第21話 いい日旅立ち
コンコンとドアをノックした。
「コバちゃんいる?」
ひなのは声をかけたが返事がない。
耳を澄ませば、部屋の中の音が聞こえる気がした。
漫画を描いているのかもしれない。
それとも留守なのか。
ドア一枚隔てた向こうにいるのか、いないのか、それすらわからなかった。
もう一度ノックする。反応はない。
どうやら小林は留守のようだ。
あずさのマンガ「カナヘビマン」を読んで、アドバイスを貰えないか?
と頼んでから一か月以上は立つ。小林からは何の音沙汰もない。
ひなのは、合鍵で部屋に入って小林の帰りを待とうと、玄関横の鉢植えを上げた。
ところが、鍵がない。
湿気が多いと、鉢植えの底に張り付いている場合があるが、そこにもない。
ひなのは、あれ?っと思った。
鍵がないなんて初めてだ。
いつも、それで勝手に部屋に上がって、勝手にマンガを読み、勝手にお茶を飲んで、勝手にお掃除して、アイロン掛けまでしたこともあった。
ほっておくと、ゴミを溜める癖があるから、ゴミ出しの日は出来るだけ声をかける。
「もう、だらしないんだから」
が、いつの間にか自分の口癖になっていた。
ひなのは、小林が真剣にマンガに打ち込んでいた姿を思い出した。
「そっか。相当頑張っているんだ。邪魔しちゃまずいわ」
小林の、「今、集中しているから、しばらく遠慮してくれ」との意図だとくみ取ったひなのは、鉢植えをそっと置き直して、立ち去った。
*
小林は、玄関の覗き穴から、ひなのが帰っていく様子を見ていた。
「ふううう・・・」
息をひそめていたので、ため息を深く吐いた。
思わず、ガンッと、横の壁に拳を叩きつけた。
振り返ると、部屋の奥にあるスタンドミラーに、ぼんやりと自分の姿が写っている。
カーテンも閉め、電気も消したまま、薄暗い部屋の中で息をひそめて、小学生相手に居留守を決め込む男の姿がそこにあった。
* * *
「お疲れさまでした」
小林がバイトを終え、コンビニの自動ドアを出たところで、スマホが震えた。
立石からの着信だ。
「もしもし・・・」
「小林。おめでとう。上杉さんから聞いたよ。いよいよだな」
立石の声は、弾んでいる。
自分はもうすでにデビューを決めているだけに、余裕綽々ってヤツか。
「ああ、ありがとう。遅まきながら、俺もデビューにこぎつけることが出来たよ」
「掲載はいつになりそうだ?」
「編集部の調整では三か月後ぐらいだって。年明けだと。一月号か二月号か。立石は?」
「俺は、来月号でデビューだ。絶対読んでくれよ」
「ああ、楽しみにしてる」
「こっちもだよ。小林。じゃあな」
スマホを切った。
普通ならこういう場合。いいライバル関係になった。お互い切磋琢磨していこう。
と、飲みにでも行って旧交を温めながら、将来の夢や展望を語り合うのかもしれない。
冗談じゃない。立石と。そんなことまっぴら御免だ。
小林はスマホを、ポケットにグッと突っ込んだ。
「マンガ家さん。こんにちは」
見ると、詩織と美咲が目の前に立っていた。
コンビニの自動ドアの前に突っ立っていたから、来店の邪魔をしていたみたいだ。
「あ、ごめん。邪魔だったね。どうぞどうぞ。俺はバイト終わったから」
「ううん。そんなことより、マンガ家さん。デビューが決まったの?」
詩織が目をキラキラさせている。
「すいません。今、お電話で話しているのが聞こえちゃって」
美咲も、少し伏し目がちに、それでも興味津々に聞いてきた。
「ああ・・・うん・・・」
小林は、視線を落として頷いた。
「凄い凄い。ヤッター!」
詩織は右手の拳を突き上げて、小躍りするように飛び跳ねた。
「ちょっと、詩織。騒がないの」
美咲は詩織の袖を引っ張った。
「だって。こんな嬉しいことないじゃない。ねえ、マンガ家さん」
詩織は小林の腕に巻きつくように、抱きついてきた。
「私達、受験生だから毎日つまんなかったの。今日はいいニュースが飛び込んできちゃった」
満面の笑みを向けながら、小林の腕を、大きく振ってくる詩織。
その反動が、小林の胸の奥の引っ掛かりを、少しほぐしてくれたみたいだ。
「ありがとう。詩織ちゃんにはいろいろ協力してもらったからね」
小林も、笑顔で答えた。
「でも、本当によかったですね。一月号か二月号に載るんですか?」
美咲も、優しい笑顔のまま聞いてきた。
