第22話 エピジェネティクス
「コバちゃん。やったぞ!」
上杉さんから電話だ。珍しく、やたらと興奮した声で掛けてきた。
「驚くなよ。読者アンケート、いきなり、3位だ!」
――えっ。
小林は驚いてフリーズした。
そして、上杉が止まらない。
「俺も、正直ここまでとは思わなかったよ。編集部でもかなり評判がいい。こうなったら、連載を狙おう。なんとしても、次の会議でイチ押ししたい。とにかくすすめよう」
「は、はい。はい!」
小林も、『連載』という夢にまで見た言葉に触発され、次第に興奮してきた。
「コバちゃん。連載となると、まずは10話分のネームを仕上げる必要がある。次の敵キャラはどうする?トカゲマンに仲間はいるのか?この先の展開をどう考えていくか。今のところで方針なり、展望なりがあったら聞かせてくれ」
「展開ではないんですが、世界観を広げたいとは思ってまして」
「どういうことだ?」
小林は、扉絵を描いた時に感じた「世界が広がった」という感覚を大事にしたい。と思っていた。読み切りでは打ち出せなかったモノを裏テーマとして組み込んで、世界観を分厚くしたいという思いが膨らんでいた。
「エピジェネティクスです」
「なんだそれ?」
上杉は聞きなれない言葉に戸惑ったようだ。
「後成遺伝学と呼ばれる、最近になって急速に研究が進んできた学問分野らしいです。僕も最近調べたので、にわかですが」
「待て待て。コバちゃん。それ、小学生に伝わるのか?」
「大した説明はしません」
「え?」
「読者に学問を教えたいわけじゃないですから」
「聞かせてくれ」
「まず、遺伝子組み換えネタは、マンガとしてはもう古臭く感じています。その点、エピジェネティクスは遺伝子の塩基配列はそのままです。あるキッカケで、どの遺伝子を働かせ、どの遺伝子を眠らせるかをコントロールする。すると、個体に劇的な変化を生じさせることが出来るというモノらしいです」
「遺伝子を書き換えるわけではないのか?」
「そうです。今のままの遺伝子の、ある部分をスイッチオンする。スイッチオフする。しかもその組み合わせで、多種多様な変身形態を具現化出来る」
「俺は、トカゲマンの変身は、進化の延長だと捉えていたんだが」
「あれを、進化ではなく、変化の方向で切り替えたいと思います」
「ほお」
「生物が持つ、もともと眠っていた可能性が目覚めるんです」
「なるほど。変身の理屈を一段深くするってわけだな!」
上杉さんの声が弾んだ。
「最近調べていて感じたのが、進化の定義なんです。なにを持って進化と言っているのか、よくわからなくなってきて」
「適者生存ではないのか?」
「ええ、僕もそう思ってました。よく言われるのが、キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びたのではない。たまたま首の長いキリンが食料にありついて、生き残った」
「ダーウィンの進化論では、そう言ってるんじゃないのか?」
「それが、進化生物学者が言うには、適者生存だけでは説明しきれないらしいんです。もちろん適応は重要なんですけど、それ以外の要因も大きい」
「なにがあるんだ?」
「たまたま、なんですって。適してなくても、たまたま、生き残った」
「はあ?」
「例えば、オスのクジャク。あんな派手で巨大な羽根は生存に不利なんです。重いし、目立って、捕食者には狙われやすい。でも、残った。何故か。メスが好んだから。生存競争とは別の、繁殖競争に重きを置いた。これをダーウィンは、性選択といったらしいです」
「生存には不利なのに、繁殖には有利だったってことか。生き残るだけが競争じゃないんだな」
「学者達は、適者生存だけで全部を説明するのを嫌うみたいなんです。性選択もあるし、偶然にも、たまたま、生き残ったものもある。ダーウィンも元々はそう言ってたみたいで」
