第3話 最下位のゴールテープ
一週間後の、デビュー戦当日。
俺は初めて、本格的な陸上競技場に足を踏み入れた。
今まで学校の近くにある小さな競技場しか知らなかった俺にとって、ここは全くの別世界だった。メインスタジアムとは別に「サブトラック」と呼ばれる練習用のトラックがあることに、まず圧倒される。
試合直前、俺たちはそのサブトラックでアップを始めた。
朝早くから集まった選手たちは、すでにそれぞれのルーティンをこなしている。彼らから滲み出るオーラは、初心者である俺の目にはあまりに禍々しく、そして眩しく映った。
三時間後、俺は河野とともに再びサブトラックへ向かった。
今回の記録会では、俺と河野は同じレースを走るらしい。陸上の試合は、自己申告などの資格記録をもとに組分けされる。一番速い組がA組、記録を持たない俺たちはF組。
言ってみれば「最弱の組」だ。
一方で、実力者の佐伯はB組、花咲はC組だという。彼らのレースは俺たちの後にあるため、終わったら観戦しようと思う。
アップを始めると、試合まで残り1時間30分。
まだ余裕はあるはずなのに、刻一刻と迫る時間に、緊張を通り越して吐き気を覚えた。周りでアップをしているライバルたちの視線が、すべて自分を突き刺す針のように感じる。そんな恐怖と戦いながら、俺はいつも以上に丁寧に体を温め続けた。
試合開始30分前。
更衣室でお気に入りのアニソンを聞きながら、試合用のユニフォームに袖を通す。
「大丈夫、俺ならいける」
自分にそう言い聞かせ、更衣室を出た。
外には、先に着替えを終えた河野が待っていた。
「Are you ready?」
緊張をほぐすために俺が口にすると、
「Of course.」
と、河野も不敵に答えた。
試合15分前、俺たちは「招集所」へと向かった。
そこで選手全員が揃っているか、スパイクに違反がないかを確認される。
どんよりとした空気が漂うその場所で待っている間、ずっとレース中の苦しさが頭をよぎり、身震いが止まらない。隣の河野も、見たこともない「死んだ魚のような目」をしていた。
いよいよ、メイントラックへと案内される。
会場は静まり返っていた。だが、不思議な熱気と、走る前から感じる微かな苦しさが鼻腔をつく。
全身の筋肉が、限界まで引き絞られた弓の弦のように音を立てて張り詰めている。
その張り詰めた空気を、ピストルの冷徹な音が切り裂いた。
「オン・ユア・マーク」
「セット」
――パンッ!
横一列に並んだ選手たちが一斉に飛び出す。
少しオーバーペースな気もしたが、俺も負けじと食らいつく。先頭のすぐ後ろをマークし、300mを54秒で通過した。
もし、このままのペースで行ければ4分30秒が狙える計算だ。
だが、今の俺にその力がないことは、俺自身が一番よく分かっていた。必ず失速する。それでも、今は食らいつく。粘れるところまで粘りつく。
強気にレースを進めていたが、500m、600m、700m……と距離を重ねるごとに、足が鉛のように重くなっていく。
一人、また一人と、後ろの選手に抜かれていく。
いつの間にか河野にも抜かれ、俺は最後尾になっていた。
呼吸が苦しい。足が上がらない。
そんな地獄のような苦しみに耐えながら、ラスト300m。
残りは気合だけで体を動かす。
だが、目の前には誰もいなかった。誰の背中を追うこともできない。
そのとき、初めて気づいた。自分はまだ、スタートラインにすら立てていなかったのだということに。
重たい足を引きずりながら、なんとか最下位でゴールした。
タイムは、5分58秒。
6分を切れたという微かな安心感と、最下位でゴールしたという底知れない絶望感。その両方が頭の中で激しく殴り合う。
何も考えられないままトラックを去ろうとすると、河野が歩み寄ってきた。
「タイム、何秒だった?」
喘ぐような息の中で問いかけると、
「5分27秒くらいかな」
と河野は答えた。
俺は最下位。河野はワースト5位。
最弱の組で、この結果だ。
どうやら俺たちは、スタートラインの5kmくらい後ろを走っているらしい。それほどまでに、他と俺たちでは実力差があった。
青色に輝く空の下。
不安と絶望、そして、ほんのわずかな期待を内に秘め、俺は初戦のゴールテープを切った。