「今のところの予定では、そうみたいなんだ」
「ねえ。そのマンガが出たら、お祝いしようよ。スイーツパラダイスで」
詩織がそう言うと、美咲が突っ込んだ。
「あんたはただ、食べたいだけだろ」
「てへ。バレたか」
詩織が舌をペロっと出した。
「いいよ。スイーツパラダイスに行こう。受験も煮詰まっている頃だろうから、息抜きになればいいし。僕がおごるよ」
小林は、可愛い女子中学生を目の前にして、瞬間、いい恰好したくなった。
「ヤッター。」
詩織と美咲は、二人同時に手を叩いて喜んだ。
* * *
「ありがとう御座いました」
田村かすみは、花束を渡し、深くお辞儀をしてお客様を見送った。
フラワーショップ・ミウラでは、今日も、かすみのよく通る声が響いていた。
かすみが顔を上げると、「よお」と声がした。
「俺のこと、わかる?」
一人の男性が立っていた。
「立石君?」
かすみは、恐る恐る聞いた。
「やった。覚えてくれてたんだ。悦ちゃんから聞いてさ。中野に来たからさ、ちょっと足を伸ばしてみたんだ。元気でやってる?」
「わあ。久しぶり。立石君も元気?」
立石は、美大時代のかすみの友達から、ここで働いている。と聞いたらしい。
卒業してから会うのは初めてだ。体格が少しガッシリして、貫禄がついた感じだ。
「花屋さんで働いてるなんて、かすみちゃんにぴったりだ」
「結構、力仕事だからね。手にいっぱい傷もついて、絆創膏だらけで恥ずかしい」
かすみは、両手を後ろに組んで、隠した。
「そんなことないよ。カッコいい手だよ」
立石は、真っすぐにかすみを見ていた。
「あ、これって。かすみちゃんの作品?」
店の棚に飾ってある、小ぶりのブロンズ像を、立石が手に取った。
「そう。よくわかったわね」
「わかるよ。ジャコメッティみ、があるからね。好きだったもんね。まだ彫刻やってる?」
「うん。時々、無性にやりたくなって、没頭するのが楽しいみたい。立石君は?」
すると立石は、肩掛け鞄の中から、一冊の漫画雑誌を取り出して、
「実は、俺。漫画家デビューしたんだ。これがその、今月号」
「ええ。すご~い。漫画家さんになったの。凄い凄い。見ていい」
そう言って、かすみはマンガを開いた。
「苦労してようやくデビュー出来たから、嬉しくてね。昔の知り合いに見せたくて、配って回っていたら、悦ちゃんから、かすみちゃんのことを聞いて、それでね」
「わあ、知らせてくれてありがとう。なんか感激感激」
かすみは、パラパラとマンガをめくりながら、声を弾ませた。
「ところで、小林もデビューするんだ。年明けの一月号か二月号で」
「え?」
かすみは手を止めて、顔をあげた。
「同じ漫画雑誌で同じ編集者。偶然にも同級生の俺達がだ」
立石の顔が、グッと引き締まっていた。
「小林って、あの、小林君?」
「ああ。あの小林だ」
「そうなの? 小林君も漫画家に・・・」
「ごめん。別れたって聞いたから、あいつのことは聞きたくないかな?」
「そんなことないよ。元気でやってるんだ。小林君」
かすみは、小林の朗報を聞いて、ホッと、胸を撫でおろした。
自分の父親との衝突が原因で、小林とは自然消滅のように別れた。
でも、彼に非はない。
小林君は悪くないのに、辛い思いさせてしまった。
と、今でも思っている。
「そこで、みんなにお願いしてるんだけど。いいかな?」
「なに?」
かすみは眉間に皺を寄せて、聞き返した。
「俺のマンガと、二、三か月後に出る、小林のマンガ。どっちが面白いか。読んで、感想を聞かせてくれないか?」
「え?」
「俺と小林は、これからライバル関係として、凌ぎを削っていくことになる。とんでもなくシビアな世界だ。昔の、同級生時代の様なわけにはいかない。プロとして、戦うことになる。その初戦が幕を切る。まずは、俺達のどちらが、スタートダッシュで相手を制するか。要は、どっちが面白いか。を知りたい。どっちに転んでも、それは俺達のバネになると思うんだ」
立石の、突き刺さるよな真剣な眼に、かすみは少したじろいだ。
「いいけど。両方面白かったら、優劣つけられないかも」
「それならそれでいい。それも一興だからね」
立石はほのかに笑って、返した。
* * *
「コバちゃん。扉絵を頼む」
上杉さんから、電話があった。