「進化とは、思っていたよりずっと複雑なんだな」
「むしろ、進化という、方向性づけを嫌う研究者もいて」
「たまたま生き残ったやつもいて、優劣があるわけではない。ってことか」
「だから、変化の方が、しっくりきたもんですから」
「コバちゃん。さすがだ。よく勉強しているな」
「いえいえ。僕も詳しいわけじゃないんですが、エピジェネティクスにはまだ分からないことが山ほどあるらしいんです」
「でも、だからこそ、逆に想像できる余地がある」
「そうです」
「なるほど、このマンガ。『友情』が表の顔だ。そして裏で、覚醒する可能性。変化する身体能力。生き物ってヤツの不思議さ。それを、二人の少年が目の当たりにして成長していく物語かもしれん。よし! 早速、設定資料の作成に取り掛かろう。俺も調べてみるから、情報を随時共有していくぞ!」
「はい。よろしくお願いします」
上杉さんが一拍おいて、声のトーンを落とした。
「コバちゃん。俺正直な」
「はい」
「読切の時は、面白いと思った」
「はい」
「でも、ただ、面白いだ」
「・・・」
「ところが、今の話聞いていたらな」
「はい」
「連載で化ける気がしてきた。しっかり頼むぞ!」
「ありがとございます」
小林は、深くお辞儀をして、スマホを切った。
*
ドンドンドン。ドンドンドン。
ドアを叩く音が響いた。
「コバちゃん。いるんでしょ。開けてよ。ここ開けて」
ひなのの声だ。
小林は嫌な予感がして、そおっと、玄関ののぞき穴に目を当てた。
ひなのが、トカゲマンの掲載された今月号を手に持っている。
とうとう、バレた。
小林は玄関に張り付きながらも、顔面の血の気がサーっと引いていくのを生で感じた。
「コバちゃん。どうしてよ!」
小林は、振り返って、ドアに背中を向けた。だが、足は動かせなかった。
物音を立てることも出来ず、突っ立ったままになった。
「私、私、ずっと・・・待ってたんだよ」
ひなのの声が震えている。
ドンドンドン。
「忙しいんだと思ってた」
ドンドンドン。
「頑張っているんだと、おもってたー」
ドンドンドン。
嗚咽混じりの声が響く。
「だから、邪魔しないようにしてたのに・・・」
ドサっという音。ひなのが崩れ落ちた。
立ったまま、目を瞑っている小林には、容易に想像できた。
「なんで話してくれなかったのよ」
小林の首がガクッと落ちた。
「私に黙ってるなんて・・・」
――信じられない!
ガンガンガン。ガンガンガン。
雑誌を丸めてドアを殴りつけている。
背骨から足のつま先まで響き渡る衝撃を受け、小林は若干よろめいた。
目の奥では、ひなのが号泣して、ドアを叩き続けている姿がありありと見える。
ガンガンが止まった。
しばらく、音がしない。
鼻を啜る音は、かすかに聞こえる。
ひなのは、少し静かなトーンで喋りだした。
「ねえ・・・コバちゃん。それとも、偶然なの?」
「偶然、同じようなマンガを描いていたの?」
「そんなこと・・・あるの?」
鼻を啜る音だけが聞こえた。
ひなのは返事を待っていた。
「偶然だよ」という、その一言を。
この期に及んで、まだ。
ひなのの気持ちが痛いほどわかった小林だが、だからこそ、嘘がつけなかった。
沈黙しかなかった。
「私は、あずちゃんになんて言えばいいの・・・」
ドンドンドン。
「あずちゃんに、なんて言えばいいの。教えて、コバちゃん。教えてよ!」
小林は、耐えきれず、ドスドスと足音を立てて歩き出した。
万年床の布団に倒れ込む。
掛け布団と毛布を頭から被った。それでも、
「あずちゃんに、なんて言えばいいの」
という声だけは聞こえていた。
* * *
「たかし見ろ、これ、なんだが分かるか?」
啓太が、両手で包んでいた物を、広げて見せた。
「お、蝶のサナギだな。どこで手に入れた」
たかしは、興味深々で聞いた。
「うちの物置で発見した。アゲハのサナギだ。さて、何アゲハでしょう?」
