第1話 スタートライン
翌日。学校を終え、いつものように「爆速」で校門を目指そうとした時だった。
「巽! ランニング始めるんなら、陸上部入れよ!」
背中に、ドンと力強い衝撃が走る。
声の主は舛谷先生。この学校の陸上部顧問であり、学生時代は100mを10秒台で駆け抜けたという怪物だ。
「あはは……考えておきます……」
俺は引きつった笑いを浮かべ、逃げるように帰路についた。
まさか俺が陸上部に入るわけがない。先生だって軽い冗談のつもりだろう。そう自分に言い聞かせながら自転車を漕ぐ。
けれど、もし。もし今からでもあの集団に飛び込めば、この退屈な日常を塗り替えられるのではないか。誰よりも速く走れるようになれば、女子にモテまくる日々が手に入るのではないか。
そんな他愛もない妄想を、苦笑いで振り払いながらペダルを踏み続けた。
帰宅して、いつものように机に向かう。
だが、俺は勉強が好きでもなければ、得意なわけでもない。勉強を盾にして運動部から逃げ回っているくせに、いざ机に座ればSNSやゲームで時間を溶かすばかり。
気づけば、貴重な中学生活の三分の二を無駄に過ごしてきた気がする。このまま、何者にもなれないまま卒業していくのだろうか。
そう思った瞬間、「陸上部への入部」という、これまで選択肢にすら入らなかった一手が、唯一の「最善手」のように思えた。
3年生から始めるのは、客観的に見れば遅すぎる。その事実は変わらない。
けれど、今の自分にとっては、今この瞬間こそが「最速」なのだ。
午後5時21分。
夕闇に溶けかける空を見つめながら、俺は静かに、けれど固く決意を固めた。
翌日、学校で河野に入部を伝えた。
「今から始めるのって、遅すぎない?」
呆れたような河野の言葉。だがその瞳の奥に、先を越されたことへの僅かな焦燥が見えたのを、俺は見逃さなかった。
「まあ、もう決めちまったからな」
言い残して俺は席を立ち、入部届を受け取りに職員室へと向かった。
放課後、その足でスポーツ店へ向かった。
並ぶ靴の多さに圧倒される。店員に「3年から陸上を始める」と伝えた時、一瞬だけ見下されたような気がしたが、それでも彼は初心者の俺に合う一足を選んでくれた。
そのシューズは、母さんが買ってくれた。
「明日からきついと思うけど、頑張ろう」
だらしない生活を送っていた俺が、自ら「変わりたい」と言い出したことに、両親は言葉以上の期待を寄せてくれているようだった。
翌日の放課後。
爆速で駐輪場へ向かう誘惑を断ち切り、俺はおそるおそるグラウンドへ足を踏み入れた。
朝一番で舛谷先生に入部届は提出済みだ。
「今日は新入部員が7人いる。二、三年生と新入生、順に自己紹介してくれ」
先生の指示で、部員たちが前に出る。
「3年A組、佐伯航太です。専門は800m。ベストは2分9秒です」
「2年A組、花咲総司です。専門は1500m。ベストは4分36秒」
佐伯はクラスこそ違うが、中学からの友人だ。経験者の彼らは、これから頼もしい(あるいは遠すぎる)指標になるだろう。
そう考えているうちに、自分の番が来た。
「3年B組、巽薄暮です。長距離をやりたいと思ってます。……陸上は初心者ですが、食らいついていけるように頑張ります」
言い終えると同時、聞き覚えのある声が続いた。
「3年B組、河野勇士です。長距離をやるつもりです。1年間ですが、よろしくお願いします」
お前も入るんかい! とツッコミたくなったが、あいつの負けず嫌いな性格を考えれば、驚くことでもない。河野にだけは負けたくない。俺はもう一度、心を引き締めた。
長距離の部員が集合し、舛谷先生が今日のメニューを発表する。
「今日は新人もいるし、小手調べだ。試しに6kmジョグいこうか」
……6キロ? ジョギングの距離じゃないだろ。
来る場所を間違えたか?
絶望に近い衝撃を抱えたまま、俺の「初練習」がスタートした。