扉絵とは、タイトルページだ。
そっか、掲載が決まると必要な段取りだ。
完成原稿を仕上げたあとにくる、大事な作業が残っていた。
掲載される実感が、リアリティを持ち始めた。
「上杉さん、扉絵を描くのに何か決まり事はありますか?」
「多少あるけど、気にしなくていい。好きにやってくれていいぞ」
「タイトルも自分で入れていいんですか?」
「ああ、任せる。こちらで入れてもいいし、そっちで決め打ちしてもいいよ。コバちゃんの画力なら、その辺のデザイナーより信頼できる」
「はい。ありがとうございます」
上杉の言葉が、不安定な小林の気持ちを、つなぎとめた。
「上杉さん。扉絵のコンセプトは、友情。でいきます」
咄嗟に口から出た。
「早速来たな。このヒーローの武器は、友情。だからな。それで行こう」
「はい。締め切りは?」
「一週間後には欲しい」
「わかりました」
「いいのを頼むぞ! コバちゃん」
「はい!」
ヨッシャー。と声をあげ、小林は椅子から立ち上がった。
*
まずは、ラフ案を10枚だ。
小林は次から次へと、アイデアを紡いではラフに落とし込んでいった。
主人公の少年二人。
少年達の友情がほとばしるような、構図、ポーズ、表情、シチュエーション。
「違う。こんなもんじゃねえ」
何度も消しゴムをかける。
「もっと手を伸ばせ。こうだ。このぐらい」
鉛筆が勝手に走り回る。
「歯を食いしばってるはずだ」
目を爛々と輝かせ、口角をあげながら、小林は紙に向かっていた。
悪の組織の魔怪人はシルエットだ。目だけが光っている。
俯瞰して、離れたところから狙っている。
「おどろおどろしい、不穏な空気感だ」
トカゲマンはアップにするか、バストショットか、いっそ立ち絵にするか。
印象的な鋭い眼。鱗の質感。筋肉のライン。マントのひるがえし方。
アップにすると引き立つ、所々、鱗から羽根に、段階的に変化しているディテール。
恐竜から鳥類へ、進化の過程を模した。このこだわりは見せたい。
「そう言えば、進化生物学の先生が言ってたな。どれだっけ」
小林は、ネットの動画をあさった。
「生物には必ず個体がある。個体には必ず遺伝物質が入っていて、世代を超えて変化する」
――そうだ。変化だ。
トカゲマンの変身は変化だ。
「DNAの二重螺旋構造をイメージとして打ち出そう」
アデニン・チミン・グアニン・シトシン。
4種類の塩基配列が結合しては、離れ、ズレて、また結合する。
「まるで、精密稼動する産業用ロボットのごとく。ガシャーンと音が響く」
トカゲマンの、鱗が変化して羽根になる。一本だけ長く伸ばしてみた。
「そうか。コイツ、そのうち羽根が生えて、飛び始めるぞ」
小林は興奮しながら、夢中でペンを走らせた。
10枚のラフを描き上げた小林は、全部を壁に張り出して、腕を組んでじっと見つめた。
カレーパンの袋を引きちぎるように開けて、がっついた。
ムシャムシャと租借しながらも、ラフ案を睨みつけた。
キッチンに向かい冷蔵庫を開けた。
二リットルの麦茶をそのまま口につけ、カレーパンを流し込んだ。
ふうう。と深いため息をつきながらも、集中は切らさずに、またラフ原稿の前に立った。
そのまま、壁に貼り付けたラフに修正を加えていく。
右端から順番に手を入れていった。
気に入らないものには、途中でグシャグシャと線を走らせ、投げ捨てた。
三枚残った。
いつの間にか、外が白白と明るくなり、朝が来ていた。
小林は窓の外を見た。朝焼けが眩しい。
一睡もしていない。だが、不思議と眠くなかった。
壁に残った三枚のラフ。自然光に照らされている。
どれも悪くない。いや、悪くないどころじゃない。
「世界が広がった」
気が付くと、そう呟いていた。
向かいの家の窓に、人影が現れた。
多分、ひなのだ。合わせる顔がない。
小林は素早く窓とカーテンを閉めた。
すると、ひなのの歌声が聞こえてきた。
「いい日、旅立ち~」
かすかに聞こえてくる歌声。
その声は明るくて、どこまでも真っ直ぐだった。
小林は、カーテンをグッと握り締めた。
* * *
結局、扉絵は三枚完成させた。あとは、上杉さんに選んでもらえばいい。
そう思って、持ち込みブースのテーブルの上に、三枚を横に並べた。
久々に編集部を訪れた小林は、意気揚々と上杉を待っていた。