「わかんねーよ。そんなの。春になってパカッと割れて、出てきて初めてわかるんじゃねえのか」
「いや、サナギの段階でわかる。よし、二択だ。ナミアゲハかキアゲハ、どっちだと思う?」
啓太は、鼻を膨らませ、得意満面である。
「お前、調べて来たな。よーし当ててやる」
たかしは、目を凝らしてサナギをじっと見た。
「ホントにサナギでわかるのか。ナミかキか、だって。おい、高木」
たかしが、通り掛かった翔太を呼び止めた。
「このサナギ。ナミアゲハかキアゲハのどっちかだって。お前、わかるか?」
「どっちだと思う?」
啓太も、ニタつきながら、翔太に聞いた。
うん?っと、翔太は足を止め、サナギを見つめた。
「いや、わからない。違いなんてあるのか?」
「ナミアゲハだったらミカンの木に卵を産むからな、ミカンの匂いがするぞ」
啓太が、含み笑いを浮かべてそう言うと、
「なに?」
「ホントか?」
たかしと翔太が揃って、鼻を近づけて、クンクンと嗅いだ。
「しねーな。ってことは、キアゲハか」
「いや。待て。かすかに柑橘系の香りかもしれない」
翔太がそう言うと、たかしはもう一度顔を近づけ、入念にサナギの匂いを嗅ぎ始めた。
二人揃って顔を近づけ、クンクン、クンクンと熱心に嗅いでいる姿が可笑しくなったのか、啓太が、ぷっと笑い出した。
「するわけないだろ。匂いなんかしねーよ。バカだな。ははは」
なんだよ。しょーもねえ。とたかしが呆れると、翔太は、じゃあ、どっちなんだ。と白黒はっきり付けたいらしく、見分け方なんてあるのか?と聞いてきた。
「角の開き方で見分けるんだ。キアゲハは平行。ナミアゲハはV字だ。見ろ。これはV字だから、ナミだ。カッケエだろ」
啓太は、得意げに、サナギを掲げて見せた。
「ほお、それはナミアゲハのサナギなのか」
いつの間にか、吉田先生も傍に立って聞いていた。
「はーい、みんな席に着け。授業始めるぞ」
吉田先生は、パンパンと手を叩いて、教室のざわつきを静めてから、教壇に立った。
五年二組の教室では、理科の授業が始まろうとしていた。
「ちょうどいい。岡田が、アゲハ蝶のサナギを持っている。これは、アゲハ蝶が冬越しをしている姿だ。岡田見せてみろ」
「はい。これは頭の角がV字に開いているから、ナミアゲハのサナギです」
啓太が、サナギをつまんで高々と上げた。
「先生。なんで、こいつはわざわざ完全変態して、蝶になるんですか?」
啓太が、素朴に聞いてきた。
吉田は少し驚いた表情をした。
「お、難しい言葉を知っているな、岡田」
すると、たかしが後追いをしてきた。
「不思議だよな。幼虫からサナギ、成虫と、ガラッと姿が変わるもんな。なんで?先生」
「お・ま・え・らの、気持ちはよくわかる」
啓太とたかしをいちいち指差して、吉田のテンションは一気に上がった。
「なんでなんだろうな。不思議としか言いようがないよな。みんな見ろ。あのサナギは、前は芋虫だった。そして、春が来ると蝶になる。昆虫とは、なんと不思議な生き物なんだ」
「先生。完全変態するのもいれば、不完全変態で成虫になる昆虫もいます。これも不思議だと思いますけど」
今度は翔太が割って入った。
「その通りだ。不完全変態。こいつらはどうして、その道を選んだのか? 自然界は謎だらけだな」
吉田は、自分が子供だった頃の疑問が想起して、ワクワクが止まらなくなった。
「先生。完全、不完全って、なんのことですか?」
クラスの女子から声が上がった。
「昆虫には、完全変態と不完全変態がある。違いが分かる人?」
「サナギになるか、ならないかです。まさにこれが完全変態」
サナギを突き出して、啓太が答えた。
「そうだ。なぜ完全変態するのか。先生にもよくわからん」
「ええー。先生、知らないの?」
クラスがざわめいた。
