第0話
この真紅の舞台と、雲一つない青天。
陸上競技者ならば、生涯忘れることのない景色だろう。
その舞台に足を踏み入れた瞬間、心臓の鼓動が跳ねる。レースを終え、歓喜に沸く自分を想像しただけで、全身に緊張が走り抜けた。同時に、ライバルたちを圧倒し、勝利を手にする自分を妄想せずにはいられない。
俺たちは不敵な笑みを浮かべながらスタート位置につき、高鳴る鼓動をそのまま推進力に変えて、今、走り出す。
~中学3年生、春~
「おはようございまーす」
いよいよ始まった、中学生活最後の1年。
とはいえ、うちは中高一貫校だ。ほとんどの生徒がそのまま内部進学するため、来年からも他の高校からの新入生は増えるが教室の顔ぶれに新鮮味はない。
「はよ、薄暮」
朝一番の気だるそうな声で返してきたのは、中1からの付き合いである河野だ。
「今日の持久走、どっちが速いか勝負しようぜ!」
俺の威勢のいい誘いに、河野は「最近、自主トレしてるから負けないよ?」と、さらりとかわした。
俺も河野も、所属は化学研究部だ。決して運動が嫌いなわけではないが、勉強を優先するために運動部には入らなかった。3年間同じクラスで過ごしてきたから、互いの手の内はよく知っている。
だからこそ、最近の河野が陸上部に憧れを抱いていることにも、薄々気づいていた。
だが、もう3年生だ。今さら未経験者が、中1から積み上げてきた現役の陸上部員に勝てるはずがない。俺も河野も、頭ではそう理解していたはずだった。それでも、河野は一人で走り続けていた。
三時間目、体育
眠気がピークに達するこの時間の体育は、ありがたいような、ひどく億劫なような、複雑な気分になる。
よりによって、今日は持久走だ。いくら体育とはいえ、周りの連中の士気は低い。
だが、俺だけはそうもいっていられない。河野と勝負を約束してしまったし、何より、元々スポーツには自信がある。陸上部には及ばずとも、そこそこのタイムで上位に食い込み、「3年生こそは女子にモテる1年にする」という野望があった。
「……6分30、31、32……34、35、36!」
「巽は6分36秒!」
……嘘だろ。
思っていたより、体が動かなかった。河野にも惨敗だ。
「お疲れ、薄暮。タイム、何秒だった?」
「6分……36秒ですけど、何か?」
「マジかよ。全然速くなってないじゃん。ちょっとは運動しなよ」
河野はそう言い残して、軽やかに去っていった。あいつは何秒だったんだよ。
負けた悔しさはもちろんだが、何より、嫌味なくさらっとあしらわれたのが癪に障る。アイツのそういう、どこか涼しい顔を崩せないのが、またカッコいいのが余計に悔しい。
まだ荒い呼吸を整えきれないまま、俺は苦い思いを抱えてグラウンドを後にした。
その夜
「今日は、全然ダメだったな……」
家の勉強机に向かうと、昼間の光景が苦い記憶として蘇る。
この3年間、持久走のタイムはほとんど変わっていない。全く運動していない割には健闘している方かもしれないが、成長期真っ只中の今、一歩も「進化」していない事実は、想像以上に虚しかった。
そんな思いを振り払うように、俺は日記帳を開き、ペンを走らせた。
〈今日、全然速く走れなかったので、明日から少しずつランニングを始めようと思います〉
そう記して、俺の1日は終わった。
この何気ない一行が、自分の運命を大きく変えること。
そして同時に、多くの傷を負い、それ以上の「新たな喜び」を知るきっかけになることなど、この時の俺には知る由もなかった。