「コバちゃん。お待たせ。おお、いいね。迫力あるな」
上杉さんが扉絵を見て、開口一番響かせた。
「結局、三枚仕上げちゃいました。上杉さんが選んでください」
「よし。編集長とも相談して決めよう。そうだ。コバちゃん、立石君が打ち合わせで来ている。コバちゃんに会いたいって言うから、ほら」
「えっ・・・」
立石が顔をヒョコっと、覗かせた。
「よお」
「ああ・・・」
すると、立石が、テーブルに視線を落とした。
「さすが、小林だな。圧倒的な画力だ。俺なんか、まだまだだな」
扉絵に顔を近づけ、なめるように見回している。
「そんなことないよ。俺だって、まだまだだよ」
小林は、上から、立石の頭に向かって、そう投げかけた。
すると、立石はむっくりと顔をあげた。
「けど、マンガは画力だけじゃない。そうだろ。小林」
「ああ、その通りだ」
思わず、返した。
「いいねえ。同級生がライバルとして競い合う。美しいな~」
上杉さんが、パンパンと手を叩き、変に澱みかけていた空気を払った。
「わかった。そのうち誌上対談企画をやろう。同じ大学の同級生が二人。同時期にデビューを飾った。これまでの苦労話や学生時代の思い出話など、話題は豊富だろうからな」
「いいですね。是非、その企画お願いします」
立石は二つ返事だった。
「じゃあ、コバちゃん。この三枚は預かる。ちょっと待っててくれ」
上杉さんが出て行くと、ブースの中で、立石と二人で、向かい合って座った。
立石のマンガはとっくに読んでいた。
なかなか面白かった。自分には無い発想だと感心した。
この場合、変に誤魔化さず、取り繕わず、正直に感想を述べるべきだと思っていると、立石が先に口を開いた。
「田村かすみに会ってきた」
「え? なんで」
「俺のデビュー作を読んで貰うためだ。直接、届けてきた」
こいつ、何考えているだ。今さら、田村かすみの話題なんて、どうしたいんだ。
「小林がデビューすることも伝えた」
「ええ?」
「彼女、喜んでいたよ。お前が元気でやっているって聞いて」
「そうか・・・」
小林の脳裏に、かすみの、かつての笑顔がよぎった。
「よかったら、俺のマンガを読んで、感想を聞かせてくれって、頼んできた」
「なるほど・・・」
「そして、こうも頼んできた。小林のデビュー作も読んで欲しい。そして、どちらが面白かったか。正直に言って欲しい」
「はあ?」
小林は表情を硬くした。
「田村かすみは、了承してくれたよ。但し、両方面白かったら、優劣はつけられない。とも言ってた」
「両方つまらないって言われたら、どうするんだ」
小林は低い声で言った。
「いいじゃないか。面白いって言わせるまで、描き続けるさ」
立石は、大きく頷いていた。
小林は、視線を外した。
「小林。俺はお前と勝負したい。受けるか?」
小林は、外した視線を元に戻すことが出来なかった。
「もし受けるなら、お前の手で直接、田村かすみにデビュー作を届けてくれ。俺と同じように。これが、彼女が働いている花屋さんの名刺だ。中野の新井に店はある。駅から歩いて20分ぐらいだ」
「花屋で働いているのか?」
「ああ、石田悦子に聞いて、やっと彼女の居場所をつきとめた。勘違いするな、ストーカーなんて、やっていないからな」
「わかってる。バカなこと言うな」
小林はテーブルに置かれた、花屋の名刺に手を伸ばした。
「俺が、お前のマンガを持って行くのはおかしいよな。わかるだろ。それに、条件を揃えたい。俺は直接手渡した。お前も直接渡してきてくれ。電話して、郵送するとか、それでは意味がない」
「なに勝手なこと言ってんだ」
小林は、ボソッと呟いた。
「わかってる。小林。俺はお前に、勝手に宣戦布告しているんだ。お前と勝負がしたい。マンガだけではなく、何もかも」
ようやく、視線を戻すと、
立石が、真っすぐにこちらを見ていた。
「ごめんごめん。お待たせ」
上杉さんが帰ってきた。
「どう。これから飯でも行こう。神田に、いいウナギ屋があるんだ」
「ああ、いいですね。俺ウナギ大好きなんですよ」
立石が返した。
「すいません。俺はこれからバイトがあるんで・・・」
小林は、そう言って断った。
* * *
その夜、小林はビールや焼酎など、慣れないお酒を買い込んで帰宅した。
バイトなんか、その日は入れてなかった。