「でも、だから面白い。考えてもみろ。あんな芋虫みたいな幼虫が、あんな綺麗な蝶々になるんだぞ。しかも、その間にも、そこのサナギという、まったく違う姿かたちになって、じっと冬を過ごして、春を待っている。どういうことなんだろうな」
吉田は、身振り手振りで、自ら芋虫になり、蝶になり、と楽しくなってきた。
ひなのは、上の空で窓の外を見ていた。
同じ生き物なのに、まるで別の姿になる。
そんな話が、今のひなのには妙に引っ掛かった。
校庭で小さな砂煙が、渦を巻いている。
渦は何度も消え、また、現れたりしたが、立ち上がって舞い上がりはしない。
中途半端に目の前を掻き回すだけの存在を、ただ、ボーと眺めていた。
吉田は教壇の前に躍り出て、両手を広げて羽ばたいたり、その両手を祈るように組んで、クネクネと揺らせて見せたりした。
「先生、芋虫のマネはやめてください」
「クネクネ、キモーい」
「芋虫、きらーい」
女子の中には虫の話題が嫌いな子もいる。
吉田は、そういう女子にもなんとか興味を持って欲しかった。
「完全変態する昆虫と、不完全変態する昆虫。それぞれどんな虫がいる? サナギになるのが完全変態。サナギにならないのが不完全変態だ」
翔太が、はいっと手をあげて答えた。
「サナギになるのは、蝶々、カブトムシ、クワガタがいます」
「よし、カブ来た。うちにはカブの幼虫がいるぜ」
「うちには、カブも、クワもいるぞ」
啓太とたかしは自慢気な顔をして、立ち上がった。
「では、不完全変態はどうだ?」
吉田が聞くと、
「バッタやカマキリです。サナギになりません。生まれた時から、あの形です」
翔太があっさりと答えた。
「さすが、高木だ。その通りだ。春になると、チビカマキリが出てくるだろ。こんな小っちゃいヤツ。卵から出たら、もうカマキリの姿をしている。バッタもそうだ。サナギになる必要がない。それに対してだ、蝶々は・・・幼虫からはじまって・・・」
吉田は黒板に簡単な絵を描いて、その不思議な造形を改めて可視化しようとした。
「面白いよな~。こんな芋虫がだぞ、こんなアゲハ蝶に変身するんだぞ」
「先生。画が下手くそ。気持ちわる~い」
女子の一部から、訝しがる声が上がった。
「そっかあ。ちょっと松田、手伝ってくれ」
絵が不評だったため、吉田はあずさを呼んで、黒板に描いてもらった。
あずさは、芋虫 → サナギ → アゲハ蝶。とササっと描いた。
おおっと。男子からは歓声があがった。
簡単な線でのはしり描きだったが、かなりリアルな造形で、黒板に大きく描き上げた。
「松田。すげえな。やっぱり、お前天才だな」
男子たちは喰いついた。
「松田。カブ描いてくれ」
「ノコだよ。ノコギリクワガタ」
「ミヤマとバトルしてるのがいいな」
男子たちは、思い思いを口に出して、リクエストする始末だ。
すると、
「ちょっと、あずちゃん!」
アンナがそう言って立ち上がった。
勢いよく前に出てきて、黒板消しで芋虫を、ザッ、ザッ、と乱暴に消した。
「芋虫。キモイから、可愛くして」
もう、しょうがないな~。という顔をしたあずさだが、今度は、クリクリお目目で、ニッコリ笑っている、イラストチックな芋虫を描いた。
「ああ、かわいい。イモちゃん。これなら好き」
今度は、女子連中が、手を叩いて喜び始めた。
「やっぱり、あずちゃん、てんさ~い」
あずさも、そう言われてノッテきた。
親イモちゃんの後に、子イモちゃん。孫イモちゃん。と親子三代が並んで歩いている姿に描き替えた。日傘やバスケットを持っている。まるで、お弁当を持って、仲良くピクニックにでも行くような、三匹の楽しそうな行進だ。
「こ、こ、ト、ト」
あずさが口を開くと、アンナが訳した。
「これでどう? トトロ見たいでしょ。だって」
「うん。かわいい。じゃあ、名前は、イモロだわ」
「うん。親イモロ。子イモロ。孫イモロ」
「イモロ、かわいい~」
と、女子達はみんな、立ち上がって喜んでいる。
