王者。
もう一人は、800mから3000mまで幅広くこなす県記録保持者、玖珂蓮次。800mのタイムは1分54秒。中学生にして高校生と渡り合えるレベルだという。
「その二人が同じレースを走るんだ。これは見物だぞ」
「……残りの二人は?」と俺が聞くと、
「残りのうち一人は、美上一。この大会の3000mに出る。他の三人に比べるとタイムは劣るが、駅伝では他を寄せ付けない強さを発揮するんだ。新人駅伝で浅葱に大差で勝ったこともある、唯一の同級生だ。……で、最後の一人は……あ、もうレースが始まる!」
佐伯の紹介を切り裂くように、乾いたピストル音が響いた。
前評どおり、浅葱が先頭でレースを引っ張る。
高校生や社会人が混ざる中でのこの走り、まさに別格だ。
最初の300m通過は45秒。今の俺が全力で走っても出すことができないタイムだ。
もう一人の注目選手、玖珂は集団の後方で冷静に機を窺っている。
浅葱はそのままペースを落とさず、自身のベストを狙えるペースで突き進む。
「試合に勝つことより、自己ベストを優先した走りだな」
隣で佐伯が呟く。
先頭が変わらないまま、レースは終盤へ。このまま浅葱が逃げ切るのかと思われたが、玖珂がそれを許さなかった。
ラスト400m。集団との差を50m近く開けていた浅葱を、玖珂が猛烈なラストスパートで追う。
差が40m、30mと縮まっていく。
ラスト100m、玖珂が浅葱の横に並びかける。抜かれかけたところで、浅葱がさらにギアを上げた。
一歩一歩がさらに力強くなり、ピッチが上がる。
最後はもう一度玖珂を引き離し、浅葱が1着でフィニッシュした。
タイムは3分58秒。県中学新記録だ。
続く玖珂も4分00秒。浅葱には届かなかったが、自己ベストを更新し、全国大会参加標準記録を上回るタイムを叩き出した。
「バケモノかよ。今の俺より2分も速いぞ」
俺が呆然としていると、
「浅葱のタイム、県記録どころか全国ランキング1位じゃないか?」
と、佐伯が驚愕の声を上げた。
会場に衝撃を残したまま、1500mの全試合が終了した。
佐伯は親の迎えが来たため帰宅。ここからは、俺と花咲の二人で3000mを観戦することになった。
気まずい空気が流れる中、花咲が口を開いた。
「次のレースに出る美上は、うちの高校が志望校らしいですよ」
「それって……来年は俺たちと同じチームで練習するってことか?」
驚いて聞き返すと、
「確定ではないですけど、そういうことになると思います」
と花咲は答えた。
俺の通う学校は中高一貫校。中学三年の俺たちはそのまま内部進学するが、それとは別に外部からの入学生もいる。まさか県内屈指の有名選手が、わざわざこの学校に来るなんて。
気持ちが整理できないまま、3000mのレースが始まった。
「あれが、美上か……」
てっきり厳つい顔を想像していたが、思いのほか優しそうな顔をしていた。あまり速そうには見えない……と思っていたが、スタートの号砲とともに彼は前へ飛び出した。
フォームは独特だが、無駄がなく美しい。
今回の大会、実力者のほとんどは1500mに出場していたらしく、3000mは美上の独走状態となった。一度も先頭を譲ることなく、1位でゴール。タイムは9分07秒。
浅葱や玖珂に比べて派手さはないが、やはり彼の真骨頂は駅伝なのだろう。
「来年が楽しみだ」
俺がそう呟くと、花咲がこちらを見た。
「先輩、来年以降も陸上続けるんですか? 正直、今の実力のままでは競技を続けても無駄ですよ」
あまりに刺さる、花咲の言葉。
「そんなことはわかってる。でも、そう決めたんだ」
俺はまっすぐ前を見て答えた。
「ここで辞めるのは、ただの逃げだ。それだと前の俺と何も変わらない。俺は、俺を変えるために陸上をしてる。この選択が無駄ではなかったと、俺自身が証明してみせる」
言い切った俺に、花咲が言葉を返した。
「最高ですね、先輩。絶対強くなりましょう」
その目には、いつもの冷たさはなく、今の俺と同じ熱が宿っているように見えた。
少し困惑しながらも、俺はニヤリと笑って、大きく頷いた。