なんだったら、上杉さんと食事に行くかもしれない。と期待していた。
だが、逃げるように帰ってきた。
立石の真剣な眼差しがこびり付いて、頭から離れない。
ビールや焼酎の缶を次々と開けて、がぶ飲みした。
飲んでは吐き、飲んでは吐きを繰り返した。
そのうち、トイレの縁に手を掛けたまま、意識を失った。
* * *
クリスマスソングが町に溢れている。
大きなクリスマスツリーには、赤や金のボールや星などの装飾がぶら下がっている。
それらは光を反射して、きらきらと揺れていた。
駅ビルでは、今年も恒例の、のど自慢大会が開催されていた。
「もう、そんな時期か」
小林はそう呟いて、遠くから、ステージに目を移した。
ひなのが歌っていた。
「いい日、旅立ち~」
これに出るための歌だったのか。
ひなのは、マイクを両手で握り締め、はるか遠くを望むように伸びやかに歌っていた。
小林は最後まで聞くことなく、足早にその場を離れていった。
駅ビルから出るころに拍手が起こった。
小林は振り返ることなく、雑踏の中に消えた。
* * *
年が明け、スナック止まり木にも新年が訪れた。
玄関には礼子が飾ったしめ縄が掛かっていた。
しめ縄の横には、近所の子供達が折った折り紙の鶴がぶら下がっている。
入口の両脇にはミニ門松が置かれていた。礼子が毎年飾る正月の定番だ。
その横には、常連の誰かが置いていった小さな干支の置物が並んでいる。
いつの間にか、正月飾りなのか何なのかわからない賑やかさになっていた。
「ママさん。もう一杯ください。ヒック・・・」
カウンターに突っ伏した客が、手に掴んだグラスを差し出した。
「ちょっと、大丈夫かい。飲み過ぎなんじゃないかい?」
ほとんど酔いつぶれた客に向かって、礼子は、心配気味に声を掛けた。
スナック止まり木に、今日初めてふらっと訪れた一見のお客さんだ。
新年一発目から、新規のお客さんとは、縁起がいいと思って向かい入れていた。
「いいじゃないですか。お祝いなんですよ。お祝い。飲ませてくださいよ」
その若い男は、顔をあげ、焦点の定まらない目で礼子にうったえた。
「そうかい。そんなにいいことがあったらならね」
と、礼子は、グラスを受け取り、焼酎の水割りを作り直した。
「で、どんないいことがあったの?」
礼子が焼酎の水割りを差し出して、そう聞くと、
「僕、今年デビューするんです。デビューが決まったんですよ」
「へえ、それは良かったわね」
礼子がそう答えると、男の顔が歪んだ。
「で、なんのデビュー?」
「こう見えて、マンガ家なんですよ。僕は」
「へえ、それはすごいわね。じゃあ、お祝いしなくちゃね」
「でしょ。喜んでくれます? 嬉しいな。喜んでくれるんだ。ママさんいい人だ」
その若い男の顔が青ざめてきた。
礼子は、嫌な予感がして、その辺にある、おしぼりやタオルを掴んだ。
「僕は、僕は、ちっとも・・・オエッ」
と、男はそのまま、少し嘔吐した。案の定だ。
カウンターに咄嗟に置いたタオルがなんとか受け止め、幸い、辺りを汚すことはなかった。
「大久保ちゃん!」
礼子がそう叫ぶと、
カウンター席の反対側で、社長と飲んでいた大久保が、反射的に動いた。
大久保が、その若い男をトイレに抱きかかえて連れて行き、背中を擦って全部吐かせた。
「ふう・・・」
大久保が嘆息して、トイレから男を抱きかかえて出てきた。
ボックス席に座らせると、
その男は、バタッと倒れて、死体同然のようにつぶれてしまった。
「参ったわね。今日初めて来た客だから、どこの誰かもわからないのよ」
礼子は、腕を組んで首を傾げた。
すると、社長が男の尻ポケットにある財布を見つけて、指差した。
「おい、警察官。この男の素性を調べなさい」
と、大久保に促した。
大久保が、財布の中にある免許証を取り出して確認した。
「近くのアパートに住んでいますね。僕が担いでいって、家まで送りますよ」
「うん。たまには役に立つじゃないか」
社長が、冷やかした。
「たまにはって、厳しいなぁ」
よっこいしょっと。
大久保が若い男をおぶって店を出て行こうとした。
礼子が聞いた。
「ねえ、その子。なんて名前なの?」
「小林君ですね。小林祐樹と免許証にはありましたよ」
大久保は、背中からずり落ちそうな小林を、グッと持ちあげ、店を出て行った。
第21話 終