「芋虫のまま大人になったら、完全変態じゃないぞ。なんでこうなるんだよ」
吉田が不満げにそう言うと、
「先生。うるさ~い」
「先生の絵が下手だからでしょ」
「代わりに、あずちゃんが書いてくれたんじゃん」
女子達の辛辣な声に、吉田はシュンとなった。
「どうも、すいませんでした」
吉田が、ポリポリと頭を掻きながら謝ると、教室中がどっと沸いた。
ひなのは、一人黙って、あずさが楽しそうにしている姿を眺めていた。
* * *
「ちょっと、コバちゃん。飲み過ぎだよ。また、こんなになっちゃって」
礼子は、カウンターでつぶれている小林の肩を揺らしながら、ぼやいた。
「あ~あ、またつぶれたか」
「この最近、毎日来てますね。コバちゃん」
「こいつ、酒弱いのにな。オイ。オイ」
大久保と社長と井上が、小林をぐるりと囲んで、ツンツンと突いて様子を伺った。
小林は、バイトが終わると、スナック止まり木に直行して、飲み明かすようになっていた。アパートにいると、いつ、ひなのがやって来るかわからない。さして、交友関係のない小林の、唯一の避難先になったのが、このスナックであった。
いつの間にか、みんなから、コバちゃんと呼ばれるようになっていた。
立石の顔が、ぼおっと目の前に現われた。
まただ。酔うと決まって現れる。
「小林。今回はお前の勝ちだ。読者アンケートもお前の方がいい。連載の話も進んでいるみたいじゃないか。先を越されたよ」
「うるせえな」
小林は、目の前を手で払った。
すると立石は、小林の後ろに回って、肩に手を回してきた。
「ところで、田村かすみはなんと言ってた?マンガは届けたのか?お前のデビュー作を彼女に読んでもらって、褒めて貰えよ。今度、連載することになったって、報告して来いよ」
立石は、小林の耳もとで、嘲笑うように、囁いた。
――ウザいんだよ。お前は!
小林は、思いっきり振り返って、腕をぶん回した。
ぐるりを囲んでいた、大久保、社長、井上が、オオっと、半歩下がってよけた。
その勢いで、椅子からずり落ちた小林。
顔面を床に押し付けながらも、クソー、クソーと何度も床を拳で叩いた。
もちろん立石など、どこにもいなかった。
* * *
「おお、そういうことか」
上杉は、ノートPCを前にして声をあげた。
忙しい合間を縫って、設定資料を作成するため、エピジェネティクスに関することを調べていた。次第に興味が深くなって行く。
「洞窟魚の目は退化したわけではないのか」
洞窟という暗闇の世界では目を使わなくなったので、目が退化した。
と、よく言われるが、そうではないらしい。
洞窟魚は、目を作る遺伝子が完全に消えたわけではない。
実際には、発生の途中までは目を作ろうとする。
ところが、途中で発生プログラムが止まる。すると目が消える。
光の届かない暗闇の世界では、目はほとんど役に立たない。
その代わり、嗅覚や水流感知能力が発達している。
「目を失ったんじゃない。本来、目をつくるコストを、別の能力を伸ばすことに切り替えた」
上杉は腕を組んだ。
「だとすると、退化じゃないな」
むしろ環境に合わせて最適化しただけだ。
「ああ、それでコバちゃんは変化って言ったのか」
確かに、進化とか退化とか、なにを持って言っているのか、はっきりしない。
洞窟魚は、目が退化したのではなく。嗅覚や水流感知機能を進化させたともいえる。
そもそも、進化という進歩的な方向性すら、嫌う学者もいる。
と言っていたが、なるほど、そういうことかと腑に落ちた。
進化とは、優れた者が生き残った。このイメージが強い。
自然淘汰。適者生存。ついつい、勝ち残ったものと思いがちだ。
だが、洞窟魚を見ていると、それだけでは説明できない気がする。
目を捨てた代わりに別の能力を伸ばした。
水流感知能力なんて、はじめて聞いたが、どこまで、なにを、感知できるのか?
どちらが上で、どちらが下なんだ。
なるほどなあ。と呟き、上杉はノートに書き込んだ。
『能力を得る代わりに、何かを失う』
『失ったように見えて、別の能力が開花する』
「これ、敵キャラに使えるな」
そう呟いた瞬間、また別のアイデアが浮かんだ。
「いや待てよ。人類は何を捨てた」
人類が得たものは・・・知能・知性。だとしたら、
人類が捨てたものは・・・?
上杉は、ニタリと笑った。
「よしよし。ここは、謎のまま引っ張った方がいいぞ」
『果たして、人類が捨てたものはなんなのか?』
それを探す一つのトリガーとして『友情』が機能している。
そういう事かもしれんぞ。
「コバちゃん。トカゲマンの本当の敵は、もしかして人類かもしれん。どう思う?」
ふふふ。と上杉は薄ら笑いを浮かべながら、小林にメールを送信した。
だが、一週間待ってもメールの返信はない。電話にも出ない。
小林らしくない。いつもなら、すぐに返事が来るし、折り返し連絡が来る。
「もしかしたら、体調悪いのかもしれんな」
上杉は、そう呟いてスマホを切った。
* * *
朝、開店前の花屋。
田村かすみと、店主の三浦時枝が、朝の仕入れから車で帰ってくると、男が一人、店の前で突っ伏して倒れていた。
――あっ。もしかして!
かすみと時枝に、嫌な予感が走り二人は顔を見合わせた。
一年以上前のことだ。まったく同じようなことがあった。
その時、店の前で倒れていたのは、かすみの父親、田村秀雄だった。
酒に溺れ、家を追い出され、路頭に迷い、それでも酒が止められず、廃人のようになりながら、娘の勤め先にやってきて、力尽きて、倒れ込んでいた。
かすみにとっては、もう二度と見たくない光景だった。
かすみと時枝が助け起こし、病院に連れて行き、点滴をうってもらった。
一命をとりとめた田村秀雄は、その後なんとか、生活を改善して立ち直りの兆しを見せていた。
が、また、凝りずにお酒に手をだし、この有様なのか。
と、かすみは、父親の情けない姿にほとほと呆れて果てた。
頭から水でもかけてやろうと、車から降り、荷台に積んであるバケツを手に持った。
すると、
「かすみちゃん。お父さんじゃない。だって、若い人だもん」
時枝が、突っ伏している男の後頭部を指差している。
「相当酔っぱらってるけど、生きてるわ、この人。よかったあ」
時枝は、後頭部をツンツンして確かめている。
よかった。父親じゃなかった。とかすみは一旦安堵した。
黒いコートを着て、裏返っているその男を、かすみと時枝はひっくり返してみた。
よっこいしょっと。
「とりあえず、救急車呼ぼうか」
時枝がそう言って、スマホを手に持った瞬間に、かすみが叫んだ。
――小林君!
かすみは慌ててしゃがみ込んだ。
「ちょっと、小林君!」
頬を軽く叩く。
「ねえ、しっかりして」
もう一度、頬を叩く。
小林はゆっくり目を開いた。
「うん。かすみちゃんだ」
「よかった・・・」
かすみは胸を撫で下ろした。
「どうしたの。こんなになるまで飲んで。大丈夫?」
「優しいな。君は。相変わらず。こんな僕のこと、心配してくれるんだ」
「なに言ってんの。大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない。何もかもが、辛い」
「立石君に聞いたよ。漫画家デビューしたって。よかったじゃない。夢かなったじゃない」
「これかい」
小林はコートの中から、ゴソゴソと漫画雑誌を引っ張り出した。
「これなのね。立石君と揃って二人でデビューなんて、すごいことじゃない」
大学生の頃から、小林が熱心にマンガに取り組んでいた姿を、かすみは思い出した。
「頑張ったわね」
こぼれるような笑みを、かすみは浮かべた。
「これは、僕のマンガじゃないんだ。僕は人のマンガをパクった。盗んだんだ」
――えっ。
かすみの顔から、笑顔が消えた。
第22話 終




